第35話 そんなの嘘

 バタンッ


「リヴ!!」


 勢いよく部屋に飛び込んできたマニーは、ズンズンとこちらに詰め寄るとガシッと私の両肩を掴んだ。


「えっ、な、なに?!」


「旦那様がお戻りになったわ!」


 ドックン


 一際大きく音を立て、心臓が跳ねる。


「………………そう」


 静かに息を吸って、ゆっくりと吐き出して。


 気のせい。

 このうるさい鼓動も、何かを求めてはやる心も、全部気のせい。


 マニーの目を直視していられずに視線を落とす。


「ねぇ! このまま何も言わずに離れるつもり!?」


「…………」


「リヴっ!」


「……もう、忘れないといけないから」


「全部忘れて、恋心までなかったことにして、リヴはそれでいいの!?」


「だって……、だって結婚が決まったのよ!? 今さらどうしようもないじゃない! マニーに何がわかるのよっ!!」


 悲痛な叫びは予想外に大きく響いた。


 息を飲むような気配。そして訪れた静寂に、自分が何を口走ったかを知る。


 ああ、やめて。違う。違うの!

 マニーに八つ当たりなんてしたかったわけじゃないのに!

 感情も言動も何一つままならない。

 どんなに悩んだって変えられない現実が、もどかしくて、苛立って、……どこまでも悲しくて。


 だけど私はグレニスの恋人でもなんでもない。

 好きだと言われたことさえない。

 自分を結婚から救ってくれだなんて間違っても言えないし、私から告白するにしたってもう手遅れだ。


「…………私はさ、庶民だから、貴族の結婚がどういうものかなんて全然わからないけど……それでも、恋する気持ちの大切さはわかるわ」


 マニーの言葉に、胸の奥がぎゅううと反応を示す。

 まるで、ここにいることに気付いてくれとでも言うように。


「『結婚』とか『今さら』とか、そんなの関係ない! ちゃんと自分の心と向き合って! リヴはどうしたいの!? リヴのを守ってあげられるのは、リヴだけなんだからね……!!」


 ——————嘘。


 私の想いを守れるのが私だけだなんて、そんなの嘘。


 だってほら。

 マニーは今、こんなにも必死になって私の想いを守ろうとしてくれているじゃないか。

 私なんかより、よっぽど『私』のためを思って。


 私だけが自分に嘘をついたまま気持ちを誤魔化すの?

 向けられたこの真心から、また顔を背けるの?

 ———ううん。


「マニー…………私、旦那様とお話ししたい」


 落としていた視線を上げると、真っ直ぐにマニーを見つめ返した。


「リヴ……っ!」


 私の答えを聞き、唇をわななかせながら歓喜に顔を歪めかけたマニーは、次の瞬間パッと真剣な表情に変わった。


「じゃあ急いで! 時間がないわ! 管理人のトニカさんが寝る時間になったら、使用人棟の入口が施錠されちゃう!」


「えっ、えっ!? 明日の早朝鍛練の時じゃ———」


 言いかけて気付く。

 昨日、私はここを辞めるとメイド長に話したのだ。

 鍛練の付き添い役もすでに他の人に引き継がれているだろう。


 グレニスは鍛練を終えると素早く支度を整えてさっさと出かけてしまうから、朝に話す時間を設けてもらうのは難しい。

 登城すればまた城に泊まり込む可能性も高く、私の迎えの馬車だって到着の日は迫っている。


 忙しいグレニスと二人きりで話したいのなら、恐らくチャンスは今夜しかない———。


「ちょっ、ちょっと待っててね! 今着替えるから!」


 その場でタンタンと駆け足するマニーに釣られ、わたわたと焦りながらクローゼットの戸を開ける。

 私は今、寝衣のネグリジェ一枚だ。さすがにこのまま出歩くわけにはいくまい。


「んもぅ、着替えてる時間なんてないってば! ガウン羽織れば大丈夫でしょ、ほら!」


 マニーは私の背後からクローゼットに手を突っ込むと、ガウンを引っ張り出して寄越した。





 使用人棟を出るには、管理人窓口のある廊下を通る必要がある。

 しかしこんな時間に正攻法で行っても通してもらえるはずはなく。


「———でね、蝶番が緩んでるみたいで、なんだかドアの調子がおかしい気がして……」


 マニーが窓口の前に立ち塞がって管理人と話をしているうちに、こそこそと足元を這って管理人室の前を抜ける。


 ドアの蝶番がおかしくなったとすれば、先ほどのマニーの過激な開放によるものだと思うけれど———それはさておき。


 管理人から見えない位置まで来ると、そっと立ち上がってドアを抜けた。



「うぅ、肌寒い……」


 日中は汗ばむほどに暑くとも、日が沈みきった夜間はぐっと冷え込む。

 自分を抱きしめるように二の腕をさすりながら、月明かりを頼りに目的の窓を目指す。


「えーと、西側の左から四番目……、四番目……」


 そこの窓だけ鍵が壊れていて、枠を持ち上げ気味にして引けば外からでも開けられてしまう、らしい。

 まったくマニーの情報網には恐れ入る。


 屋敷を見上げれば、グレニスの部屋からはまだ暖かな明かりが洩れていた。




 目的の窓にたどり着き、窓枠に手をかけてはたと気付く。


「帰りはどうすればいいの……?」


 屋敷に忍び込み、うまくグレニスと話ができたとして……そのあと一体どうやって施錠された使用人棟に戻ればいいのだろうか。

 あとのことなど何も考えていなかった……。きっとマニーも考えていない……。


 ……ええい! ここまで来たら前進あるのみ!

 最悪、物置小屋の片隅でも間借りすればいい!


 ぐっと気合いを入れ直し、窓枠を持つ手に力を込める。

 マニーに聞いた通り動かせば、本当に窓が開いて驚いた。


「よいっしょ」


 へその高さほどの窓枠によじ登る。

 ガウンははだけネグリジェは太ももまで捲れあがり、とても人様に見せられるような姿ではないけれど、今私を見ているのは夜空の月と庭の草木だけ。


 無事に屋敷内に入ると、はだけた服を整えて元通りに窓を閉める。

 遅番の使用人に見つからないよう息を潜め、グレニスの部屋を目指した。

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