第36話 楽しげに微笑んでくれるのなら

 一際立派な扉の前。

 前を通ったことなら何度もあるけれど、重要な場所の掃除を任されない下っ端だった私にはついぞ足を踏み入れることの叶わなかった部屋。


 バクバクと高鳴る鼓動を落ち着けるため、その場で大きく深呼吸する。


 すぅぅぅぅ、はぁぁぁぁ


「……ふぅ」


 チャンスは今夜だけ。やるしかない。

 右手を固く握りしめると、意を決して扉を叩いた。



 コンコンコンコン



「……誰だ」


 寸の間あって、誰何すいかの声が応える。


 二日と半日ぶりに聞くグレニスの声。

 冷たく萎縮していた心が急速に熱を帯び、同時にズクズクと脈打つような疼痛とうつうをもたらす。


 この扉の向こうに、グレニスがいる。


「リっ、リヴェリー=メイラーです。お話があって来ました。少々お時間いただけないでしょうか」


 緊張に上ずる声を律して呼びかける。


 ……あれ? でも、もし会ってもらえなかったらどうしよう?

 このまま扉を開けてもらえなかったら。

 今会えなければ、きっともう———



 ガチャッ



 悪い予想に青ざめていく私の目の前で、扉が開いた。


 室内灯の明かりの中、逆光になったグレニスが驚いたように私を見下ろす。


「リヴ? こんな時間にどうした」


 ああ、目の前にグレニスがいる。


「っ、あのっ! あの、お話が、あって……」


 開けてもらえた安心と、グレニスに会えた喜び。話をしなければという緊張に、行く先への不安や悲しみ。

 色々な感情がごちゃ混ぜになって、なんだか泣いてしまいそうだ。


「わかった。とにかく中に入れ」


「お邪魔しま……す」


 グレニスの温かな手は優しく私の肩を抱くと、明るい部屋の中へと導き入れてくれた。





 広々とした室内。

 深い森を思わせるモスグリーンの壁に、どっしりと重厚なマホガニーの調度品。

 すべてのものにグレニスの香りが染み込んでいるかのような、そこにいるだけで心地のいい空間。


 奥の書き物机には無造作に置かれた紙の束が見える。

 きっと屋敷にいる間も、時間を惜しんで仕事にあたるのだろう。


「お忙しいところすみません……」


「いいや、ちょうど気分転換に湯浴みでもしようと思っていたところだ。なんなら一緒に入るか?」


 とんでもない提案にぶんぶんと首を振る。


 その目元にはうっすらとくまを浮かべ連日の疲れをうかがわせるものの、こんな冗談を言ってみせる程度には機嫌がいいらしい。

 急な訪問を迷惑がられてはいないようで、ひとまずほっと胸を撫でおろす。



 グレニスにいざなわれ、ローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファの一方に腰かける。対面に座るかと思ったグレニスは、そのまま私の隣に腰を下ろした。

 四人掛けのソファには十分なゆとりがあるにも関わらず、当然のように回った腕がぐっと私を引き寄せる。


 ふわりと、香りが漂った。

 何よりも強く欲した香り。


 密着した部分からはじわじわと高い体温が伝わってきて、跳ねる鼓動を抑え込むようにガウンの胸元を握りしめる。


 ちらとグレニスを盗み見れば、いだ海のように穏やかな群青の瞳に捕まった。


「ん?」


 声を聞き、見つめられ、触れあって、香りを嗅いだなら。

 必死に押し込めていたはずの感情はいとも容易く解き放たれて、みるみるうちに身体の内を埋め尽くす。


 嬉しい。温かい。伝えたい。怖い。欲しい。与えたい。気付いて。気付かないで。私を見て。お願い、だって。何よりも。何もかも———


「———好きです」


 膨らみきった想いは、とうとう抱えきれずに口からあふれた。


 好き。グレニスが好き。


「グレニス様が好きです。香りだけじゃなくて、厳しさも優しさも、声も瞳も体温も、全部……全部好きなんです」


 生まれて初めての告白はあまりにもつたなくて。

 それでもどうか少しでもこの気持ちが伝わりますようにと、俯きそうになる顔を上げ、しっかりと目を合わせて好きだと繰り返す。


「真面目で融通が利かないところも、だけどちゃんと話を聞いてくれるところも好きです。一緒にいると距離が近いのも、慣れなくて恥ずかしいけど好きです」


 こんなにも大きな想いが、一体どうやって自分の中に収まっていたのだろうと思う。

 どんなに好きだと口にしても、あとからあとからあふれてくるのに。


「抱きつくと抱きしめ返してくれるところも好きです。真剣に鍛練に打ち込む姿も、意外と心配性なところも、困っている人を放っておけないところも好きで———っ」


 とめどなく溢れ出る想いは、性急な口付けに飲み込まれた。

 反射的に引こうとした腰を強く抱かれ、もう一方の手でがっしりと後頭部を支えられて口付けが深まる。


「……っ、……」


 触れ合う唇の熱が交じり、私と同じだけの想いをグレニスも返してくれているかのような、幸せな夢を見せる。


 力の抜けていく身体を支えようとグレニスのシャツにすがりつき……気がつけば、私はソファに組み敷かれてグレニスを見上げていた。


「っはぁ……、はぁ……」


「こんな格好で男の部屋を訪れ、愛らしいことばかり口にして……覚悟はできているんだろうな?」


「かくご……?」


 口付けの余韻に陶然とする頭で、言われた言葉の意味を追う。


 グレニスは……怒って、る……?

 声は何かを押し殺すかのように低く、群青の瞳は一段その色を深めている。


 ぼんやりとグレニスを見つめ返せば、私の首筋から鎖骨までを撫で下ろした指先が、胸のリボンを絡めてしゅるりと解いた。


「え……」


 大きく開いた襟ぐりから胸の上部が外気に触れて、自分の格好を思い出す。


 ネグリジェと、ガウン。


「〰〰!」


 ぶわりと頬が熱を帯びる。

 グレニスは獲物を前にした猛獣のようにじっと私を見つめたまま、指に絡めたリボンに愛おしむような口付けを落として言った。


「……どうしても嫌だというのなら、俺を突き飛ばして逃げるしかない。もう止まってやれそうにないからな」


「あのっ、これは違———っ」


 再びもたらされた口付けが私の反論を封じる。

 大きな身体に覆い被さられ脅すようなことを言われようと、嫌がることを無理矢理する人ではないと知っているから怖さなんて一欠片もなくて。


 だけど、違うの。

 こんなつもりじゃなかった。

 私はただグレニスに話を、好きだと伝えたかっただけなのに。…………本当に?


 夜に好きな人の部屋を訪れて、本当に一瞬もその可能性について考えなかった?

 溢れ出す感情の奥に、淡い期待は潜んでいなかった?

 もっと触れてほしいと、願う気持ちはなかった?


 グレニスの胸を押し返そうとしていた手から、力が抜ける。


 今ここでグレニスを受け入れてしまえば、名も知らぬ婚約相手とのトラブルに発展することはまぬがれない。

 不貞だと罵られ婚約を破棄されて、社交界に居場所を失うかもしれない。


 ———それでもいい。


『リヴェリーの初めてを貰えて光栄に思う』

 そう言ってまた、グレニスが楽しげに微笑んでくれるのなら。


 私の初めてを全部、グレニスに受け取ってほしいと思った。

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