ベガとアルタイル 嶋田直樹の物語

 ――09:05――


 嶋田直樹は今日も自堕落な人生を歩む予定だった。


 7時間のバイトを最低限のコミュニケーションと元気で無気力に過ごし、残りの17時間はYouTubeかゲーム、それと惰眠で使い尽くすつもりだった。


 直樹が起きたのはちょうどバイト開始の5分後。遅刻常習犯の彼にとってそれはたいしたことでは無かった。ただいつもと違う点は、店長からの電話履歴が無い。習慣で枕元の携帯の電源を付けても、09:05の文字の下に何も表示されていなかった。


 遅刻はこれで5度目。ついにクビになったか。そう考えた直樹はのそりと上体を起こし、そして手持ち無沙汰にテレビを付ける。


 その瞬間、彼の人生は地球と共に砕かれることを知ったのだ。穏やかなクラシックと、繰り返しのアナウンスによって。


  「隕石が衝突するまで後24時間となりました。どうか地球のみなさま、最後の時を心安らかにお過ごしください」


 7月7日、ベガとアルタイルが煌々と瞬き、織姫と彦星が運命的な出会いをするその日、どうあがいても地球が滅ぶという運命に、地球上の全ての人類は騒然としていた。


 普段いつもテレビをつければ見かけるような大人気アナウンサーが、いつもとは違うスーツを着て、厳粛な雰囲気でテレビの前の自分たちに語りかけている。何度も、何度も……。映像をすこしかじっていた直樹は、これが繰り返しの映像だと気づく。


 世界が終わるその時まで、人は労働者になり得ない。人は労働に死ぬのではない。その人生に死ぬのだ。だから皆それぞれの家庭に戻り、「自分」として最後を過ごすのだろう。


 それだからか、警察も消防も、規律を守る立場の人々も自らの人生に後悔のない終止符を打とうとしている。今この瞬間、この地球上にルールなどあってないようなものだ。だからか、家の中にいても怒号や破壊音がそこらかしこから聞こえてきて、画面の中の人間が望む安らかな世界とは言えない騒然とした世界が広がっていた。


 後24時間で全ての人類が滅ぶ。


 なのに、直樹は何をすれば良いのか分からなかった。


 「母さん。今日地球終わるんだって」


 キッチンの方にそう話しかけても返事は無く、そちらを見ても本来そこにいるはずの母親の姿は無かった。代わりにあったのは、ダイニングテーブルの上にあった置き手紙だった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


   直樹へ。


   今日、地球が終わります。


   母さんと父さんはお互いの実家に戻って、最後の時間を過ごそうと思います。


   直樹も最後くらいは自分の好きなことをして過ごしてね。


   27年間、素敵な思い出をありがとう。


   母より。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 最後に残すメッセージにしては偉く簡素だな。そう直樹は思った。しかしそれもきっと今までの人生の賜だなと納得することにした。


 彼が生まれ落ちてからの27年。その27年の道程を平均して例えるなら、起伏も障害もない、ただ平坦な下り坂だ。


 小中高での彼は、いわば脇役のような存在で、得意不得意も無い、良くも悪くも目立たない生徒だった。成績は中の下、特筆すべき得意科目の無い、全て平均点より少し下の点数だった。


 人間関係もそれなりで、ほどよく友達を作り、学校の終わりに多少雑談して帰る。その程度の人間関係だけを構築し、何でも語り合える親友を作ることは無かった。しかし27歳となった今でも関わりつづけているような人は居ない。当時の人達とは疎遠になり、今ではもはや何をしているかすらも分からない。


 特に誰ともトラブルを起こさなかった直樹が初めて挫折を覚えたのは大学受験だった。それなりで過ごしてきた彼にとって、自分らしさを求められる大学受験とは致命的に相性が悪い。地頭の悪さも手助けして、両親の希望していた大学は全て落ちた。その時ですらも、直樹は何も思わない。悔しそうにする両親の姿だけは覚えている。結局両親の強烈な後押しがあって、名前を言われてもパッと思い出せない三流校に後期試験で入学することになった。


 その後も、まともな熱意を持たずなあなあに過ごした結果、2度の留年を経て就職の失敗。苦肉の策フリーターという今の立場に落ち着くことになった。


 それから3年。最初のうちは再就職を応援してくれていた両親も、日に日に掛ける言葉が少なくなり、やがて直樹の就職の話題は、家庭で触れてはいけない禁忌タブーとなっていた。


 

 ――9:20――


 

 直樹は雑に焼いて真っ黒になったトーストをかじりながら、先ほどと何ら変わりないテレビを眺めていた。


 「好きなこと……ねぇ」


 トーストをかじった一口目で何も塗っていないことに気がつき、片手間でジャムか何かを探しながらそう独りごちた。実際母親が望んでいるような有意義な終焉の迎え方を思いついていない。今の直樹にとっては、普段立つことの無いキッチンからバターを見つけ出すことよりも難しいことだった。


 今の直樹には狂うほど熱中する趣味も無ければ、目指している目標も無い。本当に何をすれば良いのか分からなかった。結局直樹が朝の支度を終える10時半まで起こすべき行動は思いつかず、いつも通り過ごすことにし、先ほど降りてきた階段を上って自室の扉を閉めた。


 

 ――16:00――


 

 携帯の充電にポップアップで現れた、「充電残量があと10%です」の文字ではっと気がついた。あれだけ高かった日もいつの間にか傾き、空に僅かな暖色を加えている。相変わらず外は混乱を音で表現しているが、一歩も外に出ていない直樹にとっては対岸の火事だ。どうやらあれから6時間近く携帯を見て時間を殺していたらしい。携帯を充電しようと机に向かったが、次の日が無いのだからこれ以上充電を延ばしても意味が無いと気づき、熱くなった携帯本体を放り投げた。


 大げさな効果音や演技のような人の声がひっきりなしに流れていた部屋が数時間ぶりに静かになり、周りの音がより際だって聞こえる。車のフロントガラスが砕けた音が聞こえ、爆音と共に閉めきったカーテンの裏が一瞬だけ明るくなった。


 外の喧噪がこの自室の静けさを浮かすように際立たせ、この自室が不思議と名残惜しいものに錯覚する。カーテンの汚れ、本棚に積もった埃、消しかす1つ無くなった勉強机、この机は小学生の時にねだったものだっけ……。浪人生の時は怪しまれない程度に使っていたが今じゃ全く使わなくなった。本棚にも参考書や教科書、漫画などがざっくばらんに詰め込まれている。そして直樹はベット横にある、乱雑に散らかったこの部屋に似つかわしくない不自然に空いたサイドテーブルに目線を移す。


 かつてそこには彼女、長谷川美夏との思い出があった。


  彼の人生に、もしただ一つだけ輝いた瞬間があるとすれば、それは長谷川美夏と付き合っていた2年間だろう。


「直樹くん。ちょっと、いい?」


 大学3年、合コン帰り。改札に向かおうとした時、後ろからこう言われ、帰ろうとしていた足取りを止め、振り返った。そこにはすこし頬を赤くした長谷川美夏がいた。


 彼女、長谷川美夏とは学部が同じで、履修が被ることが多かった。比較的真面目な性格で、出席は欠かさない優等生。何度かレジュメを借りることはあったが、ここまでの事を言われる関係値は作っていないはずだった。


 だからこそ声をかけられた理由が分からなかった。合コンで意気投合したわけではない。つかず離れずの距離感でただ一緒の空間で飲み食いしただけだ。美夏は直樹が足を止めたのを好機にまだ続ける。

 

 「直樹くんって、いま彼女いるの?」


 突飛な問いにただ呆然としてしまった。酔いも回っているせいか、言われた言葉の情報が瞬時に理解できない。自分はあくまで、ただでさえ回ることの無い頭を酒霧の中巡らせているだけなのに、どうやらそれが熱心に聞いているように見られたようで、彼女はもじもじとしだす。


 「もしいないなら、もう少し飲んでいかない? 二人で」


 彼女は先ほどより赤くなった顔で笑う。駅の目の前だったのにその喧噪は少しずつ遠のいていき、彼女のその姿が輝き始めた。ショルダーの空いたワンピースから除く健康的な肌色、暗くても分かるほど白い歯、その歯が顔を覗かせたえくぼの似合う笑顔。終電近くのどのきらびやかなネオンや街灯より彼女の存在はまぶしかった。その言葉の真意を理解するのに時間はいらなかった。大学3年の夏、初めて女性にお誘いされたのだ。その衝撃はあらゆる感覚を置き去りにして、ただ驚くことだけしか出来なかった。


 「本日の営業は終了しました」というアナウンスで我に返る。終電がなくなった。明るかった改札にシャッターが徐々に降りてきて、そして閉じた。彼女はいつのまにか自分の横に陣取って、華奢で美しい指を自分の手のひらに絡ませていた。帰るすべを無くしたはずなのに彼女は慌てる様子が無い。つまりだ。


 それから美夏との関係は始まった。それは何よりも楽しく、嬉しく、素晴らしい日々だった。端から見たらそれは充実したカップルだっただろう。取れる授業は極力共に取り、ほぼ毎日メッセージアプリでやり取りをした。放課後もできるだけ長く時間を共有した。休みの日はらしくも無いデートプランを立て、共に笑い合った。それは何よりも楽しく、嬉しく、素晴らしい日々だった。


 しかし彼等は、少なくとも彼は優秀な生徒では無かった。もともと器用では無い直樹にとって彼女と勉強の両立は難しく、彼女という魅力的な誘惑を優先してしまうのは予定調和とも言えた。結果として2度進級の機会を逃すことになった。彼女はそれでも寄り添っていたが、3年生になるまでの期間が延びる度、直樹はどんどんと腐っていった。

 

 「ねぇ直樹、今年進級できる?」

 「あー多分出来るよ」

 「でも最近学校行ったの見てないよ。私もう社会人なんだけど」


 美夏はすでに卒業していたが、未だに直樹は3年のままだった。

 

 「だからなに?」

 「焦りとか……、ないの?」

 「何で焦る必要なんかあんだよ。なんとかなんだろ」

 「……それ、いい加減にしてよ。なんとかなるなんて言って、結局なにも変えようとしてない! 計画性は? 私が好きだった直樹は何処行っちゃったの!!?」

 「うるせぇな!」


 ガシャンと、非日常な音が部屋に響く。灰皿が割れた。いや、自分が割ったんだ。怒りにまかせて、己が拳を振り下ろしていた。静まりかえった部屋のフローリングに、今度は滴のしたたる音が聞こえ出す。


 ぴたり、ぽたり


 二人で選んだ白地のカーペットに赤いシミが出来ていく。薄明るい色の生地が赤黒く染まっていく。まるでそれがエンドロールだと言わんばかりに、音に焦って直樹はせき立てる。


 「偉そうに言いやがって! お前に何が分かるんだよ! ちゃんとしてるお前には俺のことなんて分からねぇよ!」


 言葉は止まらない。もう直樹は止まれなかった。


 「そうだ、お前だって内心見下してんだろ! こんな俺を彼氏に持って。どうせ会社でいい目で見られないからそう言ってるんだろ!! 見栄のためなんだろ!! お飾りの彼氏がこんなんで恥ずかしいんだろ!!」


 最初は四肢のコントロールが無くなり、そして口の自制も効かなくなった。もはや別人と成り果てた直樹は灰皿の破片を握ると、それを


 「そんなに嫌なら別れろよ!! こんな俺なんてさっさと捨てろよ!!!」

 「……そんな人だと思わなかった。」


 声色の変わった美夏を見て、初めて自分のした過ちに気がついた。焼け付くように熱を持った顔も拳も、彼女の顔つきがすべて奪ってしまった。何も言えなくなった直樹に、ただポツリと彼女が言った。


「……間違いだったんだね。もう出てって」


 その会話を最後にこの関係は終わってしまった。何より輝いていたあの笑顔はそこには無く、代わりにあったのは食いしばった歯と、涙を蓄え、もう合うことの無い目。体現していたのは怒りと失望だった。それからはもう一言も言葉を交わしていない。連絡先を消されてしまっているのか、数度メッセージを送ったが、返信は無い。今じゃ何をしているかすら知り得る術はなかった。


 関係が終わってしまってから直樹の行動は早かった。二人で撮った写真を破り捨て、もらった贈り物は乱雑に捨てるかリサイクルショップに持ち込んだ。幾ばくかのお金になり、それで一時的な愛を買ったりもした。結果自分の口座をかえってすこし減らす結果になったのは、後先を考えない自分の性格を良く表している。


 あれだけサイドテーブルにまぶしい思い出があったはずなのに今は埃しかない。それが自分の人生のまぶしい瞬間はすでに過ぎ差ってしまったことを示しているようで、余計に惨めさを感じる。誰もいなくなってしまって、周囲の騒音しか聞こえてくれない自室にただ一人。そして輝いていたサイドテーブル。まるで世界からつまはじきにされているような錯覚を覚えた。


 世界に必要とされていないのなら、世界から忘れ去れるようにして消えてしまおう。そう思い、布団にもぐりこんだ。携帯が僅かに震えた音が聞こえた気がしたが、きっと携帯からの充電の催促だろう。そう思い、眠りに落ちていった。

 

 

 ――19:00――



 睡眠が浅くなった。眠っていて意識が無い感覚から、目をつぶって寝たふりをしているという感覚に推移する。この時間は大体家族の夕飯の時間だ。きっと27年の生活で染みついた生活リズムが直樹の意識を眠りの泉から引き上げたのだろう。そして気づいた。まぶたの奥側が寝たときと僅かに明るい。電気を付けっぱなしにしてしまったのか、そう考え、一度目を開けることにした。


 目を開けると、そこには先ほどと変わっていない部屋があった。バラバラな本棚、ゴミの詰まったクズ籠、そして


 直樹はそこではと気づいた。なぜまだ薄明るいんだ? 部屋の中にあるデジタル時計を見ると、そこにはやはり19:00の文字が表示されている。夏場の19時はちょうど日の入りの時刻だ。夕日も傾き始め、電灯の光も徐々に目立ってくるぐらいには暗くなってくる。しかしカーテンの向こう側から見える外の明るさは、16時の、人の営みが終わる気配を見せないほどの明るさだ。変だと思い、その布を数年ぶりに開いた。


 そこには幻想的な世界が広がっていた。普段の街中の様子は変わらない。いつもより騒々しいぐらいではあるがそこは想像の範囲内だった。しかし、それを凌駕してしまうほどに、星空はひどく鮮烈だった。


 夕日はとうに沈んでいて、太陽の光はもう水平線の下に沈みかけている。役目を終えた太陽は手短に自分の周囲を橙にそめ、宇宙は主役交代だと言わんばかりに、太陽が届かなかったところを深紺に染めていた。そのグラデーションはあまりにも圧巻であったが、その空にはまだ煌めくものがあった。隕石だ。何千、何万もの箒星が、四方八方に、しかしほぼ全てが、自分の立っている大地に向けて、空にない光色を瞬かせていた。まるで空から咲く何輪もの彼岸花のように、未曾有の流星がそれぞれ大気との摩擦で己を燃やし、太陽の代わりに空を染めていたのだった。

 

 直樹はこれで実感する。これで世界は終わるのだ。自分達人類は、その文明と知恵を理不尽に奪われようとしているのだ。すると途端に口惜しくなってきた。最も、直樹の場合は「後5時間で何かできることはないか」ではあったが……。


 椅子に座り込んで、あるものが目に入った。それは充電が切れかけた携帯だ。先ほどから3時間ほど立っているからか、残量10%と書かれていた表示はいつの間にか1%と表示されていて、携帯がもう虫の息だということを知らせていた。しかし直樹が見ていたのはそこではなく、その下のバナーだった。


 表示されていたのはもうまともに使われることのなくなったメッセージアプリのアイコンに、白と黄緑のマグカップの写真。それは直樹にとって見慣れすぎていた。


 長谷川美夏のアイコンだった。


 それに気がつき、大急ぎでメッセージを開くと、そこに彼女からのメッセージは無かった。代わりにあったのは「長谷川美夏メッセージを送信しました」の表示。彼女が数年ぶりに、自分に何かメッセージを送ってきた証拠だった。


 思わず携帯を開く。充電の無い携帯は動きが鈍く、普段より動作が遅かった。やっとの思いで彼女の連絡先にたどり着くと、そこにメッセージは無かったが、「長谷川美夏がメッセージの送信を取り消しました」とだけ表示されていた。


 何年ぶりかの彼女からの連絡。心が躍らないわけが無かった。そして、これほど心がざわつくことも無かった。一体彼女は何を伝えたかったのだろうか。最後に捨て台詞でも残したのだろうか。いくら考えても、その謎は深まるばかりだ。まるで自分で答えにたどり着け。そう言わんばかりに携帯の画面は真っ黒に暗転し、なりを潜める。


 「美夏……。今何してんだろうなぁ」


 言わないように無意識に避けていた彼女の名前を口にした刹那、彼女との眩しい思い出が脳を駆け巡る。彼女といることが嫌だったわけでは無い。むしろ自分の人生で、唯一主役になれたような気がしていた。主役にしてくれた彼女には感謝してもしきれない。あの日、美夏に家から追い出されたあの夜、自分は後悔した。成長し続ける彼女と、いつまでも成長することができない自分を比べ、勝手に劣等感を感じてしまっていた。


 だからあの一言を吐いた。彼女なら、それを吐いても許してくれると思い込んでいたから。堕落した自分に根気強く声をかけ続けた彼女なら、自分を変えてくれると思い込んでいたから。


 手のかからない観葉植物でさえ、最低限の手入れは必要だ。彼女と幸せになるためには、自分自身も成長をし続けなければならなかったのだ。今の自分ならば分かる。彼女は自分すら認めてくれる女神なのだから勝手に甘えても良いのだと解釈した。とどのつまり未熟だったのだ。未熟であるが故に、何物にも代えがたい愛を捨てた。今の境遇はきっとそれの報いなのだろう。


「謝りてぇなぁ……」

 

 あの時若かった自分も今やアラサー。今なら、自分がどれだけの罪をしでかしたのか分かる。自分勝手な考えと理由で、何の罪も無い彼女を傷つけた。その事がどうにも心のしこりになっているのだ。そして考える。

 

 直樹はそうやってたどり着いたのだ。自分が黙示録を目前としてするべき行動に。


 そうだ。謝らなければ。あの時、どうせ出来ないとうち捨ててしまった夢が、一つの流れ星のように空から降りてきた。あの日全てを諦め、輝くことを辞めた自分に寄り添ってくれた彼女に謝罪の言葉を。それが、自分が最後にするべき行動なんだ。そう自覚した瞬間、締め切りだった扉を開け、飛び出していた。あの時押さえた自分の野望が胸の内で息を吹き返す。静かでいつも通りだった心臓が激しく脈動をしだす。


 脈動は自分を鼓舞し、今なら出来るのでは無いかと幻想を抱く。諦めるのを諦めようとしている。


 そして激しく脈打つその胸はやがて大きな衝動となる。いつの間にか、その衝動は自分の体を突き動かしていた。


 直樹は衝動のまま玄関を開けて、そして気づいた。もはやインフラは機能していない。聞こえてくるのは車同士の衝突する音、ガシャン、ズドンと壊れる音。あちらこちらで上がる火の手の紅色。皆が皆自分勝手に車を走らせて、それ故に混沌を描いている。バスもタクシーも動いている気配は無い。美しい空とは対照的な醜い混沌の地獄だ。直樹はやっと理性で理解した。想定していた距離より圧倒的に長い。そして長く苦しい旅路になる。最初は電車で向かおうとしていたが、それは甘かったと悟る。かといってタクシーも当然使えない。使える手段は己が足だけだ。


 それでも直樹は躊躇しなかった。確実に会える保証はどこにも無い。だが、きっとあの時のマンションなら会える。最後に言い争ったあの家にきっと彼女はいるだろう。そう本能だけが言っていた。バイトで使うスニーカーを履き、家の鍵も閉めずに駆け出す。戸締まりなんて知ったことか。今は何より時間が惜しい。大学の頃に住んでいたアパートはすでに引き払ってしまっていて、直樹がいるのは実家だ。そこまでたどり着くまでには30キロ以上の遙か遠い旅路を駆け抜けねばならないと認識するには、直樹の心臓の鼓動はいささか激しすぎた。


 机の上の時計は19:15と表示している。この時この瞬間、彼の贖罪のエピローグは、こうして始まったのだ。


 

 ――20:15――

 

 

 衝動のままに行動を始めた直樹は、どうすればいいのか分からぬまま、高速道路の上に突入し、その上を走っていた。


 直樹には現在地からルート取りまで、何から何まで把握していなかった。闇雲に走るよりかは、高速道路に乗った方が目的地まで行きやすいと考えていたからだ。


 ただ一直線。あちらこちらで火の手が上がる車々を横目に、直樹は走っている。そこに疲れや弱音などはない。頭の中にあったのは、彼女との思い出だった。


 付き合い始めて一年記念のデートは、確かドライブだったっけ。それも、美夏からの申し出で……


 ……「今度の日曜日、車で海行こうよ」


 炎天下の夏の昼下がり。お決まりの文句で彼女から誘われた。自分は車なんて持っていない。免許すら、だ。それなのにドライブデートなんか出来るのかと聞くと、どうやら最近彼女がローンで買ったらしい。自分とは違い、自分の確固たる将来像を持っていた彼女は、その将来像のために車が不可欠だと言う事を早くから把握していた。そしてそれを購入することを目的に、一年生の時からお金を稼いでいたようだ。


 当時の直樹は初めての留年が決まったことで何もかもにやる気を持つことができない、いわゆる病み期で、今後の相談と反省を兼ねて実家に帰ってきていた時期だった。彼女とは毎日のように通話をしていたが、当然元気なんて出てこなかった。声から察したからだろうか。彼女は初めての運転の付き添い人に直樹を選んだようだ。家の中に充満する両親からの叱責と不安から滲み出る不快感から逃げ出したかった直樹にとって、これは願ってもいないチャンスだ。二つ返事で了承した。


「お待たせ直樹! さあ乗って乗って!」

 

 約束の当日、彼女は傷ひとつない車で待ち合わせ場所に現れた。なんて事のないボックスタイプの軽自動車。まだ揃いきっていない車の装備。新車の匂いを甘い芳香剤で無理やり塗り替えたような車内。そして前後に輝く真新しい初心者マーク。どこからどう見ても免許取りたて車買いたての圧倒的若葉ビギナーのはずなのに、運転席から除くその姿はやけに大人っぽく見える。


 「安全運転で頼むよ。美夏」

 「任せてよ! これでも何度も練習したんだ」


 それから先、目的地に至るまでの道中に楽しく無かったことなんてない。たわいもない話から、深い話まで。これから行く場所で楽しみにしていることなど、語りに語り尽くした。車の中は狭く、暑苦しかったはずなのに、不思議と居心地が良かった。


 「あっついね。ね、高速道路だけど、窓開けちゃお?」


 そう言いながら美夏は窓を全て開けた。時速80キロを有に超える車の中、容赦のない風の爆撃を車内に招き入れる。話なんてまともに聞こえないのに、その時間がたまらなく楽しく、まるで心の底によどんでいた不安すら吹き飛ばしてしまいそうで居心地が良かった。


 結果あまりに車内を楽しみすぎた自分達は、寄り道に寄り道を重ね、目的地の海に到着したのは夕暮れ時。海水浴を楽しんでいた人たちも帰路につこうという時間だった。


 西日で火照る体を、爽やかな海風がなでるように吹き抜けていく。地平線に体を埋めた夕日は、紅く自らの体を燃やし、無限とも言えそうな広い海でさえ己の色に染め上げていた。チラチラと波間が揺れ、焼け付くような陽光を自らの目元に運んでくる。それよりも眩しく、彼女の白いワンピース姿を脳裏に焼き付けていた。体は涼しいはずなのに、胸と目元がどうにも暑い。


 人の少なくなった海岸で、二人は座り、夕日を見ていた。


 「すっかり遅くなっちゃったね」

 「寄り道しすぎたな。せっかく持ってきた水着も意味ねぇな」

 「ね。せっかく選んできたのに」


 彼女はそばにあった石を拾い、海に放り投げた。ぽちゃん、と立てた音はどこか残念そうな響きをして、彼女の口を尖らせる。そんなこと気にせずに 自分は続ける。きっとまた来年、彼女とこの海に来ているという確信を持って。

 

 「じゃあそれは来年の楽しみだな」

 「その時には、お互い免許持ってたらいいね。私運転疲れた」

 「分かったよ。4年になってたら授業も少なくなってるだろうし、教習所通うことにする」

 「お、じゃあその時はお互い運転しあって、もっと遠くまで行けるね」


 いつしか前を向いていたはずの顔は彼女に釘付けだった。それは彼女も同じようで、こちら側に顔を向けている。お互いがお互いを見つめ合う。彼女の顔は、夕日という煌びやかな光で飾られて、いつもの何倍も美しく見えた。そしてその光は、自分の顔には熱を持ってくる。彼女の顔が徐々に近づくように錯覚する。自分の体も少しずつ前のめりになっている感じがする。美夏の目が徐々に閉じていき、そして己が視界もオレンジ色に変わっていく。そして……。


 「私、待ってるから」

 

 その後に言葉は要らなかった。


 ……結局あの後、直樹が教習所に通うことは無かった。むしろあの時点でお金なんてものはなく、親からの援助を受けるにも、ただでさえ1年余分に学費を払わなくなってしまった両親への金の無心は切り出しずらかった。


 だからといって積極的にバイトを入れようともしなかった。結局また口約束をしてしまったのだ。どう言い分けても、所詮守られる事のない約束だ。だが少なくともあの瞬間、あの時の直樹は、確かにそうするつもりだった。


 足をとめ、ふと路肩を見ると、ある車が横転して燃え盛っている。それは偶然にも、あの時彼女が乗っていた車と同じものだった。中を見るとそこにはスーツを着た人型の炭が横たわっている。車内はきちんと手入れされ、車の装備も整っていた。彼女とは違うはずなのに、まるで彼女がその思い出ごと燃え滓になってしまうような錯覚を覚える。


 そういえばその約束も守らなかったな。謝らなくては。


 自然とそう感じ、直樹はその足を早める。


 世界が終わるまで、あと3時間45分。



  ――22:15――


  

 いくら衝撃的な衝動が彼の体を突き動かしていたとしても、直樹に限界はある。中学高校の時ぶりの全力疾走はきちんと27歳の体力を蝕んでいた。息も絶え絶えで、今だ高速道路の上を歩いていた。頭上の大隕石はより輝きを増して、真上の空を燦然と彩っている。先ほど家で見た時より圧倒的に大きくなっていて、まるで本当に自分の真上に落ちてくるのでは無いかと錯覚するほどだった。星の光も太陽も今や夜の支配者たり得ない。人類史という演目の千穐楽。その最後を飾る大花火にその主席を譲るほか無かった。


 ふと足を止める。限界を迎えた体にはすり減った心が宿る。突き動かした衝動は今やもう欠片も残っていない。直樹の頭の中には、さっきから悪い考えしか出てこない。別れた日の小雨、荒々しく隔たれた彼女との隙間。僅かに自分から香る彼女の部屋の残滓、そして、今まで取り繕うようなことしか出してこなかった口。その喉奥には罪悪感が今も苦く残っている。何年も前のことのはずなのに、昨日のことのように出来る。先ほどはそれに報いたいという気持ちだけがあった、しかし、心身共に疲弊しきった今は違う。心のどこかにはいつしか生まれていた諦めがあった。


 あれだけ手ひどく振られたんだ。今更会っても何も変わりはしないのではないか。あの時送ってきたのはやはり恨み言で、自分はその恨み言のための奔走しているのかもしれない。そう考えると、走っている自分が惨めに思え、どうでも良くなってきてしまった。


 もしかしたらもう自分の事なんて忘れてしまっているかも知れない。嫌いのままなのかもしれない。それなのに自分は反吐を吐きながら、この長い長い高速道路を走っている。この行動には意味があるのだろうか。


 遠くの方で何かが爆発したような音が聞こえた。その音の方を向くと、確かに煙が上がっている。また車の事故だろうか。そう最初は思ったが、次の瞬間にはそれを否定していた。なぜなら直樹はその目でしかと見ていたからだ。星のかけらが、確かに地球に降り注ぎ、地球の文化を破壊した瞬間を。


 星からこぼれ落ちた小さな隕石は、青から赤く、その尾の色を変え、そして、激突した。ぶつかったのは綺麗な城。世界的に有名な遊園地の、その中心地に所在するシンボルにぶつかった。夢の国と銘打つほどの雰囲気に似つかわしくない煙は、もはや暗くない空の星々に、次の直撃を誘う狼煙のように悠々と上がっていた。


 あの時言っていた事が実現したが、今回は全くもってロマンチックじゃ無いな。


 近くに見えるそれを見て、直樹はまた思い出していた……。

 


 ……「あの花火、こっちに落ちてきたらどうなるんだろ」


 それは自らが切り出した、会話つなぎのための苦肉の策だった。


 それは付き合い始めて数ヶ月、まだお互いがお互いのことを深く知らない時だった。付き合い始めはああだったものの、元々はお互いそこまで深く知っているわけでは無い。酒の勢いもあったのだろう。しかしそんな曖昧なきっかけで始まった関係も存外悪くない。カップルらしくというものも悪くないものだ。そう考えた直樹は、らしくも無い、遊園地で花火を見るというロマンチックなデートプランを提案していたのだ。


 初めて直樹から誘われた時、美夏は驚いていた。なぜならいつも美夏が誘う側だったからだ。


 彼女はいつも提案をしてくれる。登下校、休み、講義サボり、そしてお互い予定の無い次の日までの時間つぶし。全くもってつまらない自分の人生を楽しくしてくれた彼女に、どうにかして恩を返したかったのだ。


 だがしかし慣れないことはするものじゃない。せっかくの遊園地デート、これが意外な事に全くもって盛り上がらない。直樹は休日の遊園地がどれだけ混み合うかを理解していなかったのだ。乗りたいアトラクションの目星だけは付けていたが、それに乗るために数時間は待つ事を想定していなかったのだ。


 だから実際のデートは待って待って、そして待つ事の繰り返し。5つめのアトラクションに乗ろうとしていた時間帯、まだ1つ目のアトラクションの待機列で、ついに話題が尽きてしまったのだ。その流れのまま、会話も盛り上げられず、楽しむことさえ出来ない。結局乗れたアトラクションも3つと、当初の計画の半分以下。微妙な雰囲気のまま花火の時間を迎えてしまったのだ。


 正直直樹の頭の中は反省で埋め尽くされていた。自分の、人を楽しませる才能の無さに落胆する。きっと嫌われただろう。この後は別れ話だろう。頭では理解していても、理性はそれを拒む。別れたくない。初めて出来た彼女を無くしたくない。ただその一心で、空回りするその舌をひっきりなしに動かす事を辞めなかった。それで出てきたのが最初の話題だった。


 「ねぇ……」


 彼女に話しかけたつもりだが返答はない。彼女の方を見ると、目線は花火に釘づけだ。そりゃそうだ。今日はこれを見に来たのだ。考えれば済むはずなのに、冷静じゃ無い直樹は返事がない事の方が気が気でない。反応を確認するようにもう一度ダメ押した。

 

 「……さぁ。少なくとも、この雰囲気は壊してくれるんじゃ無い?」


 背筋の凍るような返答だ。ぞくりとする返答に絶望する。そして怒っているのでは無いかと確認するように、弾かれるようにして彼女の方を見た。ああ。これで終わった。その表情がありありと出ていたのだろう。彼女は素っ気ないふりをしていたそのいたずら仮面を解き、くすくすと笑い始めた。


 「冗談だよ直樹くん! そんな悲しい顔しないでよ」

 「美夏ちゃん! ほんとに怖かったんだよ!」


 いつも通りの声で、心の底から安心する。

 

 「あはは! ごめんね。 でも……」


 ひとしきり笑った後、彼女の目線はまた花火に釘付けになっていた。夜空を彩る数種の炎色反応。それが夢の国の圧巻なライティングと相まって、浮世離れした世界を演出している。炸裂した花火は暖色のほのかな照りを放ち、彼女の顔を暖かく照らす。そして瞳には、大輪の火花が星のごとき一星を瞬かせている。背の小さな彼女なのに、人混みの中で目立たなくなっているはずなのに、直樹の目線は彼女に釘付けだった。そんな中彼女は続ける。


 「私、楽しいよ。楽しいし、嬉しい」


 彼女は美しかった空から目を離し、自分の方を見る。なぜだろう。花火の光は彼女だけを照らしているわけでは無いのに、他の観客も照らしているはずなのに、直樹には美夏しか見えていなかった。目を離せなかった。一挙手一投足、胸をかすかに膨らませて、萎ませるその一呼吸ですら愛おしく思えてくる。


 「いっつも私からだったからさ。正直勝手に私だけ盛り上がってるんじゃ無いかって思ってた。直樹くん滅多に誘ってくれないし。だから、今日楽しみにしてたんだよ」


 にへらと、いたずらな笑顔を見せてこちらを向いた。突然の行動に、まさに

 

 「それに直樹くん慣れてないでしょこういうの」


 図星だ。そして二度目の一目惚れだ。二重の照れを隠すように、半ばムキになって反論する。

 

 「そうだよ! だから空回りしてんのかと思った」

 「そういう所だよ直樹くん。私のために頑張ってくれる。私のために変わってくれる。そういう人だから好きなんだ。今のの方がね」


 彼女はそれを言い終わると、また花火の方に目を戻す。きっと彼女もそういうことを言い慣れていなかったのだろう。小さな耳がかすかな熱を帯び、赤くなっている。きっとこれはお互い不慣れな恩返しだ。そして直樹はその言葉が何よりも嬉しかった。こんな自分でも人を楽しませることが出来るんだ。恩返しが出来るんだ。そして考える。やっぱり誘って良かったと。胸に心地よい満足感を携えながら、直樹も目線を空に上げた。いよいよ花火もクライマックスだ。

 


 ……あの時打ち上げられた花火は何億何兆と膨らみ、今や地球を炸裂させようと、全てを滅ぼす鉄槌となって降りしきる。あの時切り出した答えは簡単だ。この地球上の全てが終わる。火を見るより明らかじゃないか。


 今思えば、彼女は成長していても、なお自分の事を好いてくれていたのだと気づく。だからこそ、自分の未熟さがなおのこと憎い。そして伝えなければ、「あの時なにも変われなくてごめん」ではなくて「あの時好きでくれてありがとう」と。それを伝えることが、今や自分の希望となっていた。


 直樹の体力は限界を迎えていた。息も絶え絶え、自分のすぐ後ろには、胃の中からひっくり返って出来た吐瀉物の水たまりが出来ている。それでも、自分の脳は足を止める命令をしない。いや、心だろうか。どちらにせよ、直樹はまた走り出していた。


 世界が終わるまで、あと2時間45分。



 ――23:15――


 

 一周回って閑静な住宅街。直樹がマンションにたどり着いたのは、まさに地球が終わる45分前。そこは学生の頃によく訪れていた学生街だ。あの時とあまり変わっていないようで、よく見ると僅かに建物が新しくなっていたりと変化している。


 いや、そういえば、あの時と明らかに違っていた点があったな。見上げた空は昼よりも明るく、赤白で埋め尽くされていた。先ほどの色鮮やかな彗星はもう見えず、頭上に輝く星一つが、炯然と存在感を露わにしていた。


 かつて入り浸っていた家、通り慣れていたコンクリートの道路、ハザードランプを炊いてそこに普通に止まる普通車一台。そして、目の前にいるスーツ姿の。それが、直樹が今現在見ている世界全てであり、4時間走り続けた結果だった。


 約束を交わした訳では無い。メッセージを見ることが出来たわけでも無い。ただ予感だっただけだ。いるかもしれない、会えるかもしれない、ただなんとなくそう思っただけなのに。直樹はただ驚くことしか出来なかった。


 追い出され、もう来ることは無かったかに思えたそのマンションの前にはかつての彼女、美夏がいた。


 「ひさしぶり。直樹」


 ぎこちない笑顔で美夏は声をかける。えくぼの良く似合う、変わらない笑顔だ。ただ、その顔にかつて会った若々しさはない。自分たちはすでに27歳。しかも美夏は社会に出ている。寄る年波とつきまとうストレスには叶わない。彼女はすでにになっていた。


 「その……。随分変わったね」

 「そりゃこうなっちゃうよ。5年も社会人やってたらね」


 そう言って彼女は胸ポケットから煙草を取り出して、吸い始めた。にキラリと、何か光るものが見える。その煌めきは、変わらなかった直樹には眩しすぎて、それを指摘せざるを得なかった。


 「それ……」

 「あ、煙草? 社会人になるといろいろあってさ、私も吸うようになっちゃった。直樹も良く吸ってたよね」

 「いや、違……」


 美夏は最初何を言っているのか理解できなかった。が、直樹が指輪に気づいていることに気がつき、その挙動不審に合点がいった。


 「あー指輪か」


 動揺が隠せなかった。こんなことを言う道理は無いはずなのに、自分の宝物をいつの間にか盗られたような絶望感に、ただ目を泳がせるしか出来なかった。


 「5年も立てば、いろいろあるんだよ」


 煙草の煙を気だるそうに吐き出して、大人になった美夏は答える。うす灰色をした煙がキラキラしてたはずの彼女に取り巻き曇らせる。その目は嫌悪感を孕んでいる。過去の自分を嫌っているように。


 「とっくに私の事ブロックしてると思ってた。なんで分かったの? ここにいるって」

 「分かんない。分かんないけど……」


 核心があった。きっと美夏はここにいてくれているって。だってそこは、自分の人生に光を点してくれていた場所だったから。だが、それを言うには気恥ずかしすぎるし、色んなことがありすぎる。


 何か言いたいが、何を言えば良いのか分からない。何かを言おうとしてるが、鼻の奥でそれを塞き止めてしまう。気持ちだけが先走る。


 「で、直樹はなんでここまで来たの? まさかただそんな姿を見せたかったわけじゃ無いでしょ」


 昔の話とはいえ、お互い付き合った間柄、近況は知らないが、癖は知っている。直樹が目線を右下に向けるのを見て意図を汲み取ったのか、美夏は助け船を出してきた。

 

 「俺は……」


 まだ覚悟を決めてない、先走った心持ちで言葉を出そうとした瞬間、遠くの方でドンと爆発音が聞こえた。赤色の軌跡は一閃を描き、衝撃波と土煙を回りに散らす。もう時間がない。体感ではあるが、5分は経っている。インスタントの麺が作れるような些細な時間。だが今は確定された人類滅亡のの瀬戸際だ。落ち着いて、最後の言葉を伝えるんだ。かつて輝いていた、僕の一番星に。


 「ごめん。あの時、最低なことを言って。最低な俺でごめん」


 一度深呼吸をして、そして頭を下げる。バイト先で見せるような形だけのものじゃない。誠心誠意、心からの謝罪だ。そして、胸のうちに秘めた言葉を明かす。


 「ただ、悔しかったんだ。美夏に正論を言われるのが。美夏は成長してるのに、俺は変われない。そんな現状を突きつけられるのが、ただただ情けなくて、辛かった。君に、失望されたくなかった。失望されたくなかったのに、させてる自分が大嫌いだった」


 高速道路を走り出したときに思い出した一年目のデート。その時結んでしまった口約束だ。それだけじゃない。今、どんなことかは思い出せないけど、何度も何度も彼女を裏切っている自覚はあった。

 

 「ほら、ドライブの時も、免許取るって言って取らなかった。変わろうとしてなかった。自分の怠惰なのに、美夏に全部責任転嫁してたんだよ。だからあんな事言った。心にもない事を」


 目の眩むような思い出と胸をかきむしりたくなるような自分の過ちが交互に姿を見せる。逃げ出したい。でも、これを逃したら。これを逃してしまったら…。


 「そして何より、君に向かって灰皿を投げた。尽くしてくれた君にあんな仕打ちをした。本来なら、顔すら合わせる権利は無いのかもしれない。でもここに来た」


 だから、ええと、つまり……。口が上手く言葉を紡がない。上手くまとめられなかった。このチャンスしか無い。全部、無駄なく、しっかりと伝えなくちゃ。その気持ちだけが先走り、何が言いたいのか分からなくなってしまった。周りの流星の音は次第に数を増やしていく。声も聞こえなくなってきた。ただ、美夏は、直樹の言葉をじっと聞いていた。


 「しっかり目を見て、ごめんって伝えたかった。それと、ありがとうって」


 いつの間にか、自然と目は合っていた。彼女の姿に重なって見えた自分の罪から目を背けなくなっていた。いつしかその罪は彼女の姿より小さくなって、そして、ついに彼女しか見えなくなった。その瞬間。唇になにか暖かいものが当たった。


 キスだ。彼女からの、5年ぶりのキス。それは甘酸っぱくない、ほろ苦い大人の味がした。唇に気を取られていて気がつかなかったが、いつの間にか彼女の華奢な手が自分の手に重なっていることに気づく。冷え切った手が彼女の健気さを暗に語っていた。きっと長い時間、この寒空の下で待っていたのだろう。美夏はその手を、今度は自身の腹に添えてきた。


 「実はさ、ここに子どもがいるんだ。今の旦那との子ども。今5週目」


 直に触れて初めて分かった。彼女の腹部が僅かに膨み、張っている。お腹に命が宿っている何よりの証明だった。そしてそれは、自分の人生の敗北の証明のようにも感じられた。やっぱり俺は、彼女に会うべきで無かったんだ。これは彼女からの復讐なのだろう。あんたといたときよりも私は遥かに幸せですと、そう表現されているように感じてしまった。


 自分の人生の、たった幾ばくかの輝いた瞬間を否定されてしまったようで、視界がぐらついた。ただ、これも最後に出来る贖罪だ。彼女の言葉を待って、そして死刑宣告を受けよう。そう思い、直樹は次の言葉を待った。彼女は続ける。


 「私、幸せだよ。幸せだと思ってた。思ってたはずなんだ。でも、やっぱり考えちゃう。直樹との子どもだったら良かったなって」


 彼女の表情が僅かに曇り、目線が外れた。正直何故かと問い詰めたかった。自分より遥かに良い人を見つけ、結婚し、子どもを成した。幸せという言葉の代名詞じゃないか。なのになぜそのような、満たされないような、曇った表情をしているのか。彼女はその困惑を見ずとも見抜いていたのだろう。うつむいたまま


 「全部分かってた。分かってたからここに来たんだよ」


 そうつぶやいた。そして続ける。


 「直樹なら、またこうやって戻ってきてくれるって。2年間、私だけが楽しかったんじゃ無いんだって否定しに来てくれるって、どこかで信じてたんだよ」


 世界は崩れている最中なのに。無慈悲の鉄槌は降り注いでいるはずなのに。なぜか彼女の言葉は耳に届き続ける。それは彼女が胸に秘めていた秘密。なぜ、


 「この5年間、ずっとどこかで直樹の事考えてた。それなりに男性経験はあったよ。でも、あれだけ頑張ってくれたのは直樹だけだった。不器用で、変われないけど、変わろうとする姿だけは誰よりも立派だった。それが大好きだった。不器用なデートプランも、私のために変わろうとする姿勢も。誰よりも好きだった」


 そこまで言って彼女は離れていく。いつの間にか短くなった煙草を、もういいかと道ばたに捨てながら。落ちる煙草の火花がちらちらと煙の軌道にそって散っていく。彼女は煙を目で追いながら空を見た。火花の儚さとは比べものにならない星々が、もう目前に迫っていた。絶望なんてこれっぽっちもない彼女の顔が、七色の煌めきに照らされ、自分を魅了する。

 

 「だけど最後は正直疑ってた。あの喧嘩の日から、直樹を完全に信じられなくなっちゃった。その姿勢も私ってアクセサリーを手放したくないからなんじゃないかって。だからここに来て、待とうとしてた。もし来なかったのなら、私の好きは無駄だったんだって。それで諦めようとしてた。でも怖かった。私の好きが無駄だったのかもって突きつけられるのが怖かった。だから、直樹が見る前にメッセージ消しちゃったんだ」


 巨大な星からこぼれた欠片が、自分の存在証明を上書きするようにあちらこちらに穴を開ける。まるであの日手からこぼれた滴のように。あの時は薄明るい思い出を赤黒く染めた。今度は薄暗い今を明るく壊していく。時間は深夜。空はもう暗いはずなのに、昼と同じぐらい明るいはずなのに、彼女はそれより一際輝いて見えた。

 

 「なのに会いに来てくれた。メッセージ消して、伝わるわけが無いのにこうやって再会出来た。まっすぐっていうか、素直っていうかさ。自分が正しいって思うことに頑張れるって、この世の全ての人間に出来る事じゃ無いと思う。だから私は、直樹がまだ好きなんだ」


 ひらりと振り向いたその姿は自分の目玉を虜にした。27歳。既婚女性。そんなことを一切感じさせないような快活で明るい、元気な姿。あの時の長谷川美夏その人だった。彼女はそのまま指輪をはずし、どこかに放り投げる。放った指輪はどこか明るい響きをさせて、彼女の口を綻ばせる。そんなこと気にせずに彼女は続ける。


 「それにほら、世界の終わりだよ? 人生最後の時間に私を選んでくれた。そして謝ってくれた。私のために動いてくれた。私の2年間の好きを肯定してくれた」


 ここまで言い切ると同時に、視界の端に何か見えた。それは隕石だった。目の端で捉えたのは、彼女の車の真上に隕石が落ちてくる瞬間。直樹と車に挟まれる形で美夏は立っている。このままだと、彼女は巻き込まれてしまう。そう考える前に体は動いていた。


 駆け寄って、手をつかみ、自分側に引き戻す。それと同時に響く爆発音。彼女の車が隕石によって砕き爆ぜた音だった。そうだ。長年腐って生きていたから忘れていた。自分は彼女のためなら何だって出来るんだ。


 「やっぱり私、間違ってなかった」


 直樹の腕の中で、笑顔でそう続けた。それは、あの日見たような、えくぼの似合う素敵な笑顔。微笑む目には星が輝き、もう世界終焉が目の前に迫っていることを示している。自分は彼女に釘付けだ。


 彼女はどうだろう。今にも振る宇宙からの鉄槌を視界に入れている。それでもなお笑顔を崩さなかった。きっと自分もそうなのだろう。あの時打ち上げられた花火は何億何兆と膨らみ、今や地球を炸裂させようと、全てを滅ぼす鉄槌となって、もはや眼前にまで近づいていた。あの時切り出した答えは簡単だ。この地球上の全てが終わる。火を見るより明らかじゃないか。ただ違う事がある。こんなにも穏やかで、幸せな気持ちで終焉を迎えることが出来る。それは彼女も同じなのだろう。星に負けないほどの眩しい微笑みで言った。

 

 「ねぇ、最後のお願い聞いて。おなかの子に、パパですよって言ってくれない?」


 その後に言葉はいらなかった。いや、に向ける言葉は無かった。満点の星空、降り注ぐ帚星。降り注いだ石の雨はやがて地球の文明を砕き、そこには瓦礫と、何も無くなった地平線のみ。そこにただ二人だけ。瓦礫と炎、そして瞬く天の川の星光りが彼等を照らす。直樹はなにかを口にして、愛おしそうに美夏をなでる。美夏は直樹の手に手を添えて、嬉しそうに笑い……


 そして目尻に星一つ。最後にキラリと瞬いて、世界はやがて白くなる。二人だけの世界に隕石が落ちていく。


 もう空は見えない。それでもなお感じることが出来る。ああ。やっぱり君は僕の一番星ベガだった。

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