第38話 悪女になったの
「———ヴ、リヴ。朝だぞ」
「んー……」
肌触りのいいシーツの上でころりと寝返りを打つ。
「まだ身体が辛いだろう。俺はもう仕事に行かねばならないが、部屋の掃除は遅らせるよう言っておいたからゆっくり休んでいるといい」
伏せた枕のいい香りを嗅ぎながら心地よい低音に耳を澄ませ……徐々に頭が覚醒してくると同時に、急速に自分の置かれた状況を理解した。
「私———っぐ!」
ガバッと跳ね起きた途端腰に鈍い痛みが走り、よろよろパタリとシーツに引き返す。
腰だけではない。
股関節は油を切らしたかのようにぎしぎしと痛むし、内ももはひどい筋肉痛、発した声も喉の痛みで掠れている。
「すまない……、昨夜は無茶をさせた。今日はゆっくりと休んでいてくれ」
数時間に及ぶ行為によって疲労困憊、睡眠時間だって削られたはずなのに、グレニスは妙に元気そうだ。
まあ、疲れで仕事に支障を来してしまうよりはいいけれど……。
私の前髪を撫でつけ額に一つ口付けを落とすと、「いってくる」と言い残して部屋を後にした。
首だけを動かし周囲を見渡す。
ここは昨夜連れられて入ったグレニスの寝室。
私は広いベッドの端の方に寝ていて、すぐ横のサイドボードには水差しとゴブレットが置かれている。
いつの間に清めてくれたのか身体はさっぱりとして、下着とネグリジェもきちんと元通りに着せつけられていた。
「んっしょ……」
よろよろと重い身体を起こす。
水差しの水でありがたく喉を潤すと、溶け込んだ柑橘の風味に頭もすっきりと冴えてくる。
「……急がなくちゃ!」
部屋の掃除は遅らせてくれるようだけれど、今は一刻も早くここを抜け出さなくては。
他の人間に見つかればグレニスにあらぬ噂が立ってしまう。
床に下ろした足で立ち上がろうと踏ん張れば、行かせまいと絡みつくような
———グレニスを、この身に受け入れたのだ。
熱い眼差し。力強い抱擁。心ごとすべてで私を求めてくれた。
記憶にあるのは、二度目の行為が始まったところまで。
幸せで、幸せで……そして決して引き返せない罪を犯した。
婚約者がいるにも関わらず他の男性と身体を重ねた自分はもう、最低最悪の悪女になってしまったのだ。
「……っ」
ぺちんと頬を打って気持ちを切り替える。
今は感傷に浸っている場合ではない。
両手をサイドボードについて立ち上がれば、ももは震え股関節の動きもぎこちないけれど、幸い歩けないほどの痛みはない。
履き物を履き、ずるずるとドアを目指した。
ドアノブに手をかけ、そこではたと重大な問題に気付く。
「私、寝衣だわ……」
身につけているのはネグリジェ一枚。
グレニスが登城する時間、すでに使用人たちも出勤してきている。
運よく部屋から出る瞬間を目撃されずに済んだとして、そこから誰にも見つからずに使用人棟に戻るのは難しい。
もし寝衣姿でうろついているところを見つかれば、不審がられ理由を追及されることは必至。
「ど、どうしよう……」
サーッと血の気が引いていく。
青ざめる私の目の前で、ドアがノックの音を立てた。
コンコンコンコンッ
「!!」
部屋の掃除は遅らせると言っていたのに!
咄嗟にドアノブから手を離し隠れる場所を探そうと振り返った瞬間、よく知った声がひそひそと呼びかけた。
「リヴっ! リヴ、そこにいる!?」
「マニー!?」
勢いよくドアに飛びつく。
恐る恐る薄くドアを開ければ、お仕着せ姿のマニーが洗濯かごを抱えて立っていた。
「物置小屋にも
ドアの隙間からぐいぐいと押し付けられるお仕着せ一式を受け取る。
自分のお仕着せはすでに返却してしまったので、これはマニーの予備だろう。
「ありがとう! どうしようかと思ってたの!!」
「いいから早く早くっ!」
さっさと着替えろとばかりに、ぱたんとドアが閉められた。
ぎしぎしいう身体の悲鳴を無視して、大急ぎでお仕着せに着替える。
椅子にかけられていたガウンとリボンも回収し、簡単に髪をまとめると、丸めた着替えを胸に抱えてぐるりと室内を見渡した。
もう二度と立ち入ることのない部屋。
大好きな人の香りが染み込んだ、心地いい空間。
この香りだって、もう二度と嗅げはしないのだ……。
コンコンッ
「リヴ、着替えた!?」
慌ててぱたぱたとドアに駆け寄る。
「着替えたわ! 出ても平気?」
「ええ、今なら廊下に誰もいないわ」
マニーの言葉を聞き、素早くドアから飛び出した。
「さ、これを持って!」
「うん、ありがとう!」
カモフラージュのためだろう、手渡された空の洗濯かごを受け取る。
「それにしてもリヴ、酷い声ね。それに……その枕は何?」
着替えとともに洗濯かごに詰め込んだ羽根枕を、マニーが
「私ね……悪女になったの。悪に染まってしまったのよ」
悪女となったからにはもう、盗みだって
たっぷりと香りが染み付いた、グレニス愛用の枕はいただいていく!
「……悪女ってそういうことじゃないと思うけど」
マニーは呆れ顔で足元に置いていたもう一つのかごを抱えると、二人揃って足早にその場を離れた。
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