第34話 痛くなんてない。大丈夫。

 グレニスはその晩もまた城に泊まり込んだようで、翌朝の早朝鍛練には現れなかった。


 こんなことなら噛りついてでももっと嗅ぎためておくんだった。

 次は一体いつ帰ってくるのだろう。




 昨日たっぷりと嗅いだ香りの余韻でなんとか一日を乗り切り、夕食を終えて部屋に戻る。


 先に入室したマニーが床から封筒を拾いあげた。


「えーっと、これはリヴ宛てね」


 屋敷にまとまって届けられる使用人宛の郵便物を、管理人がこうしてドア下の隙間から滑り込ませる形で各部屋に届けておいてくれるのだ。

 この方式に慣れるまでは、何度か自分の靴跡のついた封筒を開ける羽目にもなった。


「ありがとう。……あら? 実家からだわ」


 封筒裏の見慣れたお父様の署名に首をかしげつつ、ベッドに腰かけて封を切る。


 定期的に送っている近況報告への返信は半月ほど前に受け取ったばかりだし……。次の返信の機会も待たずわざわざ手紙を送ってくるなんて、一体何事だろう。


 懐かしい香りのする便箋を取り出して、真剣に目を通した。




 三枚綴りの便箋に書いてある内容のほとんどは、舞ってきた花びらがお母様の髪について花の女神かと思っただの、食べ過ぎで太ったからとお母様の指示で自分の食器だけ一回り小さい物に変えられてしまっただの、いつも通りの惚気のろけともつかないどうでもいい内容ばかりで。


 もう読まなくてもいいんじゃないかと呆れ半分でおざなりに視線を滑らせていけば、最後の数行が目に留まった。


 《そうそう、リヴェリーに結婚の申し入れがあったから承諾の返事をしておいたよ。行儀見習いはおいとまして一度帰ってきなさい。この手紙と同時に迎えの馬車をやったから、数日中には着くだろう。》


「……ぇ」


 ぎゅっぎゅっと強く数回瞬いて、もう一度手紙の最後を読み返す。


 《そうそう、リヴェリーに結婚の申し入れがあったから承諾の返事をしておいたよ。行儀見習いはおいとまして一度帰ってきなさい。この手紙と同時に迎えの馬車をやったから、数日中には着くだろう。》


 変わらない。

 はじめから読み返してみても、封筒の宛名を確認してみても、手紙の文字は一言一句変わらずに、はっきりとそこに記されている。


「———」


「えっ、ちょっとリヴ!? 顔が真っ青よ! 実家で何かあったの!?」


 焦ったマニーの声が遠く聞こえる。

 空気が硬い。息がしづらい。

 目頭をぐっと押し込まれるようで、景色が薄い膜に覆われていく。

 それでもじっと見ていれば何かが変わるんじゃないかと、目を逸らすこともできずただ茫然とその文を見つめ続けた。





「そんなことって……」


 私から結婚の話を聞いたマニーは。

 私の恋心を知るマニーは。

 瞳いっぱいに涙を溜めて、赤くなった鼻をすすっている。


「やあね、なんでマニーが泣くのよ。お父様が決めたことだもの、仕方ないわ」


 今さらこんなことを考えたってどうしようもない。どうしようもないけれど……お父様はなぜ、一言の相談もなしに結婚を承諾してしまったのだろう。


 家のために政略結婚をしなさいと言うタイプではなかったし、ちょっと抜けているところはあるけれど、人の気持ちを思いやってくれる優しい人だったはずなのに。

 断るなんて選択肢も与えられないほど格上の相手だった?

 言い忘れていたとばかり便箋の終わりに詰め込まれた文章には、相手の名前さえも書かれてはいない。


 実家からこの屋敷まで、馬車で順調にいって八、九日。手紙だけなら五日ほどで届くだろう。

 逆算すれば、グレニスとのお出かけを楽しんでいたちょうどその頃、お父様は結婚承諾の返事を済ませてこの手紙を書いていたことになる。


 ———私は誰かの婚約者になったことも知らず、呑気にグレニスと過ごしていたのか。

 初めてのデートだと、あんなに浮かれて。


 涙は出ない。

 代わりに、滑稽な自分がおかしくて乾いた笑いが洩れた。


「あは……。明日は火妖日出勤日だけど、もうお休みするしかないわね。メイド長にも明日、辞めますって話しに行かなくっちゃ」


「リヴっ!! 親に決められてどうにもならなくたって、辛いときに泣くくらいは自由なんだからね!?」


 涙を溢れさせるマニーに力一杯ぎゅっと抱きしめられ、微かに目頭が熱くなる。


「うん……ありがとうマニー。……ねぇ、もしこの先うちの領地に遊びに来ることがあれば、いつでもうちの実家に泊まっていって? 私は嫁いでいないかもしれないけど、両親にも言っておくわ。大切な友人だから最高のおもてなしをして、って」


「……私、庶民なのに貴族のお屋敷でもてなされちゃうの……?」


「ええ、このお屋敷ほど立派じゃないけどね」


「絶対よ? うーんと期待して行くんだから!」


 尽きることない悲しみを紛らわせるように、二人して下手くそな笑みを浮かべた。







 執務机の上で手を組み私の話を聞いていたメイド長が、短く嘆息する。


「……そう。あなたは真面目にやってくれていたから残念———なんて言ってはダメね。明るく意欲的なあなたなら、どこへ嫁いでもうまくやっていけるでしょう。婚約おめでとう、リヴェリー=メイラー子爵令嬢」


「ありがとう……ございます……」


 善意でかけられる寿ことほぎが、は喜ばしいことなのだと突きつける。

 喜ばなくてはいけないのだと。


 喜べない後ろめたさを隠すように話を変える。


「でもあの、私……しょっちゅう失敗してメイド長にも叱られてばかりで、全然お役に立たなかったんじゃないですか……?」


「私はこう見えても忙しいの。注意したって成長しようのない相手を一々叱っている時間なんてないのよ」


 ……それはつまり。

 非常にわかりづらいけれど、どうやらメイド長なりに目をかけてくれていたようだ。


 厳しいばかりだと思っていたメイド長からの思いがけない期待に、しおれていた心が打ち震える。


「メイド長……! 今日まで本当にお世話になりました! 二、三日中に迎えの馬車が着くと思うので、それを待ってここを発ちます」


「感情をあらわにするのはいただけないわ。……道中気をつけてね」


「はい、ありがとうございます」


 習った通りに背筋を伸ばし、スッと一礼をしてメイド長室を辞した。







 水の妖精日。

 今日もグレニスは帰っていないようだけれど、もう辞める自分には全く関係のないこと。


 昨日から取りかかっていた荷造りは午前のうちに終わってしまって、やることもなく無為むいに午後を過ごす。


 考える時間があるのは危険だ。

 グレニスとの記憶が思い浮かぶたび、ぶんぶんと頭を振って思考を振り払う。


 いい加減振りすぎて頭がくらくらしてきた。

 しかしこれ以上この気持ちを持ち続けるわけにはいかないのだ。他の人の妻になるのだから。

 妻に……。


 ………………どうして今なのだろう。

 初めての恋を知って、一緒にお出かけをしたと喜んで。

 婚約の報せがもう二、三週間も早かったなら、恋心なんて気付かないままでここを去れたのに。

 こんな風に心をじ切られるような痛みを知ることもなかったのに。


 なぜ。

 どうして。


 やる方ない思いが胸をえぐり、やわらかな心がドロドロと零れ落ちていくようだ。


 ……違う。痛くない。痛くなんてない。大丈夫。

 きっとこの気持ちだって、いつか風化するのだろう。そんな未来想像もつかないけれど、新しい生活を続けるうちに、いつかは。

 せめて……そう、せめて嫌いな香りの人でないといい。

 あとは……ちょっと思いつかないけれど。

 結婚相手について考えようとすれば、すぐにが浮かんできてしまうから。


 ダメだ。これ以上余計なことを考えないためにも、今日は早めに寝てしまおう。それがいい。

 早ければ明日にも迎えの馬車が着くはずだ。


 戻りの遅いマニーを気にかけつつ寝支度を整える。

 部屋の明かりは灯したままでベッドに入ろうとしたとき、廊下の方からバタバタと走る足音が近づいてきた。

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