第39話 またね
股関節の痛みでぎくしゃくする脚の動きをどうにか誤魔化しながら、できうる限りの全速力で使用人棟を目指す。
私が行儀見習いを辞めたと知っているのはメイド長と一部のメイド仲間のみ。
人のいなさそうな道を選んで進み、通りがかった男性使用人へは何食わぬ顔で会釈して、すっと横を通りすぎる。
無事に屋敷を抜け出し庭を抜け、誰に見咎められることもなく使用人棟へと辿りついた。
その場に洗濯かごを下ろしてマニーを振り返る。
「マニー! マニー、ありがとう!! マニーが来てくれなかったら私、あの部屋で隠れたまま掃除係にでも見つかってしょっぴかれてたわ!」
「ううん、気にしないで。……ずっと心配してたの。私が後先考えずに送り出しちゃったせいで、リヴを困らせちゃったんじゃないかって」
「そんなことない! 私一人だったら今頃、何も行動せずに想いも未来も全部諦めちゃってたと思うから……。マニーが私の心を守ってくれたのよ!」
しっかりと目を合わせて力説すれば、マニーも照れ臭そうにいつもの笑顔を見せてくれた。
「えへへ、そう……? まあどうなることかと思ったけど、旦那様ともうまくいったみたいでよかったじゃない!」
「うん、最後に最高の思い出ができたわ。それもこれも全部、マニーが背中を押してくれたおかげよ! それなのに私……昨日は酷いことを言っちゃってごめんなさい」
私を心配してくれたマニーに対し、急な結婚への歯がゆさから『マニーに何がわかるのよ!』と酷い言葉をぶつけて八つ当たりしてしまったのだ。
「……その件に関しては相応のお詫びを要求するわ」
笑顔を消したマニーが、ツンとそっぽを向いて答える。
「えっ? ど、どうすればいいかしら……」
お詫びの品を贈ろうにもすぐには手配できない。迎えの馬車だって早ければ今日にも着いてしまうだろうし、できることも限られている。
けれどお詫びをしないままここを去るなんて選択肢もないし、一体どうすれば———
「リヴの実家っ! 遊びに行ったとき、デザート一品追加で赦してあげる! 旦那様との話も今度聞かせてもらうからねっ!」
私の困惑した顔を見て、マニーはいたずらが成功したかのようにケラケラと笑った。
酷いことを言った私をもっと責めてもいいはずなのに、たったそれだけのことで水に流してくれるという。
「じゃあ私、もう持ち場に戻らないと。抜けてたことがばれたら大変!」
「うん、本当にありがとう。デザートは料理番によく言っておくわ。……私、マニーが同室でよかった。マニーに困ったことがあったら、いつだって駆けつけるから」
旧友のように笑い合い、姉のように頼りになる、ちょっとお節介でとっても優しい、大切な大切な友人。
「なによ改まって。……私だって、最初は貴族のお嬢サマが同室だなんてゲェーって思ったのよ。庶民だって見下されてわがまま放題言われるんだろうなって。なのにリヴってば全然気取ったところがないし、どこか抜けてて放っておけないし……。もし妹がいたらこんな感じだったのかな、とか考えちゃって……」
「マニー……」
「リヴが帰っちゃうの、すっごく寂しいんだからね!?」
「私も! マニーと離れるの、すごくすごーく寂しいわ!!」
潤んだ瞳でひしと抱き合う。
今生の別れではない。
手紙を書こう。
きっとまた会いに来よう。
嫁ぎ先がどれほど遠い地かはわからないけれど、どんなに離れたって友情は切れないのだから。
「……じゃあ、戻るわね」
抱擁を解いたマニーは、さりげなく目元を拭って洗濯かごを拾い上げる。
「うん……またね」
私も目元を擦りながら空の洗濯かごを手渡すと、仕事に戻るマニーを見えなくなるまで見送った。
部屋に戻り、私服へと着替えを済ませる。
迎えの馬車はいつ着くだろう?
今日? それとも明日?
なんなら明後日だっていい。まだまだここを離れがたいのだ。
気持ちが落ち着かず、まとめた荷物を何度も確認しては、そわそわと狭い室内を歩き回る。
日が真上に昇った頃。
遅れろ遅れろという祈りも虚しく、管理人が迎えの馬車の到着を知らせにやってきた。
「さてと……」
大きな旅行鞄一つと、反対の手には枕を抱える。
元々、行儀見習いの期間は三年と決められていた。
どうせ期限が来ればここを出なくてはいけなかったのだから……。それがちょっと、早まっただけ。
部屋を出る前にもう一度室内を振り返ろうとして、やはり振り返ることはせずにドアをくぐる。
見ても未練が増すだけだ。
裏門を出ると、使い込まれてほんのり色褪せた、馴染み深い赤茶色の馬車が停まっていた。
「お嬢様、お久しぶりです。しばらく見ない間に凛々しいお顔つきになられて……!」
「んもう、ディムったら。半年足らずでそんなに変わるわけないでしょ!」
御者のディムは傭兵上がりで、護衛としても優秀な腕を持つ。
専任の護衛なんていない我が家では、長距離移動をする時にはいつもディムを伴っているのだ。
「孫のルューちゃんがまだ小さいのに、長い旅路を何度もごめんなさいね」
「そんなこと! 旦那様にゃ申し訳ないが、俺はリヴェリーお嬢様のことだって娘みたいに思ってるんです! だからこうしてお迎えに来られて嬉しいんですよ」
実家は使用人が少なく、誰も彼も長く勤めてくれている人ばかりなので、使用人たちもみんな家族のようなものなのだ。
鞄を預け、枕は抱えたままで馬車へと乗り込む。
見送りはいない。
なんて呆気ない終わりだろう。
この大きな屋敷は、私一人いなくなっても何一つ変わらない日常を送るのだ。
御者の合図で馬車が動き出す。
ガラガラという車輪の音に混じって、ふと窓の外から声が聞こえた。
「リヴー!」
窓から顔を出して振り返れば、裏門を飛び出したマニーが大きく手を振っていた。
耳の早いマニーのこと、どこかで馬車の到着を聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「リヴー! 手紙書くから! 忘れないでねー! 絶対また会いましょうねー!」
「っマニー! うん! うんっ! また……っ、また必ず……っ」
大きく叫んで伝えたいのに、込み上げる想いが喉を塞いで声にならない。
滲む視界を何度も瞬いて、ただ必死に身を乗り出して大きく手を振り続ける。
みるみる遠ざかっていくマニーの頬へも、先ほど
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