第37話 幸せな夢

「グレニス様……」


「先ほどから呼び方が違う」


 耳元で囁かれ、ぴくりと肩が跳ねる。


「…………グレン?」


 少し迷って口を開く。


 あの日限りでなく、愛称で呼ぶことを許してくれるのだろうか。

 もう呼べる機会など、今夜しか残されていないけれど。


「それでいい。リヴ、愛している」


 グレニスは満足げにそう言って、私の首筋に顔を埋め———


「えっ!!?」


「どうした?」


「あっ、あの、グレン……っ?」


「うん?」


 どうやら『止まれない』という言葉は本当だったらしい。

 優しく問いかけながらも、止まることのない手が私を探る。


「ん……っ、……い、今の! 愛してるって……っ!」


「ああ、愛している。……言ってなかったか?」


 そんな重要なこと、一度たりとも。


「聞いてません……っ! なっ、なんで……?」


「なぜ? そうだな……」


 グレニスが首筋から顔を上げる。

 いたずらな手は未だに止まらないけれど。


「毎朝嬉しそうに抱きついてくる様が、段々と愛おしく思えてしまってな。なんの含みも持たない純然たる好意が眩しかった。……『匂いを嗅ぎたい』などという、下心とも呼べないような見え透いた思惑はあったようだが?」


 楽しそうに笑んだ唇が、優しく私の唇に触れた。


「あんなに俺に好意を示しておきながら、他の男の匂いを嗅いでいたときには妬けたぞ。まあ、おかげで自分のを自覚したんだけどな」


 ……どこからが夢?


 私はいつの間に眠ってしまったのだろう?

 早く目を覚まして、グレニスに想いを伝えに行かないと。

 ああ、けれど。

 なんて私に都合のいい、幸せな夢だろう。


「労をいとわず真剣に仕事に取り組む姿も好ましく見ていた。何事にも全力で一途なリヴが好きだ」


「っ———」


 視界が滲み、温かな雫が流れ落ちる。

 夢だろうと、しっかりとこの光景を目に焼き付けておきたいのに。


「……なぜ泣くんだ?」


 戸惑うような声。

 動きを止めた手のひらが私の頬を包み、零れる涙をせっせと親指の腹で拭う。


 夢の中のグレニスも、やっぱり女の人に泣かれると弱ってしまうらしい。


「ゆっ、夢でも、うれっ、嬉しくって……っ」


 色も音も香りも、自分を取りまくすべてのものが鮮やかさを増してゆく。

 世界の美しさを改めて知るような、温かな春の泉にとぷんと落ちてゆくような。

 溢れ出ているのが涙なのか想いなのか、それさえもわからなくて。

 わかるのはただ、私を好きだと言うこの人が、私の大好きな人だということだけ。


「ふっ、夢なものか」


 笑みを含んだ声がして、そのままふわりと抱き上げられた。


「現実だと理解できるまで何度だって言ってやる。———リヴ、愛している」






 肌触りのいいシーツからは清涼な洗剤の香り。

 優しく触れる手の熱は、まるであふれ出た愛情のようで。


「リヴ、酷くはしない。そう固くなるな」


「そんなこと言われても……っ」


 酷いことをされるだなんて微塵も思っていないけれど、全身に力を込めていないと一瞬で波に飲み込まれそうなのだ。


「ほら、今なら好きなだけ嗅ぎ放題だぞ?」


 かぎほうだい……。

 好きなだけ……嗅ぎ放題——!!?


 ガバッと勢いよく跳ね起きる。


「い、いっぱい嗅いでも嫌いになりませんか……!?」


「ふっ、そんなものだろう」




 すんすんすんすん


「おい、そんなところに鼻を突っ込むな」


ろこれもどこでも嗅いれいいって言いまひた!」


「……楽しいか?」


「ん、濃い香りがひて好きれふ」


「そうか。俺も好きだぞ。やわらかな髪も、小さく華奢な身体も」


 言葉とともに、グレニスの手が私を辿る。


「リヴ……愛している。俺の———」



 自分のものとは違う高い体温が、内側から、外側から、すべてを塗り替えるように優しく私をさいなんだ。

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