第43話 名も知らぬ婚約者

 グレニスが口を開く。


「俺が———」


 やめて。

 やめてお願い。

 一人修道院に入って、ひっそりと暮らすから。

 子どもができていたって、決してグレニスに迷惑はかけないから。


 だからお願い。

 他の男性ひとの元へ嫁げだなんて言わないで。

 私の気持ちさえも迷惑なのだと言われてしまったら、この胸の幸せな記憶さえも粉々になってしまう……。


「リヴのと言い、リヴも快諾してくれたじゃないか……」


「いやっ——————……え?」


 想像とは異なるグレニスの言葉に、固く瞑っていた目を瞬いて顔を上げる。


 なんの話だろう?

 時間? 俺が……??


 グレニスは苦しげに眉根を寄せたまま、なおも絞り出すように言葉を続ける。


「リヴの見舞いに行った日だ。決まった恋人がいないのなら、この先の未来を、リヴの人生時間のすべてを俺が貰ってもいいかと聞いただろう」


 私の人生のすべてを……………………いや。いやいや嘘だ。よくよく思い返してみても、そんなロマンチックなセリフ絶対に言われていない。


 かろうじて『リヴェリーの時間を貰ってもいいか?』とは聞かれたような気がするけれど、それは完全に休日の予定の話だと思っていた。


 しかし今のグレニスの言葉を要約するならば、まるで……。


「グレンが私に……プロポーズした、ってことですか……?」


 問いかけながらも、冷静な自分が否定する。


 まさか。いくらなんでもそんなに虫のいい話あるはずがない。実際にはきっと、全く違う意図で言われた言葉———


「ああ、そうだ。あの日俺はリヴに結婚を申し込み……そしてリヴも、結婚に同意してくれたと思っていた。……本当に何も覚えていないんだな」


 グレニスが哀しい目をして私を見つめる。


 待って、待って、待って。

 あの日のことを覚えていないわけではない。

 一言一句鮮明に思い出せるわけではないけれど、話した内容は覚えているし、会話のあとで何をされたかも、その、ちゃんと、覚えている。

 ただ、そもそもの認識に盛大なずれがあるというかなんというか!


「じゃっ、じゃあ! 私のっていうのは!?」


「俺に決まっている。すっかり了承を得られたものと思い込み、翌日にはメイラー子爵宛てに正式な書面を送っていたからな。リヴが俺の部屋を訪れたとき、ちょうど子爵から届いたの返事を読んでいたところだった」


「なっ……」


 え? え?

 それなら、お父様の手紙にあった『結婚の申し入れ』を送ってきた相手というのは。『名も知らぬ婚約者』の正体は。


 …………グレニスだった、ということ?



 事態が飲み込めず頭では混乱しながらも、胸の奥からはひとりでに喜びが込み上げて、みるみるうちに千切れかけた心を繋いでいく。


 生真面目なはずのグレニスがお見舞いの日に突然口付けてきたのも、あの晩私のすべてを求めてくれたのも全部……私を婚約者だと思っていたから———?


 お父様の承認まで得ているとあればもう何一つ問題はなく、あとは式を挙げるだけだ。

 ……あ。そういえばさっき勢いのままにお父様をなじってしまったのだった。

 あとで謝っておかなくては。




 私が喜びに満たされていく間にも、グレニスの表情は暗く落ち込んでいく。


「迅速に行動したことが、結果的にリヴを追い詰めることになってしまったようだな……」


「グレン! 私———」


 私を抱きしめる腕が、ぐっと力強さを増す。


「だが、今さら逃がしてやるつもりなどない。修道院など行かせるものか。どんなに嫌がろうとこのまま屋敷へ連れ帰る。……厄介な男に惚れられたと諦めるんだな」


 そんな横暴を口にしながらも、グレニスの瞳は泣き出しそうなほどに哀しげで。


 いつも私を心配してばかりの優しいグレニスが、私の意思なんて関係ないという。無理にでも手元に置くという。

 それほどに私が、必要なのだと。


 たまらず両手でグレニスの頬を包み込むと、ぐいと引き寄せ薄い唇に勢いよく口付けた。


 ガチッ! ……歯が痛い。


「———っします! グレンと結婚します! したいですっ!」


「…………は? 今さら俺をあざむいて油断させようとしても———」


「時間も差し上げます! 私の持ってるものならなんだって差し上げます! だから結婚しましょう! グレンと毎日一緒に過ごしたいんです! 一生っ!!!」


「…………」


 グレニスは唖然として固まってしまったので、ここぞとばかりに言い募る。


「私、結婚相手を知らなかったんです。お見舞いの日の言葉がプロポーズだったことにも気付かないまま、ただ突然、お父様から結婚相手が決まったという手紙を受け取って。手紙には相手の名前さえ書いていなかったので、てっきり全然知らない人と結婚させられるものだとばかり……。でもグレン以外の人と結婚するなんて、どうしても考えられなかったんです! だから私、こうなったらもう家を出て修道院に入るしか結婚を逃れる道はないと思って、それで手紙にも……」


 唖然としたまま私の話を聞いていたグレニスが、言葉を探しながらゆっくりと口を開く。


「それは……その、なんだ……。リヴも、はなから俺と結婚する気があった、ということか……?」


 うっ……。先ほどは勢いで言ってしまったけれど、改めて問われると恥ずかしい。


「……はい、そうです」


 赤らむ顔を俯けつつ消え入りそうな声で答えれば、身体中の空気を吐き出したかのような盛大なため息が降った。


「っはぁぁぁぁ……」


 グレニスは私を抱きしめたまま、脱力したようにごろんとソファに寝そべる。

 ソファが狭いので、長い脚のすべては収まっていないけれど。


「あ、あの、グレン……?」


 仰向けになったグレニスの身体に乗り上げてしまい慌てて下りようとしても、力強い腕がそれを許さない。


「馬を乗り換えながら飛ばして、このろくに寝ていないんだ……。少し休ませてくれ……」


「! そんな無茶をしたんですか!?」


 グレニスの屋敷からここまでは馬車で順調に行って八日、馬でも恐らく五、六日はかかる。そこを一日以上縮めるということは、その分の休憩や睡眠時間を削って移動に費やしたということになる。


「修道院に入られては、二度と取り戻せないからな……。リヴ、もう俺から逃げるな……」


 グレニスの声が眠気に掠れ、徐々に緩慢になっていく。

 厚い胸に頬を寄せれば、とくとくと落ち着いた鼓動が聞こえてくる。


「はい……。もう二度と逃げません」


「ふっ……たとえどこに逃げようと、必ず捕まえるけどな…………」


 少しして、すぅすぅと規則的な寝息が聞こえてきた。

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