第40話 世継ぎを産むということ

 とうとう大きな屋敷を囲む塀の一端さえも見えなくなって、ようやく窓から顔を引いた。


 街並みは止まることなく窓の外を流れていく。

 グレニスへの恋心も、グレニスと出かけた思い出も、すべて置き去りにして遠ざかっていくかのようだ。


 抱えた枕に涙が染みては大変とハンカチを取り出せば、クリーム色をした小花柄のハンカチに……そのイニシャルの群青色に、また止めどなく涙が溢れた。





 ———大丈夫。


 私には、宝物のような思い出がある。

 未来に何が待ち受けていようと、この思い出さえあれば生きていけるから。


 そしてまだ知らぬ結婚相手と、これからの長い人生を歩むのだ。

 生が尽きるまで……永遠に……。


 …………。


 ……でもほら! 案外いい人の可能性もある!

 優しくて、いい香りがするかもしれない。

 他愛ないおしゃべりをしたり、一緒に出かけたり、楽しく日々を過ごせるかもしれない。


 そしていずれはグレニスとしたように、

 口付けを交わし、

 抱き合って、

 すべてをこの身に——————、無理だ。



 今まで漠然としていた結婚へのイメージが……世継ぎを産むということが、俄然具体性を増して目の前に立ちはだかる。


 あんな風に自分のすべてをさらけ出し相手のすべてを受け入れる、心と心を触れ合わせるような掛け替えのない行為を、グレニス以外の男性とするなんて。

 考えられない。考えたくもない。


 けれど結婚する以上、世継ぎを産むことは決して避けては通れないのだ。


「どうしよう……」


 当てのない呟きは馬車の音に消え、血の気を失った指先が冷えていく。


 決められたものは仕方ない、貴族の娘に生まれた務めと、そう割り切れると思っていたのに。



 想いを伴わない行為はきっと、この夢のような思い出を土足で踏みにじり、無遠慮にけがすだろう。


 覚えていたはずのグレニスの温度を書き換えられ、段々と香りの記憶さえも薄れ。行為を重ねるほどに壊されていく思い出が、いつか私の心までもむしばむだろう。



 自分が甘かった。

 何もわかっていなかったのだ。

 愛を営む行為の尊さも、愛を伴わない行為の残酷さも。


 愛してもいない人と、をなさなければ———


「…………ん?」


 ふと思い当たって首を傾げる。


 そういえば昨夜、グレニスは避妊をしていただろうか?


 避妊には薄い皮膜のような避妊具で陰茎を被うか、事前に特別な薬を服用する必要があると習った。

 私は薬なんて持っていないし、グレニスも、そのどちらもしていなかったように思う。


「もしかして……」


 ぎゅっと枕を抱きしめれば、ふんわりとした感触が優しく腹を圧す。

 どきどきと鼓動が高鳴って、高揚感に頬が染まる。


 もしかすると———昨日のあの行為で、子どもが出来ていたりするのだろうか?


「グレンと、私の……」


 ぽすんと枕に顔を埋める。


 先ほどまでの絶望感からは一転。

 かぐわしい香りとともに、胸に温かなものが広がっていく。


 大好きな人と愛しあった証が、私の中で息づいているかもしれない。

 幸せな愛の結晶を、この手に抱けるかもしれないなんて。




 小石にでも乗り上げたらしく、ガタンッと馬車が弾む。


「———そうだ!」


 突然のひらめきにガバッと顔を起こす。

 どうして今まで思いつかなかったのだろう!


「修道院に入ればいいのよ!」


 こちらから婚約破棄を申し出れば、きっと家族にまで迷惑をかけることになる。

 けれど、私が勝手に家出して修道院に駆け込んだとなったら?

 身勝手なことをしたと後ろ指さされるのは私だけで済むはずだ。


 修道院は戒律が厳しく質素な生活で自由もほとんどないと聞くけれど、愛していない人と交わる辛さを思えば不自由くらい些末なこと。

 未婚の母の保護活動もしているというから、もし私が妊娠していたとしてもそのまま産み育てられるだろう。


「そうよ、それがいいわ」


 絶望の中に見いだした唯一の活路。

 最良の思いつきに、一人うんうんと大きく頷いた。






 日が暮れて、夜を越すため宿屋に立ち寄る。


 あのあと前日の睡眠不足と泣き疲れも相まって馬車で熟睡してしまった私は、ぱっちりと目が冴えていてまだまだ眠れそうになかった。


 早めの就寝は諦めて、簡素な机の上にレターセットを広げる。

 あれほどお世話になったグレニスに何も言わず出てきてしまったので、遅ればせながら手紙をしたためるのだ。


 ———たとえ話す機会を与えられていたとしても、『結婚が決まったので帰ります』だなんて自らの恋に終止符を打つようなこと、とても面と向かって口にはできなかったと思うけれど。




「…………うーん」


 つらつらと思いの丈を綴って読み返してみれば、グレニスの香りの魅力についてだけで便箋二枚が埋まっていた。


 違う、そうではない。……わかってるわかってる。ちょっと仕切り直そう。


 みっちりと文字の詰まった便箋をくしゃくしゃに丸めてくずかごに捨てる。


 コホンッ


 言い訳のように咳払いすると、改めてペンを持った。

 簡潔に、簡潔に。



 要点だけを押さえて手短に、今度こそ手紙を書き上げた。


 内容は、今までお世話になったお礼と、挨拶もなしに出てきたお詫び。結婚が決まって実家に帰ることと、結婚は受け入れられないので修道院に入ろうと思っていること。

 そして最後に一言、いつまでも大好きです、と。


 封蝋をした手紙は、幾ばくかの手間賃とともに宿の主人に託しておいた。





 二日過ぎ、三日過ぎ。

 途中大雨で足止めをくらった以外は大きなトラブルもなく、順調に馬車は進んでいく。





 九日間に及ぶ帰省の道中、考える時間ならいくらでもあった。


 グレニスとの別れを嘆き悲しみ、未来をどこまでも悲観してみたり。


 何もかもが億劫になり、ただ呆然と窓の外を眺めたり。


 無理矢理にでも楽しいことを考えようと、空元気を出してみたり。




 そして実家に着く直前。


 私の中にあったのは、ふつふつと湧きあがる怒りだった。

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