第53話 ななな殴るならっ!

 グレニスの両親がやって来て二日目の晩。


 みんな揃っての夕食を終え、いつものように寝支度を整えてグレニスの元に向かっていると、グレニスの部屋の前で前侯爵様に出くわした。


「おや、リヴェリー」


「こんばんは、前侯爵様」


 前侯爵様は目をすがめ、ちっちっちと舌を打ちならしながら立てた人差し指を振っている。


「え……あっ、………………っパ、……パパ?」


「ああ、そうだとも! パパだとも!」


 裏返った声での呼びかけにも、前侯爵様は満足そうにうんうんと頷く。

 お腹の奥から発せられる大きな声は、静かな夜の屋敷内にぐゎんぐゎんとよく響き渡った。


「リヴェリーはこんな時間にどうしたんだい? 枕なんて抱えて、眠れないのかい?」


「えっと、その……」


 グレニスと一緒に寝ているのだと伝えるのも気恥ずかしくて、返答に迷ってちらりとグレニスの部屋の扉を見る。


「……グレニスに呼ばれたのか?」


 硬い声に見上げれば、前侯爵様はなぜかいつもの笑顔を消して佇んでいた。


「?」



 ガチャッ


「父上、さっきからそこで何を———」



 ゴッ!!! ガターンッ




「…………えっ?」


 扉を開けて顔を覗かせたグレニスが、一瞬で消えた。


 ———否。

 グレニスが顔を見せた瞬間、前侯爵様に殴りかかられ、鈍い音を立てて後方へと吹っ飛んだ。


「えっ……ええっ!? グレンっ!!?」


 状況の理解に頭が追い付かないながらも、慌てて部屋の中ほどに倒れるグレニスに駆け寄る。


「ちょっ、だっ大丈夫ですか!?」


「ああ、大事ない……」


「わぁっ! 口から血がっ!」


 上体を起こしたグレニスの口端からは、つうと血が滴っている。


「グレニス……貴様、婚約したからと図に乗りおって……! こんな時間に婚前のレディを部屋に呼びつけるなど、不埒千万!!」


 前侯爵様は収まらぬ怒りに拳を戦慄わななかせ、グレニスにさらなる鉄槌を与えるべく、のっしのっしとこちらへ迫る。


 闘神もかくやという憤怒の形相に腰を抜かしてへたり込みながらも、私は必死にグレニスにしがみついて震える声を上げた。


「わ、私が勝手に来たんです……!」


「! レディに庇わせるなど———っ」


 ひぇぇ、さらに怒らせてしまった!


 うちのお父様はどんなに怒ろうと、逆立ちしたってこんな迫力はなかった。

 前侯爵様はお父様よりも大分歳上なはずなのに、老いなんて微塵も感じさせない猛々たけだけしさだ。


「リヴ、庇わなくていい。これは俺の責任だ」


 そっと私を剥がそうとする手を拒絶して、前侯爵様から守るようにぎゅうぎゅうとグレニスを抱きしめる。


「やっ、やましいことはありません!! グレンがっ、スターシュ伯爵のことで、よく眠れてなかったみたいだから……っ!」


「———ユベルの?」


「だからっ、安眠の助けになれればと思って押しかけてたんです! わっ、私が勝手にしたことなので、ななな殴るならっ! わわ、私を殴ってくだひゃい……っ!!」


 歯を食いしばってぎゅっと目を瞑り、きたるべき衝撃に備える。


 身体の大きなグレニスでもこれほど吹き飛んだのだ。自分なんて、窓を突き破って外へ飛んでいってしまうかもしれない。

 ……どうか下の植え込みがクッションになってくれますように。


「…………」


「———っ」


 さあ早く!

 やるなら一思いにやってほしい!

 恐怖が長引くと、決心が鈍りそうになるから……!


 …………


 ぽんっ


 頭上に落ちた衝撃にビクリと肩を跳ねさせる。

 拳骨を食らうのだろうかと全身を強張らせていると、大きな手のひらはそのままよーしよーしと私の頭を撫でさすった。


「……?」


 恐る恐る薄目を開けば、目の前には困ったような表情をした前侯爵様の姿。


「リヴェリー、恐ろしい思いをさせてすまなかった。俺が早計だったよ。……愚弟の件では本当に迷惑をかけたね」


「い、いえ、私は別に……」


 前侯爵様は、ちらと視線でグレニスを指す。


は母親に似て繊細なんだ。気にかけてやってくれてありがとうな。———事件の責任に関しては安心してくれ。俺と弟の問題のツケを、おまえたちに負わせはしない」


 私とグレニスの目をしっかりと見据えたあと、前侯爵様はふっと笑顔に戻った。


「いやあ、しかしリヴェリーは見所があるな。どうだ? 女騎士を目指す気はないか?」


「へ?」


「父上、もう用は済んだでしょう!」


 グレニスが話を遮るように抗議の声を上げる。


「なんだなんだまったく、可愛い冗談じゃないか」


「本気の目をしていました」


「はいはい、それじゃあ邪魔者は退散するとしますか!」


 よっこらしょと立ち上がった前侯爵様は、騒ぎに駆けつけた使用人たちを片手で制しながら部屋を出る。


「……ああ、グレニス。そのは受け取っておけ。くらいはあるだろう? ———男なら耐え抜いてみせるんだな」


「…………」


 前侯爵様は背を向けたままトントンと左頬を差し示すと、グレニスの返事も待たずにひらひらと手を振って去っていった。


 なんというか……、嵐のような人だ……。




「ごめんなさい、私のせいで……」


 使用人から受け取った救急セットを広げ、慣れた手つきでてきぱきと頬の手当てをするグレニスを見つめる。

 最初は私が手当てを買って出たのだけれど、やっとの事で貼り付けたガーゼが一瞬で剥がれ落ちたので諦めた。


「リヴのせいではない、一緒に寝ていることを伝えておかなかった俺の責任だ。それに、昔からこれくらいは日常茶飯事なんだ。むしろ一発で済んだことの方が珍しい。———リヴのおかげだな」


「でも、あの……私、もう寝に来ない方がいいでしょうか」


 誤解があったとはいえ、あんなに前侯爵様を怒らせてしまったのだ。

 歯向かったことで、さらに不快感を与えてしまった可能性もある。


 手当てを終えたグレニスは、隣に座る私をぐっと抱き寄せた。


「一緒に過ごしたいと思っているのがだけだとでも?」


「グレン……」


 唇にちゅっと軽い口付けが落ちる。


「リヴが気に病むことはない。それに気にせずとも、父上は俺たちが一緒に寝ることを認めてくれたようだ」


「そうなんですか……?」


「ああ。リヴのことは随分と気に入ったようだしな」




 駆けつけた際に床に落としてしまった枕は諦めて、二人で寝室へと向かう。


 血の付いた寝衣から着替えたグレニスは、ベッドに横になると私の方へ腕を差し出した。


「先刻はかなり無茶をしただろう、手が震えていた。今夜は俺に慰めさせてくれないか?」


 招かれるまま、グレニスの腕に頭を乗せてすっぽりと胸に収まる。

 すぅぅぅと深く息を吸い込めば、何よりも大好きな香りがたっぷりと体内を満たし、ようやく心から安堵の息をついた。


「……本当は、ちょっと怖かったんです」


「ああ、父上がすまなかった。今回は俺に対して怒っていただけで、決して女性に声を荒げる人ではないからその点は安心してくれ」


「はい……」


「しかし父上に歯向かえる者はそう多くない。先ほどのリヴの気概には惚れ直したぞ? 俺を守ろうとしてくれてありがとう」


 その言葉にふいとグレニスを見上げれば、額にやわらかな口付けが落ちた。


「おやすみ、リヴ。愛している」


「私も、愛してます……。おやすみなさい、グレン」


 こんなにぴったりと抱きしめられているのに、もっと触れ合いたいと思ってしまうなんて……。

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