第50話 今夜は私の足を縛っておいて
すぐに専用の物を手配いたしますと言うメイド長に、とにかく今日必要なんだ今すぐ必要なんだと頼み込んでどうにかメイドのお仕着せ一式を借りて、厨房を目指す。
日中はグレニスが不在のため、夕食の仕込みが始まる前の昼間の時間帯であれば、厨房も比較的落ち着いているのだ。
「みなさん、お久しぶりです!」
「おおっ、リヴェリーちゃん! 久しぶりだなぁ、元気そうじゃないか!」
すぐに気付いた料理長が、作業の手を止めて歩み寄ってきてくれる。
様々な食材と香辛料の香りが混ざったここの空気も久しぶりだ。
「聞いたよ、旦那様と結婚するんだって?」
「あ、はい……。えへへ」
「おめでとうなぁ! リヴェリーちゃんを選ぶたぁ、旦那様も見る目があるってもんだ!」
相変わらず闊達な様子でがっはっはと笑う料理長に釣られて、えへえへと笑みを溢す。
行儀見習い時代と一切変わらない料理長の態度が嬉しい。
他の料理人たちも口々にお祝いの言葉をかけてくれるなか、隅の方で若い料理人の一人がさめざめと泣いているのに気付いた。
「うぅ、リヴェリーさん……」
「ばかっ!! おまえ殺されたいのか!?」
側で先輩らしき料理人が宥めているようだけれど、『殺される』とはまた穏やかでない。
「バートンさん、どうしたんですか? 彼……」
「はっはっは! なぁに、これであいつの料理にも深みが増すってもんよ!」
「???」
全く話が噛み合っていない。
「ところで今日はまたどうしたんだい? 顔を見せに来ただけってわけじゃないんだろ? 未来の奥様がメイドの格好なんてしちまって」
「あっ! そうなんです! また早朝鍛練の付き添いをさせてもらえることになったので、果実水の仕込みに来ました!」
本来の目的を思い出し、胸の前でぐっと拳を握りしめる。
「おお、そうかいそうかい。そりゃよかったなぁ。リヴェリーちゃんは毎朝ほんと楽しそうに準備してたもんなぁ」
「えへへ、これからまたよろしくお願いします!」
「また毎朝可愛い顔が見られるなんたぁ、こっちとしても嬉しいこった! よろしくな!」
料理長の硬い手と握手を交わすと、明日の鍛練を思いながら慣れた手つきで仕込みに取りかかった。
「なかなか来ないと思ったら……」
「ふっふっふ、今日は先にぜーんぶ支度を済ませて来ました!」
夕食後。二人の時間を大切にするグレニスが今夜も「話をしよう」と招いてくれたので、私は万全の状態でグレニスの部屋を訪れた。
湯浴みを終え、ネグリジェにガウン。枕もちゃんと持参している。
「……今夜もここで眠るつもりか?」
「はいっ!」
元気よく頷けば、グレニスは眉間のシワを深めてなんとも複雑そうな表情をする。
すんなり部屋に通してはくれたものの、ここまで顔をしかめられていればさすがに私だって気付く。
ソファに座ったグレニスの膝に抱かれて、しょんぼりと肩を落とす。
「どうした?」
「気付かなくて申し訳ありません……。私が一緒に寝たせいで、グレンにずっと我慢をさせちゃってたんですね……」
そうとも知らず、自分だけがグレニスと過ごせることに舞い上がっていたなんて。
「いや、それは———」
「寝相が悪かったんですよね!? 私、寝ぼけてグレンのこと蹴ったりしたんでしょう!?」
グレニスは私のことを好きなのだし、私は手を出さないと誓ったのだから、一緒に寝ること自体に不都合はないはずだ。
ベッドは二人で寝ても十分すぎるほど広さがあるので、狭くて寝苦しいということもない。
となれば残る可能性はただ一つ。
私が寝ている間に何かやらかしたとしか考えられない!
まったく、私というやつは! グレニスを安眠させるはずが、とんだ迷惑を……!
「あー……いや、寝相は……悪いということもなかったが……」
ほら、グレニスだって気を遣って答えにくそうじゃないか!
「本当に申し訳ありませんっ! あっ、あの、もしあれだったら今夜は私の足を縛っておいてく———」
「それは不味い」
「でもっ」
グレニスはそれ以上の言葉を封じるかのように、私の下唇をむにっと摘まんだ。
「気にするな、蹴られたりはしていない。それにリヴ程度の力なら、実際に蹴られたところで何ら支障ない。……これは俺自身の問題だ」
「……?」
しばしむにむにと唇を弄んでいた指が離れ、代わりに口付けが一つ。
この話は終わりということだろう。
昨日同様、色濃く疲労を残すグレニスの顔が離れていくのをじっと見つめる。
「……あの、今日の分のお仕事はありますか? 私、終わるまでここで待ってますよ?」
「リヴを待っている間に終わらせてしまった」
「そうですか」
こうして話していても、グレニスの表情にはどこか
以前訓練見学に行った日だって、真夏の甲冑訓練で相当疲れていたはずだけれど顔には出ていなかった。
再会してからのグレニスは、どことなくずっと気落ちした風だ。
やはりこれも、スターシュの逮捕が響いているのだろうか。
「スターシュ伯爵はなんで麻薬になんて手を出したんだろう……」
ぽつりと疑問が浮かぶ。
麻薬に手を出すような人はなんというか……もっと享楽的だったり、人生がうまく行かずに捌け口を求めていたりするものだと思っていた。
しかもスターシュは、自主的に原料の栽培まで行なっていたのだ。
人柄について何を知っているわけでもないけれど、行儀見習いにまで丁寧に挨拶をしてくれるスターシュの姿を思い返せば、到底犯罪に手を染めるような人だとは思えなかった。
「その辺りの事情は現在取り調べをしているところだ」
「えっ」
心の声に返事をされて驚く。
口に出してしまっていただろうか?
「……それってグレンが直接話を聞いてるんですか?」
「ああ。はじめは親類だということもあり、俺は担当から外れていたんだが……。向こうが俺相手でなければ何も話さないと言ったきり、終始無言を貫いてな。高位貴族を拷問にかけるわけにもいかず、どうにも埒が明かないからと数日前に取り調べを代わったんだ」
そう話すグレニスは、心なしか顔色が悪く見える。
「グレンに代わって、スターシュ伯爵はちゃんと理由を話したんですか?」
「いや……今のところは延々と思い出話をされているだけだな」
叔父と甥の関係なのだ。共通の思い出だけだって、それこそグレニスが生まれた頃からあるだろう。
しかしその苦々しい表情からするに、単なる思い出話というわけでもなさそうだ。
「嫌なこと、言われたんですか……?」
そっとグレニスの頬に手を添えれば、群青の瞳が僅かに揺れる。
グレニスは否定も肯定もせず、私の質問に困ったように眉尻を下げた。
「……グレン。私じゃ頼りないかもしれないですけど……何があっても、一緒に受け止めたいんです。心ごと、側にいたい」
王国中の民を守ろうとしてくれるこの人を、守れるだけの存在になりたい。
武器を手に戦うことはできなくても、心には寄り添えるはずだから。
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