第20話 今日も暑くなりそうだなー

 どんなに悩んでいたって朝は来る。


 すぐに解熱薬を飲んだおかげもあって、熱はもうすっかりと下がった。

 寝不足なことさえ除けば、体調は万全と言えよう。


「お、はよう、ございます、旦那様……」


「ああ、おはよう」


 鍛練中のグレニスとぎこちなく挨拶を交わし、ワゴンを押して鍛練場の隅に控える。


 グレニスの様子は至って普通。照れた様子も気まずげな様子もなく、いつも通りだ。

 そう、全くもっていつも通り。



 ———もしや、昨日の出来事は私の妄想だったのでは?



 あり得る。

 だって恋だと気付いた途端その相手に口付け・・・られるなんて、そんな都合のいいこと起こるはずがない。


 前々夜にあれほど色々な男性との口付けを想像しようと試みたのだ。

 グレニスとの、その……ソレも何度か想像してしまったし、残像が頭に残って白昼夢を見せる可能性だってあるだろう。


 部屋にはまだ食べきれないほどのフルーツがあるから、グレニスが見舞いに来たところまでは現実として……口付けが妄想なら、果たして抱擁は現実だったのだろうか?


 一体どこまでが現実で、どこからが妄想———???


「体調はもういいのか?」


「へぁっ!!?」


 不意に頭上から降った声に飛び上がる。

 顔を上げれば、鍛練を終えびっしょりと汗をかいたグレニスが目の前に立っていた。


 私が鍛練の終了に気付かずぼーっとしていたせいで、わざわざこちらまで足を運ばせてしまったようだ。


「っ、ぼーっとしていて申し訳ありません! 鍛練お疲れ様です!」


 慌てて横に置いていたワゴンに向き直りはちみつレモン水を注ぐ。


「かまわない。体調はどうだ?」


 手渡したゴブレットがグレニスの口元へと運ばれていくのをじっと見つめかけ……バッと顔を背けた。


「おっ、お陰様ですっかりよくなりました!」


「……それにしては様子がおかしい気もするが」


「元からですっ!!」


 追及を逃れたいあまり食い気味に答えれば、グレニスは私の無礼を気にしたふうもなく空いた左腕を広げた。


「元気なら何よりだ。ほら」


「…………し……つれい、しま、す……」


 心で葛藤しながらも、抗いきれない香りの魔力に吸い寄せられて一歩、一歩と進み腕の中に収まる。


 ぎゅっと抱きしめてくる逞しい腕、熱い身体、立ち上る野性的な香りに、ドッドッドッドッと胸が早鐘を打ちだす。


 昨日のアレは勝手な妄想だったのだから!

 実際は見舞いに来てくれただけなのだから!

 変に意識するな、私!!


 よし、ひとまず深呼吸で気持ちを落ち着けよう。

 すぅぅぅぅっ、……すぅぅぅぅぅっ!


 うん。今日もグレニスの香りは最高だ。


「んぷっ」


 抱きしめる左腕にぐっと力が籠ったかと思えば、グレニスは右腕だけを伸ばし空のゴブレットをワゴンに戻した。


「リヴェリー、昨日の話だが」


「はなひ……?」


 ポンポンとメイドキャップ越しの後頭部を撫でられる。


「水妖日に出かけると約束しただろう」


 あ、そういえば。

 口付け妄想に意識を全部持っていかれて、すっかり忘れていた。


「どこか行きたい所はあるか?」


「えっと……実は、ドレフドレスはこの前の一着ひか持参ひてなくて」


「新しいドレスを買いに行くか?」


「とんもない!」


 そんな高価なものを買ってもらうなんて!

 しかも、買ってもらったところで使用人部屋の狭いクローゼットには入りきらない。


 ぶんぶんと首を振れば、谷間に埋めていた鼻先がぐりぐりと左右の胸筋に擦れる。


「簡単なワンピーフワンピースならあるのれ、かける時はいつもそれれ……」


「そうか、なら俺もラフな服装で出かけるとしよう。特に希望がないようなら、観劇なんかはどうだ?」


「はい。いいと思いまふ……っ」


 グレニスの硬い手がするりとうなじを撫でおろす。

 くすぐったさに、ピクリと身体が跳ねた。


 ……なんだか、いつもの吸引タイムとは様子が違わないだろうか。

 私を抱きしめる左腕は身体が隙間なく密着するほどに力強く、右手は今、感触を楽しむかのように私の頬をふにふにと突ついている。

 ふにふに、ふにふに、


 何かがおかしい気がする。


 グレニスの腰に抱きつき胸に鼻先を埋めたまま、何が違うのだろうと考えを巡らせる。

 えーと、抱きしめ合っているのはいつもと同じで……

 ふにふに、ふにふに、


「っんもぅ、なんですか」


 延々と頬をくすぐられていては考えに集中もできず、ムッとして顔を起こす。


「もう十分・・嗅いだろう。そろそろ俺の番じゃないか?」


 何を言っているのか。グレニスの香りを嗅ぐのに『十分』なんて存在するわけがない。隙あらば永遠に嗅いでいたいくらいなのだから。


 しかし、グレニスの順番とはなんのことだろう?

 グレニスも私を嗅ぎたいとか……? いやいや、そんな馬鹿な。


「旦那様の番、ですか??」


「ああ」


 頬をくすぐっていた指が、するりと下りて顎を捉える。

 抱きしめ合っていた身体に僅かな隙間ができて、グレニスがゆっくりと上体を屈める。


 グレニスの顔が眼前に迫り、呼気がふっと唇にかかって。

 驚く間もないほど自然に、唇が重なった。


 ちゅ……


「…………!!」


 やっぱり昨日のアレも現実だったんだ!!


 待って待って、そうじゃない。

 グレニスの唇はやっぱり想像よりもやわらかくて、ふにゅりと触れる感触が心地よ……違う違う、そういうことでもなくって。


 え? え? 一体何が起こっているの???

 目を見開いたまま、グレニスの頬越しに呆然と空を見つめる。


 わぁ、いい天気……。今日も暑くなりそうだなー……。


 ぺろり


「っ!」


 逃避しかかった意識が引き戻される。

 グレニスの舌に唇のあわいをなぞられ、反射的にきゅっと口を引き結ぶ。


 ぺろ、ぺろ


「ん、んんん〰〰!!」


 何度も往復する舌の感触に堪えきれずグイグイとシャツを引いて訴えれば、ようやく唇が離れた。


「っぜぇ、っはぁ」


「……口付けは嫌いか?」


「きっ、嫌いとかそういうアレじゃなくてですね! こう、心臓に悪いというかっ、心の準備が必要というか……っ」


「なら好きか?」


「……」


 目を逸らして口をつぐむ。

 だって、嘘はつかないと決めている。


「リヴェリー?」


 顎にかけられた手の親指が、返事を催促するようにむにむにと下唇を弄ぶ。


「……まぁ……、ど、どちらかと言えば…………」


「それなら何も問題ないな」


 ちゅっ


 話し終わりの開いた唇に、ぬるりと一瞬舌が潜り込んで、離れた。

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