第27話 さっき食べた飴の味

 薄暗く閑散とした本屋の中、眠そうな店主のいるカウンターとは反対奥へと進んでいく。


 周囲に誰もいないのを確認して本棚に背を預けると、ようやく息を止めていたのに気づいてぎこちなく吐き出した。


「は……っ」


 グレニスは……グレニスはきっと、彼女のお願いを断らない。


 私の時だってそうだった。

『泣いて嫌がるものを取り上げるほど鬼じゃない』

『女性を悲しませるのは騎士道に反する』

 そう言って、ただの行儀見習いである私に嗅ぐことを許してくれた。


 グレニスは、優しい人だから。


 それはとてもいいことで、グレニスの魅力の一つだとも思うのに……どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

 まるで胸の中に大きな石を詰め込まれたみたいだ。


 いっそあの場で彼女よりも泣いてみせれば、行かないでいてくれたんだろうか……。


 俯いて、すん、と鼻をすする。

 古びた紙とインクの匂い。


 私のことは気にせずごゆっくりなんて言ってしまったし、今頃二人は私を置いてどこかへ移動しているかもしれない。

 いや、グレニスなら移動する前に声くらいはかけてくれるだろうか。『俺たちは二人で行くことにしたが、リヴは一人で帰れるか?』と、彼女の腰を抱きながら。


 ……嫌だ。そんなものを見せられる前に辻馬車でも拾ってさっさと帰ろう。

 まだあの場にいたなら、極力二人を見ないように断りを入れて。


 そう思って顔を上げたと同時に、すっぽりと大きな影に捉われた。



「どうして一人で行ってしまうんだ」


「グレニス様……」


 私の頭上で本棚に肘をついたグレニスが、閉じ込めるように身体を寄せて私を見下ろしている。


「呼び方が違う」


「だ———グレン?」


「ああ」


 旦那様と口にしかけた途端眉間のシワが深まったを見て、慌てて言い直す。

 でもこれは、正体がばれないための一時しのぎの呼び方だったはず。


 いいや、そんなことよりも。


「なんでここにいるんですか……? さっきの彼女は?」


 隙間からチラリと左右を見ても、彼女の姿はない。


「さあ? 帰ったんじゃないか?」


「え……お誘いを断ったんですか?」


「当然だろう」


 グレニスはそんなことを聞かれるなんて心外だとでも言いたげな様子だ。


 でも、だってそんな、グレニスが女性を悲しませるようなこと……あっ! もしかして今日は先約があるからと、後日の約束でも交わして円満に話をまとめたのだろうか?


「彼女にはなんて……?」


貴女あなたと二人で行くことはない、と」


「えっ」


 グレニスの返答は予想に反して明確な拒絶だった。


「でも、そんなこと言ったら彼女を悲しませちゃったんじゃ……」


 もしかしたらはらはらと、涙だって流したかもしれない。

 それを見て、何も思わずにいられる人ではないだろうに。


「だとしても、がいるからな」


 そう言って、グレニスは私の頭を抱き寄せる。

 よろけて固い胸に突っ伏すと、そのままぎゅっと抱きすくめられた。


 誰より悲しませたくない相手……………………、私?


 微かに漂った甘い香水の香りにチクリと胸が痛んだけれど、払拭するようにぐりぐりと顔を擦り付ける。

 グレニスは、戻ってきてくれた。


 マントに閉じ込められて蒸した香りを身体いっぱいに吸い込めば……嗅ぎなれた大好きな香りに安心して、なんだかちょっと泣きそうになった。


「一緒にお出かけ、続けられますか……?」


「当たり前だ、そのために休みを捻出したんだぞ? もう一人で勝手に離れるなよ」


「はい……」


 離れない意思の表明のように、おずおずと腕を回してグレニスを抱きしめ返す。


 さっきまで石の詰まっていた胸の中は、今はたっぷりと大好きな香りで満たされていた。




 すんすんすんすん


「リヴ」


 抱きついた私の頬を大きな手のひらが包み込む。

 見上げた瞳は優しくて、心地よい手の温もりに目を細めすりすりと頬を寄せる。


「ん、グレン……」


「———っ、あまり煽るな」


「煽る……?」


 意味がわからず見つめれば、返事の代わりに優しい口付けが落ちた。


「!」


 咄嗟にぎゅっと目を瞑り、唇を引き結んで受け止める。


 ちゅ、ちゅ……、ちゅ、


 触れて、離れて、また触れて。

 小鳥のついばみのようなくすぐったさに小さく身じろぐと、一瞬の隙をついて舌が入り込んだ。


「っ!」


 ……あ、さっき食べた飴の味……。


 甘い口付けは、恥ずかしいような嬉しいような、私をどうしようもなく居たたまれない気持ちにさせる。

 鼻から息をすれば、大好きなグレニスの香りが鼻腔の奥に抜けた。


「……、っ……」


 抱きしめる体温も、心も、口付けの合間に吸い込む空気まで、何もかもグレニスに染められていく。


 力が抜けてカクンと膝が落ちかけると、すくい上げるようにぐっと抱かれて爪先が浮いた。


 手探りでグレニスの首筋にしがみつく。

 さらに深まった口付けに食べられてしまいそうな錯覚を覚えて、そろりと目を開けば———


「もう一杯くらいいいだろぉ!?」


 急に聞こえた大声にビクリと心臓が飛び跳ね、口付けが解ける。

 ドッドッドッドッと耳に鼓動を聞きながら左右を見渡すけれど、何も異変はない。


 注意深く耳を澄ませば、いくらかトーンの落ちた声がムニャムニャと続けた。


「なぁ、かーちゃん頼むよぉぉ……」


 誰かと会話しているというより、これは———


「……寝言?」


「そのようだな」


 どうやら先ほど眠そうにしていた店主が、夢を見るほど本格的に眠り込んでいたらしい。


 わかってみれば、なんのことはない。

 グレニスと至近で見つめあったまま、ただの寝言に飛び上がるほど驚いた自分が可笑しくて、ぷっと笑いを漏らした。


「っはぁ……、こんな場所ですまなかった。はまたの機会に」


「……? はい」


 そのまま立ち去るのも申し訳ないとグレニスは適当に数冊の本を選ぶと、寝ぼけまなこの店主に屋敷に届けるよう頼んでから店を出た。


 マントフードを目深に被り直し、しっかりと私の腰を抱いて。

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