第30話 無知で恥ずかしい

「もう起き上がっても平気なのか?」


「はい、大分楽になりました」


 言葉だけではまだ心配なのだろう。グレニスは私の肩を抱き寄せて自分の身体に凭れさせた。


 果実水の入ったコップを手渡されたので、ありがたく頂戴する。


「———っぷは」


 白ぶどうのまろやかな甘味がするりと喉を落ちる。


「……落ち着いたばかりですまないが、さっきの話について詳しく聞いてもいいだろうか?」


「話?」


 質問に答えるのはやぶさかではないけれど、何か話していただろうか?


「モーグ男爵と別れた直後に言っていた、『スターシュ伯爵と同じ』という言葉の意味について」


「あ……」


 そういえばあの時、ぐらぐらと揺れる意識の中で臭いが記憶と一致して、ついスターシュの名を口走ってしまったのだった。

 しかしこれを説明すると、間接的にスターシュのことも『くさい』と言ってしまうことになるので、グレニスの気分を害さないだろうか……。


「大きな声では言えないが、モーグ男爵にはとある容疑がかかっていてな。何か気がついたことがあるのなら、なんでも教えてほしいんだ」


 言いあぐねる私へ、グレニスが告げる。


 確かにモーグは嫌な感じのする人物ではあったけれど、まさか犯罪者かもしれないだなんて。

 そういうことなら、何もかも話してしまった方がいいだろう。私の感じた『くさかった』という感想がなんの役に立つかはわからないけれど。


 こくりと唾を飲み込んで、口を開く。


「モーグ男爵から、スターシュ伯爵と同じ臭いがしたんです」


「臭い?」


「はい、嫌な感じの……」


「具体的にはどんな臭いだ?」


 臭いの内容なんて聞いてどうするのだろう?

 首をひねりながらも、とりあえず聞かれるままに答える。


「えっと……果物に似た感じの、ただ甘酸っぱい臭いなんですけど……。その臭いを嗅ぐと、なんだか直接頭の中を刺激されるような、ものすごく気持ちの悪い感じがするんです」


「そのせいで気分が悪くなったのか」


 グレニスの言葉にコクンと頷く。


「———以前青い顔をして庭にうずくまっていたのも、叔父上が屋敷に来た日だったな。それも臭いが原因か?」


 大した記憶力だ。あれ以降スターシュが来る日には、洗濯場に籠って顔を合わせないようやり過ごしていたのに。


「はい、そうです……。スターシュ伯爵より、モーグ男爵の臭いの方が何倍も強かったですけど」


「ふむ、俺には葉巻の臭いしか感じられなかったが……不快な、か。それも、叔父上からも同様に……」


 懸念していたスターシュを悪臭呼ばわりしたことに関しては何も気にしていないようだ。

 それ以上に気にかかることがあったのか、グレニスは顎に手をかけて俯き、何やら難しい顔で考え込んでいる。


 グレニスに半身を預けたまま、のんびりと果実水を飲みながら考えごとが終わるのを待つ。

 カウンターの奥からは、ふんわりと甘い香りが漂ってきた。


「———話してくれてありがとう。臭いに関しては少々こちらで精査してみる。すまないが、この件については他言無用で頼む」


「はい、わかりました」


 グレニスの顔を見上げ、しっかりと頷く。

 一言も洩らすまいと意気込む私の背中を、大きな手のひらがぽんぽんと叩いた。


「それよりも、今はリヴの体調だな」


「へ?」


 果実水のコップを取り上げられ、テーブルへと戻される。


「あの時も言っていたじゃないか。気分の悪くなる臭いを嗅いだあとは、『鼻直し』が必要なんだろう?」


 そういえば、そんなことを言った覚えがあるようなないような……。


 グレニスは返事も待たず私の両脇を支えて持ち上げると、自身の膝の上に横抱きに乗せた。


「なっ……! こんなところ誰かに見られたら———」


 ガチャガチャッ


 食器のぶつかり合うような音がしてカウンターを見れば、ティーセットとケーキの乗ったトレイを手にした店主が、赤い顔をしてあわあわと奥に引き返していくところだった。


「———っ見られちゃったじゃないですか!!」


 真っ赤な顔でグレニスに物申す。


 恐らく店主は気を利かせてケーキを出してくれようとしたのだろう。

 それを、私たちがこんな状態なものだから気を遣って……。

 申し訳ない。それと、ものすごく恥ずかしい。


「見られても問題ないだろう」


 本当に!? 本当にこれは問題ないのだろうか!? ……いや、でもデート経験の豊富なグレニスが問題ないと言っているし…………。あれ? デートだと、これぐらい普通のことだった??


「……他のお客さんが入ってきても平気ですか?」


「ああ、な」


 ……そっか。

 そっかそっか、なーんだ! みんなやっていることだったのか!

 私はたまたまこういう状況を目にしたことがなかったものだから、つい過剰反応してしまった。無知で恥ずかしい。


「どうした? 『鼻直し』は必要ないのか?」


「わっ、嗅ぎます嗅ぎます! では遠慮なく!」


 逞しい首筋に抱きつこうとして再びマントの留め具に阻まれていると、見かねたグレニスがマントを外してくれた。

 今度こそ遠慮なく抱きついて、むき出しの首筋に鼻を埋める。


 すんすんすんすん


「はぁ……浄化される……」


「ふっ、そんなに好きか」


 あれ、口に出ていただろうか? まぁいいや。


「はい、大好きれふ……」


 ほのかに汗ばむ首筋の香りに、恍惚と目を細める。

 ああ、至福のひと時。




 首筋の動きでグレニスが頷いたのを感じる。

 なんだろうと思っていると、少ししてテーブルにコトッ、コトッと食器の置かれる音がした。


 ちらりと振り返れば、せかせかとお茶を供する店主の姿。


「あっ、ありがとうございます」


「いいのいいの、どうぞごゆっくりっ!」


 店主は赤い顔をしながらケーキと紅茶を置くと、そそくさとカウンターの奥へ引き返してしまった。


「……?」


「さ、いただこう」


 店主の様子に首を傾げていると、ケーキの皿とフォークを手渡された。

 見れば、たっぷりと木苺が混ぜ込まれた素朴なケーキが皿の上で甘い香りを放っている。


 早速フォークで切り分け、一口。


「んんーっ」


 優しい甘味がして、チーズのコクと木苺のほどよい酸味が舌の上に広がる。


「とっても美味しいです! ……あっ、この体勢じゃグレンが食べられないですよね。下りますね」


 膝を下りようと身体をずらせば、ぎゅっと抱きしめ元通りに抱え直された。


「ああ。あいにくと手が塞がっていて、自分では食べられそうにないな」


 手が塞がっているのは私を抱きしめているせいじゃないか。


「だから下り———」


「あー」


 グレニスがこちらに向けて口を開く。


 …………え?


「まさか……」


「あー」


 目を丸くして見つめ返しても、グレニスは口を開けたまま姿勢を崩さない。


 綺麗な歯並びの口内を見て、テーブルに置かれたままのもう一つのケーキ皿を見て、手元のケーキに視線を落とす。


「でも……」


「あー」


 諦める気配のないグレニスに観念して、ケーキを一口分切り分けると、少し高い位置にあるグレニスの口元へおずおずとフォークを差し出した。


 ぱくりっ


 差し出したフォークにかぶり付くグレニスが、餌付けされる雛のようで可愛く見えてしまっただなんて……口が裂けても言えない。


「ん、確かに美味いな」


「ソウデスネ……。あとはご自分で———」


「まだ手が塞がっている」


 ぎゅっ



 その後ケーキ皿が二つとも空になるまで、グレニスの塞がった手がことはなかった。

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