第23話 鼻呼吸だけで生きていく

 商店街の手前で馬車が停まると、グレニスはマントフードを目深に被って馬車を降りた。

 グレニスに手を預け、私も馬車を降りる。


「街では念のため、俺の名も口にしないように」


「はい」


 噂を防ぐためとはいえ、大した念の入れようだ。

 ———ん? 旦那様ともグレニス様とも呼べないのなら、なんと呼べばいいのだろう?



「昼食にはまだ早いな」


「そうですね」


 歩き出したグレニスのあとに続く。


 約束の時間より大分早めに出た私を、さらに早く来たグレニスが待ち構えていたのだ。

 劇の開演時刻は午後だというし、昼食をとるにしても幾分早い。


「でも、いろんなお店を見て回るのも好きで———ひぁっ!」


 石畳に躓きかけ、咄嗟にグレニスのマントを掴む。


 なんとか転倒をまぬがれて「ふぅ」と顔を上げれば、目の前に差し出された腕がすっと戻っていくのが見えた。


「危ないところだったな。大丈夫か?」


 ああ、グレニスは転びかけた私を受け止めようとしてくれたのか。

 即座に反応して腕を差し出してくれるだなんて、ものすごい反射神経だ。


「はい。あの……ありがとうございます」


「構わない。それよりもほら、ちゃんと掴まっていろ」


 グレニスはそう言って私の右手を掴むと、自身の左肘に導いてぎゅっと固定した。




 今いるのは、商店街に入ってすぐの食料品店や食べ物屋が並ぶ通り。

 店先に並んだ果物が日差しを反射して瑞々しく輝き、そこかしこから様々な食材の———或いは調理された料理の———いい香りが漂ってくる。


「ひとまずこの通りを抜けるか」


「はい」


 まだ食事はしないのでここに用はない。

 グレニスの腕に手を添えたまま並んで歩く。

 グレニスの歩調はゆったりと、私に合わせてくれているようだ。


 大きな塊肉を豪快に切り分ける肉屋。数十種類のチーズがずらりと並ぶ専門店。一見営業しているかも怪しい寂れた店からは、煮込み料理の濃厚な香りが漂う。

 小麦の生地をまるで曲芸のように宙で引き伸ばして捏ねる様を興味深く眺め、菓子屋を見てマニーへのお土産にどうだろうと考えながら甘い香りを吸い込んで———


「———!」


 どこからかいい香りがする!


 肉の焼ける芳ばしい香りに混じった、ちょっと癖のある独特なスパイスの香り。

 初めて嗅ぐ香りだけれど、これはとても好みだ!


 きょろきょろと辺りを見渡せば、今まさに通りすぎようとしている脇道の先に、香りの発生源とおぼしき串焼き屋台を見つけた。


 バッと右隣を振り返る。

 深く被ったフードの影になり、グレニスがどこを見ているかはわからない。けれどこちらには気付いていない様子で、このまま行けば屋台を通過してしまう。


「グレ———」


『俺の名も口にしないように』


 グ、グ……、グレ……


「グレン……っ!」


 肘に添えた手にぎゅっと力を込めれば、寸の間あってゆっくりとフードの顔がこちらを向いた。


「…………」


 だらだらと冷や汗を流しながら視線を逸らす。

 グレニスは立ち止まってくれたけれど、もはや呼び止めるんじゃなかったとの後悔の方が大きい。


 なんてことを口走ってくれたんだこの口は。もう嫌だ。この口取り外して捨てたい。鼻呼吸だけで生きていく。


 ……いや、いやいや待てよ? 希望を捨てるのはまだ早い。ここはガヤガヤと賑わう商店街。騒音に紛れて『何も聞こえていなかった』という可能性もなきにしもあら———


「どうした? 


「〰〰っ!」


 聞かれてた……!


「あ、あのっ……! 大変失礼いたしました!!」


「いいや、謝る必要はない。気に入った」


「気に……?」


 怒りも不快感も含まない、むしろどこか楽しげな声に、ぎゅっと瞑った目を恐る恐る開く。


「ああ。『グレン』と、そう呼べばいい」


「は……」


「俺もリヴと呼んでも?」


「え……」


 フードに隠れて表情は見えないけれど、冗談を言っているわけではなさそうだ。


「そ、その呼び方、どうして……?」


「マノンがそう呼んでいるのを聞いた。俺が呼んではダメか?」


 どこかでマニーと話すのを聞かれていたらしい。

 何にせよ先にやらかしたのは私だ。断れようはずもない。


「いえ……、ダメじゃないです……。はい……」


「リヴ、もう一度呼んでくれ」


「えっ」


 向かい合ってぐっと腰を抱き寄せられる。

 グレニスの胸に手をついて見上げれば、フードの中の温かな瞳が見えた。


「もう一度」


 こんなに真っ直ぐに期待されていては、適当なことを言ってはぐらかすこともできず。


「……………………グ……、グレン」


「ああ。リヴ?」


「はい……」


 お願いだ。どうか私にもフードを被せてほしい。

 熱い。顔が熱い。


 グレニスの空いた片手がするりと頬を撫で、すりすりと耳朶を弄ぶ。

 うぅ、くすぐったい。なんだろうこの状況は。


「それで? 何か用があったんじゃないのか?」


「え……? あっ、屋台! 屋台に寄りたかったんです!」


 本来の目的を思い出した私は、グレニスの服の胸元を握りしめて訴えた。





 買ってもらった肉串を手に、ほくほくと道を進む。

 腰を抱かれたままなのが気になるけれど、今は肉に集中だ。

 あいにく近くのベンチには先客がいたので、すぐそこの広場へ行き噴水の縁に腰を下ろした。


「んー、いい香り!」


 屋台の店主の話によれば、なんでも南国から取り寄せた珍しいスパイスを使っているのだとか。


「ふむ……独特な香りだが、美味そうだな」


 グレニスの手にも肉串が一本。

 存分に香りを堪能して、いざ噛りつかんと大きく口を開けた瞬間。微かに『きゃー』という声が聞こえた気がした。


「ちょっと持っていてくれ」


 グレニスに差し出された肉串を反射的に受け取る。


「え? ど……」


 急にどうしたのかと尋ねる隙もなく、あっと言う間にグレニスの後ろ姿が遠ざかって人混みに消えた。


 ……もしや、ずっとお手洗いを我慢していたのだろうか?


 冷めてしまっては勿体ないので、もぐもぐと肉を頬張りながらグレニスの帰りを待つ。

 肉は期待していた通りとても美味しくて、ピリッとした刺激と燻製のように鼻の奥にくすぶる香りが、とてもお酒に合いそうだなと思った。




 グレニスの去った方向を見守っていると、ずっと向こうに人だかりができていくのが見えた。

 人だかりの方から、グレニスが駆け戻ってくる。


「おかえりなさい」


「っ、一人にさせてすまなかった」


「大丈夫ですよ。そっちは間に合いました?」


 隣に腰を下ろしたグレニスに、すっかり冷めてしまった肉串を手渡す。


「ああ、逃げられる前に捕らえることができた」


「……捕らえる?」


「……何の話をしていたんだ?」


 聞けば、グレニスは先ほどの悲鳴を聞いて現場に駆けつけ、走って逃げる引ったくり犯を追いかけて引っ捕らえてきたのだという。


「衛兵を待つ時間が惜しくてな。縄を借りて縛り上げ、あとは任せてきた」


「被害者の人は大丈夫でしたか?」


「転んだ拍子に膝を軽く擦りむいたようだが、他に怪我はない。取られた荷物もすべて戻った」


「よかった……」


 ほっと安堵の息をつくと、グレニスの大きな手のひらがぽんぽんと頭を撫でた。


「それにしてもこの肉は美味うまいな。酒によく合いそうだ」

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