第29話 嗅いだ覚えがある

 装飾的でいてそこそこ値が張るものなので、ここぞという時の贈り物にもちょうどいいのだろう。

 多くの女性客に混じって、男性客の姿も見えた。


 棚の前でうんうん唸って迷う人、入店するなり一直線にレジへ向かう人、楽しそうに恋人と商品を選ぶ人。


「何か気に入ったものがあれば買っていこう」


 グレニスの言葉に、視線を棚に戻す。

 今回は別行動をしていないので、店に入ってからもずっと腰を抱かれたままでいる。


「えーと……」


 しかしこの芳烈ほうれつの中で気に入った香りだけを探し出すというのも、なかなかに難しい話だ。

 見たところ『グレニス=ジェルムの香り』は取り扱っていないようだし。


 やっぱり私はポマンダーで香りをまとうより、いつでもグレニスの香りを嗅いでいられる方がいい。


「私は香りの強いものは身につけないので、特には……。でもせっかくなので、同室のマノンへお土産にサシェを買っていってもいいですか?」


「ああ、もちろん」


 ポマンダーが主力商品のようだけれど、詰め替え用として中身だけでの量り売りもしているし、広い店内の片隅にはひっそりとサシェ用の小袋も並んでいた。

 サシェであれば、わりあい手頃な値段だ。



 全身の毛穴から香りを押し込まれるような感覚にそろそろ軽い頭痛を感じながら、マニーのサシェにはダマスクローズの香りを選んだ。

 マニーは薔薇の香りに憧れがあるらしく、以前薔薇の香油は高すぎて手が出せないのだと嘆いていたから。


 当然のように支払おうとするグレニスを押しとどめて会計を済ませる。

 ポシェットを探りにくいので、ちょっと腰から手を離していていただきたい。




 店の出入口へとたどり着きグレニスが扉に手をかけようとしたと同時に、両開き扉が外側から大きく開け放たれた。


 ギィィ……


 開かれた扉の真ん中を、ふんぞり返ってのっしのっしと入店してくる貴族風の男性。


 通行を妨げないよう脇にけようとしたけれど、私の腰を抱いたままのグレニスはその場を動かず声をかけた。


「モーグ男爵じゃないか」


 声をかけられた男は不快そうに片眉を上げ、ちらりと視線だけをこちらに寄越す。

 簡素な服装の私たちの上から下まで視線を滑らせ、そして小馬鹿にしたように鼻で笑った。


「はて、どちらさま・・・・・ですかな?」


「ああ失敬、フードを被ったままだったな」


 そう言ってグレニスがフードを脱いだ途端。


「———やぁ! これはこれは、ジェルム侯爵ではありませんか! こんな場所でお会いできるとは実に奇遇ですなぁ! どこにいてもご活躍を耳にしない日はありませんよ。いやはやご健勝そうで何より」


 まるで親しい友人にでも会ったかのように笑みを浮かべ、全身で歓迎の意を示す。

 先ほどの態度を見ていなければ、気さくな明るい人だと思ったかもしれない。


 モーグが両腕を広げてこちらへ歩み寄ると、数歩分の距離からでもわかるほど強烈に葉巻の臭いがけぶった。

 表情には出さず、そっと息を止める。


「男爵も羽振りよくやっているようじゃないか。この店も随分と盛況そうだな」


「いえいえ、私どもがこうして安心して商売できるのもすべて、ジェルム侯爵率いる騎士の方々のお守りくださる平和あればこそ! 日々感謝の念が尽きません。———おや、こちらの麗しいレディはジェルム侯爵のお連れ様ですかな?」


 にこにこと細められた目の奥は読めない。


「ああ、リヴェリー=メイラー子爵令嬢だ。リヴェリー、こちらはハルマン=モーグ男爵。手広く商売をしていて、この店のオーナーも務めている」


「はじめまして」


 グレニスが紹介してくれたのに甘え、自分は軽く挨拶するにとどめてまた息を止める。

 息を吸わないようにしているのも、そろそろ苦しくなってきた。


「子爵令嬢! なんと、やはり庶民のような格好をしていても気品は隠しきれないものですなぁ! お会いできて光栄です、メイラー子爵令嬢」


 軽く腰を折り、手のひらを差し出される。

 引っ込みたがる手をどうにか差し出して生ぬるい手に重ねれば、すっとモーグの唇が近づく。


 うそ!? 額に押しいただくだけじゃなくて!? やだやだ、やめ———


 驚きにひゅっと強く息を吸い込めば。


「っ———!!」


「まあ堅苦しい挨拶はいいじゃないか」


 グレニスがさっと私の手を取り上げる。

 口付ける先を失ったモーグは一瞬きょとんとグレニスを見上げ、気を取り直したように笑って身体を起こした。


「はっはっは、それもそうですな。なにもこんな店先で! どうです? よろしければ奥でゆっくりお話でも。向けの商品もご案内できますよ」


 私は無言でグレニスに凭れかかり、ぎゅっと服の裾を掴む。


「……いいや、またの機会にしておこう。引き止めてすまなかったな」


「いえいえ、とんでもありません。またいつでもお立ち寄りください」


 モーグに別れを告げて店を出る。


 グレニスに腰を支えられながら店先の短い階段を下り、店の扉の閉まる音がした瞬間、横抱きに抱えあげられた。


「っ……」


「気分が悪いんだな?」


 グレニスの言葉に、血の気の引いた顔でコクリと頷く。


 モーグの全身を取り巻く煙たい葉巻臭を押し分けるようにして届いた、ぐらぐらと脳を揺らすようなこの不快な臭い。

 以前にもどこかで嗅いだ覚えがある。

 そうだ、これは———


「……スターシュ伯爵と……同じ……」


「叔父上と? ……まあいい、ひとまずどこか落ち着ける場所に行こう」


 グレニスは私を抱えたまま、迷いなく歩き出した。







「どうだ、少しは落ち着いたか?」


 こぢんまりとした喫茶店の、奥の一角。

 二人がけのソファに上体を横たえ、頭を撫でる大きな手の優しさにほっと息をつく。


「はい……、すみません。ご迷惑おかけして」


 足元には吐き気に備えて小振りな桶が、テーブルの上には果実水やレモンの輪切り、額には濡れてひんやりとしたタオルが乗せられている。

 他に客の姿はなく、人のよさそうな店主のおじいさんが心配してあれこれと用意してくれたものだ。


 そして、頭の下には硬い膝枕。

 気分が落ち着いてくれば、徐々にこの状態への恥ずかしさが込み上げてくる。


「迷惑ではない、心配するな」


 グレニスの言葉はいつも飾らず真っ直ぐで、グレニスがそう言うのなら本当に迷惑には思われていないのだろうと安心する。


 離れたカウンターの中から心配そうにこちらを窺う店主へ、もう大丈夫だと微笑んでみせれば、店主もほっとしたように笑みを浮かべそのままカウンターの奥に引っ込んだ。


「いいお店ですね、ここ」


 大通りから少し離れた場所にあるため店内は静かで、ここだけ時間がゆったりと流れていくような不思議な心地よさがある。

 店主のおじいさんもとても親切で優しいし、そうした店主の人柄が店全体ににじみ出ているのかもしれない。


「だろう。よく来るんだ」


 ちょっと得意気なグレニスに、くすりと笑いを洩らす。

 どこか懐かしさを感じる店の空気と、間近に漂うグレニスの香り。


 たっぷりと深く息を吸い込んで、ふぅぅと吐き出して。

 ……うん。もう大丈夫そうだ。


 額のタオルを手に取ると、ゆっくりと上体を起こした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る