第48話 甘酸っぱい臭い

 すっかり日も沈んだ頃。

 グレニスが帰宅したとの報せを受けて、大急ぎで玄関へと向かう。



「グレン……っ!」


 駆けつけた勢いのまま広い胸に飛び込めば、グレニスは僅かも揺るがずしっかりと抱きとめてくれた。


「おかえりなふぁい!」


 ああ、何週間ぶりだろう。

 厚い胸板、力強い腕、そしてこの……


 すんすんすんすん


「ただいま、リヴ。会える日を楽しみにしていた。道中大事なかったか?」


「はい、順調な旅路れした」


『おかえりなさい』『ただいま』

 なんだか家族になったかのようなやり取りに、むずむずと嬉しさが広がっていく。

 これからはずっとグレニスと一緒に暮らせるのだ。


 頬をくすぐられてにこにこと顔を向ければ、流れるような動作で口付けが落ちた。


「!!」


 そうだった!

 グレニスが頬をくすぐるのは口付けの催促なのだった!!


 恐る恐る視線だけで周囲を窺うと、執事長はグレニスから預かった荷物を手に、少し離れた位置で顔を俯け、静かに控えている。

 いや、問題は執事長だけではない。この場には他の使用人だって———


「……俺といて余所見するとはいい度胸だな?」


「あぅ……」


 片手でむにゅっと両頬を掴まれ、ピヨピヨと唇が突き出る。


「夕食はもう食べたのか?」


「まられしゅ……」


 ここ最近はグレニスが毎日帰宅していると聞いたので、夕食を食べずに待っていることにしたのだ。


「先に食べていていいんだぞ? では夕食を済ませてから、俺の部屋で話をしようか」


「あい……」


 グレニスは突き出た唇にもう一度口付けを落とすと、ようやく満足したように私の頬を解放した。






 私の実家にいたときとは違い、グレニスはくつろいだ様子で瞬く間に皿を空にしていく。

 変に気を遣わずいつも通りの姿でいてくれることが嬉しい。

 私も無理に合わせて急ぐことはせずに、自分のペースでのんびりと料理を堪能する。


 喫食速度は速いけれど、グレニスは食べる量も多いので、結果的に二人ともほとんど同じタイミングで食事を終えることとなった。



 余所見していたことを怒られるのかと覚悟して部屋に行ってみれば、なんのことはない。

 この数週間何をして過ごしていたのかだとか、これからここで暮らすうえで何が必要かだとか、本当に『話』をするために呼んだだけのようだ。


「グレンは、もうお城に泊まり込まなくていいんですか?」


 ソファに座る、グレニスの膝の上。

 逞しい腕に抱きしめられて、肩口に頬をすり寄せながら会話する。


「ああ、追っていたは一応の決着を見たからな。後処理などまだまだやることは山積みだが、とりあえず帰宅できる程度には落ち着いた」


「それって……スターシュ伯爵の件……ですよね?」


「そうだ。どこまで聞き及んでいるか知らないが、ユベル=スターシュは麻薬の原料として栽培禁止植物に指定されているを無断栽培。デルマン=モーグがそれを精製、密売していた」


「……」


 おおよそ新聞記事に書かれていた通りだ。


 もう『叔父上』と呼ぶことなく、淡々とその罪について語る姿。

 そこはかとなく疲れを窺わせるものの、いつもと変わらない険しい表情。

 平然とした態度に覆い隠された本心は読めない。


 親しく付き合いのあったスターシュが裏で犯罪に手を染め、表面上はなんでもないような顔をしてグレニスを欺いていたのだ。

 グレニスのショックは一体どれほどのものだろうか。


 こんなとき、気の利いた言葉の一つもかけられればいいのに。

 言葉もなくただぎゅっと厚い身体を抱きしめれば、それに応えるように私を抱く腕にも、ぐっと力が籠もった。


「……デルマン=モーグのことは前々からマークしていたんだが、ずっと麻薬の入手経路が不明だった。モーグだけを逮捕したところで、供給源を絶たなければまた新たな売人が生まれるだけだからな。今回ユベル=スターシュへとたどり着けたのは、リヴのおかげだ」


「え…………私?」


 唐突に出た自分の名に困惑する。

 麻薬事件のことなど知らなかったし、協力した覚えも何もないのに。


「カヒは粉末の状態では無臭だが、燃やすことで独特の甘酸っぱい臭いを生じさせる」


「甘酸っぱい臭い……」


 ———ひとつ、思い当たることがある。

 スターシュとモーグから共通して漂った、ぐらぐらと脳を揺らすような、不快な甘酸っぱい臭い。


 グレニスとのデートの日、モーグの臭いで具合の悪くなった私は、そのことを聞かれるままグレニスに話したのだ。


 手のひらに嫌な汗が浮かび、指先が血の気を失っていく。


「じ、じゃあ……私のせいでグレンは、スターシュ伯爵を逮捕することに……」


 どうしよう、どうしよう。

 私が臭いのことなんて話したばかりに、グレニスが自らの叔父を逮捕することになってしまっただなんて。

 私の余計な話のせいで———


「何か誤解していないか?」


「え……」


 すがるような目でグレニスを見上げれば、温かな手のひらが優しく頬を撫でた。


「悪事が暴かれ犯人が逮捕されることは、とても喜ばしいことだ。……たとえそれが身内であろうとも」


 噛みしめるように洩らされた最後の言葉に、ようやくグレニスの心を垣間見た気がする。


「悪事はさらなる悪事を呼ぶ。あのままカヒが流通し続けていれば、治安は悪化の一途を辿り、より大きな犯罪を許すことにも繋がっただろう。統率の取れない国家は国力も弱まり、敵からの侵略をも容易にする。巡り巡って国家存続の危機に瀕した恐れもある」


「国の……?」


「ああ、リヴのおかげでそれを未然に防げた。褒賞ものだぞ?」


 だからそんな顔をするな、とグレニスは言う。

 向けられた眼差しも、頬に触れる手も、声も、どこまでも優しくて。


「グレンは———」


『大丈夫ですか?』

 言いかけて口をつぐむ。


 そんなこと聞いて何になる。

 大丈夫なわけがない。

 けれどきっとグレニスは、『大丈夫だ』としか答えないから。


「…………ちゃんと、眠れてますか?」

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