第44話 これは違うの!

 眠ってしまった……。


 さすがに私を乗せたままでは寝苦しいだろうと下りようとするも、私を抱きしめる腕はびくともしない。

 どうやら起こさずにそっと抜け出るのは無理そうだ。


 ソファが狭くて窮屈そうだけれど、頭は先刻退かした枕の上に乗せているようだし、きっとそれほど寝心地は悪くないだろう。

 早々に脱出を諦めた私は、おもむろに胸に突っ伏して大きく息を吸い込んだ。


 すぅぅぅぅぅぅぅっ


 土埃と……お日さまと……九日ぶりの、グレニスの香り。

 もう二度と嗅ぐことは叶わないと思っていた、何よりも大好きな香り。


 たっぷりと香りを吸い込んでようやく実感が湧いてくると、目頭が熱を持ち、ツンと鼻の奥が痛む。

 この香りが、グレニスが、本当に私のものになるなんて。


 ぺたりと胸に頬をつけ、鼓動に耳を澄ませる。


 どく……、どく……、どく……、


 幻ではない。

 ちゃんと、ここにいる。


 呼吸に合わせて上下する胸、ゆったりとした鼓動、全身グレニスのぬくもりに包まれて、大好きな香りが鼻腔を満たす。


 ずっと頭を悩ませていた婚約者問題も解決して、久しぶりにすっきりと幸せな気持ちでふわぁと大きな欠伸を洩らした。








「———ヴ、———の?」


 微かに聞こえるお母様の声に、ぼんやりと意識が覚醒していく。


 なんでお母様が……?

 あれ……そうか私、実家に帰ってきたんだっけ………。


 むにゃむにゃと硬い胸に頬を擦り寄せ……………って!!!


「グレンっ! グレン起きて! お母様が来たわ!!」


 小声で叫びながらべしべしとグレニスの胸を叩く。

 抱き合って寝ている姿をお母様に見られでもしたら大変だ!


「ん……ああ、すまない……。すっかり熟睡してしまったようだな……」


「いいから早く起きてーっ!」


「リヴ? 入るわよ?」


 グレニスがのっそりと身体を起こすと同時に、ガチャリと扉の開く音がした。


「あっ、おっ、お母様! ごめんなさい、話し込んでて声をかけられたのに気付かなかったみたい!」


 居ずまいを正して扉の前に立つお母様を向く。


「……だと、話し合いはうまく纏まったみたいね?」


「へっ?」


 お母様の言葉に首を傾げて振り返れば、眼前に広がるグレニスの胸。

 恐る恐る視線を下ろしていくと、その身体から伸びる脚は私のお尻の下へと続いて———



 グレニスの膝に乗ってる!!



 それもそうだ。私を抱えたまま寝そべっていたグレニスが、私を抱えたまま上体を起こしたのだから。


「あ、あのっ、お母様っ、これは違うの!」


 自分でも何が違うんだかわからないけれど、とりあえず弁明を試みる。

 このままでは普段からこんなことをしていると誤解されてしまう! …………ん? 誤解でもない?


 お母様は慌てる私の目を見て、にっこりと優雅に微笑んだ。


「あなたたちが仲良くやっているのなら何よりよ。さ、お夕食の支度ができているから、下りてらっしゃい」






「急な訪問にも関わらず、夕食の席へお招きいただきありがとうございます」


「いやいやっ、そんなにかしこまらずにジェルム侯爵もどうぞここを我が家と思って楽になさってください! なーんて言っては侯爵家に失礼ですかね、ははは」


 お父様とお母様が並んで座り、テーブルを挟んだ対面にグレニスと私が座る。


 お兄様は奥さんと子どもと家族水入らずでタウンハウスに住んでいるし、お姉様は遠方に嫁いでいてたまに顔を見せにくる程度なので、この場にはいない。


「ありがとうございます。お二人も、私のことはどうぞグレニスとお呼びください。私に対しての敬語も不要です」


「え……えー、そうかい? それなら……」



 運ばれてくる料理はどれも懐かしい味がする。

 もっと美味しい料理はいくらでもあるだろうけれど、幼い頃から慣れ親しんだ味は優しくするりと身体に染み込んでいくようだ。


 ちらりとグレニスを盗み見れば、皿にはまだ私と同程度の料理が残っている。

 どうやら食べる速度を落としてみんなと合わせてくれているらしい。

 目が合うと、グレニスは『やればできるだろう』と言わんばかりにニヤリと口端を上げてみせた。


「リヴ、向こうでのお勤めはどうだったの?」


 はっとして正面のお母様に視線を移す。


「うん、叱られることも多かったけど、やりがいがあって楽しかったわ! お掃除のコツとか、シミ抜きの方法なんかも習ったのよ」


 うんうんと興味深そうに聞いてくれるお母様に、嬉しくなってあれもこれもと話して聞かせる。

 やはり私も、手紙だけでは話し足りていなかったようだ。


「……そう、いい方たちに恵まれたのね。グレニスさんのお屋敷では、行儀見習いにも下級メイドのような仕事を?」


「はい。自分たちの生活の裏にあるものを知っておくことが重要だと考え、三年かけて掃除から給仕まですべてのメイド業に触れてもらっています。何事も、綺麗に整えられた表面だけを見ていては思考が鈍りますので」


「なるほど」


「へぇー……」


 ただ厳しいというわけではなく、そんな考えがあったのか。知らなかった。


「それで? グレニスさんはどうしてリヴェリーに結婚を申し込んだのかしら?」


「っげほ! お母様っ!」


 危ない。口にものが入っていたら吹き出しているところだ。


「知っておく権利はあると思うわ。大事な我が子を差し出すんですもの」


 そんな取って食われるみたいな言い方しなくても……。


「そうですね。どんな作業であっても真剣に取り組み、いつ見ても楽しそうに過ごしている姿を好ましく思いました」


「そんな人は他にもいるでしょう?」


「お母様っ!」


これではまるで面接だ!


「……リヴェリーは私の怒った姿や汚れた姿を目にしても、何一つ変わらずにすべてを受け入れてくれました。騎士は決して華やかな職ではなく、汗や泥にまみれることは日常茶飯事です。苛立つことや、気が滅入ることだってある。共に人生を歩むのであれば、綺麗な面だけを見せ続けることはできませんから」


「……そうね。結婚すれば、いい面だけを見ているわけにはいかないわ。なら逆に、あなたはこの子のすべてを受け入れてくれるのかしら?」


「ちょ……っ」


「はい、問題ありません」


「好きな香りのこととなると、見境がなくなってしまうことは?」


「そ……っ」


「承知しています。私の匂いが一番好きだと言って側に来てくれる姿を、とても愛らしく思っています」


 やーーめーーてーーーーー!!


 ああ……、うあぁ……、お母様とグレニスのやり取りで、私だけが羞恥に悶え転がる羽目になっている。

 頬が……顔が熱い……。

 もうやめて……。許して……。

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