第54話 グレニスの面影

「おはよう、リヴ」


「ん……おはようございます」


 軽く触れるだけの口付けを受け、もそもそと起き上がる。

 鍛練用の軽装に着替えるグレニスを眺めつつ、自分も付き添いの準備をするため部屋に戻ろうとガウンを羽織り、持参した枕を回収しようとしてはたと気付いた。


「…………あの、グレンのものって二人の共有財産になりますか?」


「財産? ああ、欲しいものがあるならなんでも買えばいい。取り計らうよう執事長ゼナードにも伝えておく」


「ありがとうございます。じゃあ、これはいただいていきますね!」


 グレニスが脱いだばかりの寝衣を引っ掴むと、止められる前にと一目散に部屋を飛び出した。


『共有財産』

 なんと素晴らしい響きだろう。








 その日の午後。

 夫人からお茶の招待を受けた私は、ドレスを身につけきっちりと身支度を整えて、緊張の面持ちで夫人の待つテラスを訪れた。


 前侯爵様は今日もグレニスとともに登城している。

 朝と昼を遅めの朝食一回で済ませるらしい夫人とは、昼食の席で一緒になったこともないため、二人きりで話をするのはこれが初めてだ。



「本日はお招きいただきありがとうございます、前侯爵夫人」


 こちらを向いた夫人は、老いてなお衰えない儚げな美貌を微かにしかめた。


「……違うわ」


「えっ」


 早速何か気に障ることをしてしまっただろうか。

 何度も鏡を見て、身だしなみは入念にチェックしたはずなのだけれど。


 出会って早々のダメ出しに、ぐるぐると頭を回転させて原因を探す。


 お辞儀の角度?

 挨拶のタイミング?

 私の着てきたドレスの色味が、夫人のドレスの色味と合わないから?

 もしや、ジェルム家独自のしきたりが?


 それとも——————いや、まさか。

 でも…………思い当たることが、一つだけある。


 もし違っていたらどうしよう。さらに不快な思いをさせてしまうだけでは。いやでもやっぱり、思い当たることはこれだけしか……。


「マ…………、ママ……?」


 意を決してそれを口にすれば、夫人は静かに一つ頷いた。


「よく来たわね、リヴェリー」





「…………」


「…………」


 カップをソーサーに置く微かな音が、いやに耳に響く。

 小鳥のさえずり、そよ風に揺れる美しい花々、ずらりと並んだ菓子から漂う甘い香り。それらを楽しめる心のゆとりはない。


 誰か、この気まずい沈黙をどうにかしてほしい。


「……っき、綺麗なお庭ですね!」


「庭師のおかげね」


「そうですね……」


「…………」


「…………」


 間が持たずにカップを口に運ぶ。

 お茶は早くも三杯目だ。夫人と打ち解ける前に、私のお腹が限界を迎えるかもしれない。



「…………可愛い娘が欲しかったの」


 表情も動かさないまま、夫人がぽつりと言った。


「は、はい……」


 それは『可愛い娘が欲しかったのにこんな子が相手だなんてがっかりだわ』という意味だろうか。


がまさか、あなたみたいな子を選ぶなんてね」


「…………」


 俯いて、きゅっと下唇を噛む。


 『やっぱりこの結婚は考え直すよう伝えておくわ』とでも続くのだろうか。

 グレニスは承諾しないと思うけれど、母親である夫人に反対されていては、幸せな結婚生活は難しいかもしれない。


 グレニスの大切な家族なのだ、私だって仲良くしたいと思う。

 そしてできることなら、私も家族の一員として認めてほしい。


 一体どうすれば夫人にも受け入れてもらえるのだろうか……。カップに縁取られた紅い水面を見つめても、答えは出ない。


 ———ええい! どんなに私が考えを巡らせたところで夫人の心なんてわかりっこない! こうなったら、どこを直せばいいのか直接夫人に尋ねよう!


「あのっ———」


「こうして娘とお茶をするのが夢だったのよ」


 話し出すタイミングが重なってしまい慌てて口をつぐむ。

 ……娘とお茶を?


 きゅっと眉をひそめた夫人は、白い頬をほんのりと染めて言った。


「夢が叶って、嬉しいわ……」


 …………


 あれっ?

 えーと……夫人は今、夢が叶って嬉しいと言った?


「ふじ———マ、ママ……? 私のこと、グレニスの結婚相手として認めてくださるんですか……?」


 私の問いかけに、夫人はすっと目を細めて言い放つ。


「認めるも何もないわ」


 あ……、やっぱり先ほどの言葉は私の聞き間違いだったのか。受け入れてもらいたいと願うあまり、都合のいい幻聴を生み出してしまったようだ。


「そう、ですか……」


「あの子が選んだ子だもの。はじめから家族の一員だわ」


 えっ? んん? あれっ??


「えっと……私が『娘』でもいいんでしょうか?」


 間違いのないよう、しっかりと目を見て問いかける。

 先ほどから、何かが噛み合っていないような気がするのだ。


「あの子はもっと、割り切った相手を選ぶと思っていたの」


「はい」


 家柄も条件も申し分なく、グレニスと対等にお互いを尊重し合えるような、大人の女性を思い描く。

 自分とは、何もかもが違う。


「それが、あなたみたいな子でしょう?」


「……はい」


「こんなに素直そうな可愛い子が娘になるなんて、私……とっても嬉しいわ」


 うん?


 そう話す夫人の眉間にはまたきゅっとシワが寄って、表情だけを見たならきっと、大層不快にさせてしまったのだと思ったはずだ。


 けれど夫人は、私が娘になることが嬉しいと言った。

 よくよく思い返してみれば、夫人の言葉は最初からずっと好意的なものばかりではないだろうか。———そう受け取るには、圧倒的に言葉が足りていない気もするけれど。


 夫人はきっと、元々口数の多い人ではないのだろう。前侯爵様も言っていたように、性格でいえば夫人の方がグレニスに似ているのかもしれない。

 それにこうして眉をひそめ険しい表情をしていると、あまり似ていないと思っていた夫人の顔にもどこかグレニスの面影がある。


 そう思えた途端、縛り付けられていた縄が解けるかのように、強張っていた身体からするりと緊張が抜けていった。


「そう言っていただけて嬉しいです……。あの、私を迎え入れてくださって、ありがとうございます」


 夫人は『気にしないで』というように軽く首を振った。


「感謝しているの。あの子はいつも難しい顔をしていて厳しいことを言うから、冷たい人間だと誤解されやすいけど……本当は情に厚くて優しい子なのよ」


「……わかります。いつも、優しくしてもらってます」


 街の人たちにだって、グレニスの優しさは伝わっているだろう。

 グレニスと関わったことのある人なら、みんな口を揃えて『優しい人だ』と言うはずだ。


 そう考えて、ふとある記憶に違和感を覚えた。



 庭でスターシュと出会ったとき、彼はグレニスのことをなんと言った?

 たしか……『堅物で気難しい』と、そう評していたはずだ。

 表面的な部分しか知らなかった当時はなんとも思わなかったけれど、今ならその違和感に気付く。


 グレニスは生真面目だけれど、決して融通の利かない人ではない。

 気難しそうに見えて、自分の機嫌で何かを判断することはないし、怒っていてもちゃんと人の話を聞いてくれる人だ。


 グレニスをよく見ていれば、すぐにわかることなのに……。

 スターシュは本当に、グレニスの内面なんて何一つ見ようとはしていなかったらしい。




「…………」


「…………」


風が枝葉を揺らす音が聞こえる。


再び訪れた沈黙は、もう苦しくない。

夫人の言葉を信じるなら、夫人は今この時間をとても楽しんでくれているはずだから。


私も好物ばかりが並ぶ菓子の中から大好きなクレームブリュレを選ぶと、焼けた砂糖をパリパリとスプーンで突ついた。

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