第17話 熱に浮かされる

「旦那様、おはようございます」


「ああ、おはよう」


 ワゴンを押して鍛練場の片隅に控える。

 昨日は夜半過ぎまであれこれと考え込んでしまったせいか、寝不足で少々頭がぼーっとする。


 マニーが急に『恋』だなんて言うから……。


 自分としては、幼い頃実家の料理番に抱いた気持ちが初恋だと思っていたのだけれど……今思えば、あれは料理番に染み付いた美味しそうな香りに惹かれていただけだ。


 現にマニーの言うような想像をしてみたところ、抱擁はともかくとして口付けは……うっぷ。

 いや申し訳な……おぇっぷ。


 気のいい料理番のことは今でも変わらず好きだけれど、親しすぎる接触は今も、そして恐らく昔も、望んでいなかったことがわかった。


 試しに他の知人男性の顔を思い浮かべてみても、結果は同じ。会話する以上の距離に顔が近づけば、皆一様に想像が掻き消えて吐き気が込み上げるだけだった。


「くぁ……」


 何度目かになるあくびを噛み殺しながらグレニスの鍛練を見つめる。


 グレニスとの口付けを想像した時、暴れだしたくなるほどの羞恥心にさいなまれても、そこに不快感なんて微塵もなかった。


 他の人とは無理なことが、グレニス相手だと嫌ではない。

 それが何を意味するかなんて、そんなの…………もう、認めるしかないではないか。





 鍛練が終わったのを見計らい、ワゴンを押しながらグレニスの元へ向かう。


 それにしても今日は暑い。

 まだ朝も早い時間だというのに、日陰にいた私でさえじっとりと汗ばんでしまった。


「お疲れ様です……っ」


「ああ」


 昨日の想像のせいでつい唇に目が行きそうになり、慌てて手元の水差しへと視線を落とす。


「ど、どうぞ」


 ぎこちない動作ではちみつレモン水を注いで差し出せば、グレニスの右手がゴブレットを取り上げた。

 はちみつレモン水をあおるグレニスの、左腕がゆるく開いて私を待つ。


 ゴクリ、ゴクリ


「———っぷは。どうした? 今日は嗅ぎに来ないのか?」


「いえ、嗅ぎます!! 嗅ぐんですけど……ちょっと、心の準備というか何というか……」


 吸引タイムが失われそうなピンチに勇んでワゴンの後ろから飛び出したはいいものの、唇が気になってグレニスの顔を直視することもできず、ゴニョゴニョと言い訳しながら視線をさ迷わせる。


 香りが好きなのも、抱きしめられると嬉しいのも、一緒にいたいと思うのも、すべて恋のせいだなんて聞いてしまったせいで。


 グレニスに対してどんな行動をとっても、何もかも自分の好意をさらけ出しているような気がして身動きがとれない。


「なんだ、顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」


 グレニスが一歩距離を詰める。


「い、いえっ! これはあの、そういうのじゃなくってですね……!」


 顔を隠すように手をかざし、一歩後ろへ下がる。


「いいから見せてみろ」


 グレニスがさらに一歩前へ出たのに合わせもう一歩後ろに下がろうとして、トンッとお尻がワゴンに当たった。


 グレニスは空のゴブレットをワゴンに置き、そのまま両手をワゴンについて私を腕に閉じ込める。


「あ、あのっ?」


 顔を上げかけ、グレニスの薄い唇が視界に入って固まった。

 水に濡れた唇が、なぜかゆっくりとこちらに近づいてくるのだ。


 思考が止まる。

 その場から逃げだすこともできず、じっと迫る唇を凝視する。


 呼吸が肌を撫でるほどに近づいて———



 く、口付けられる……!



 ぎゅっと瞼を閉じた瞬間、こつんとおでこに何かが触れた。


「………………?」


 それ以上何も起こらないことに恐る恐る薄目を開けば、焦点も合わないほど近くにグレニスの整った顔がある。


 おでこをくっつけた……だけ?

 いつもは体温の高いグレニスの額が、今はちょっとひんやりとして心地いい。


 額を突き合わせ熱を確かめたグレニスは、驚いたようにガバッと上体を起こした。


「おい! 本当に熱があるじゃないか!」


「え? ……えっ!?」


 熱!?


「今日の仕事はもういい。すぐに部屋に戻れ」


「で、でも……」


 まだ吸引タイムが……。


メイド長カーミラには俺から伝えておく」


 そう言うなり、グレニスは鞄でも持つようにひょいと私を抱き上げた。


「ひゃっ! そんなっ、私自分で歩けま———」


 横抱きに抱えられ慌ててグレニスの首筋にしがみつけば、したたる汗のかぐわしい香りが……


 すぅぅぅぅぅぅぅぅっ


 首筋に顔を埋めて大人しくなった私を抱え、グレニスは足早に使用人棟へと向かった。







 使用人部屋のベッドの上で、医者の診察を受ける。


 部屋には私と医者の女性の二人だけ。

 マニーは就業時間中だし、グレニスも私を運んですぐに、医者を寄越すとだけ言い置いて部屋を後にした。


「うーん、熱以外どこも異常は見当たらないですね」


「はぁ」


「最近、何か重大な問題を抱えたり、ものすごく悩むような出来事がありませんでしたか?」


 重大な問題。悩むような出来事。

 考えるまでもなく、思い当たることはただ一つ。


「はい、ありました……」


「なるほど。それならこれは、知恵熱でしょう」


 医者の出した結論に首を傾げる。


「知恵熱ってあの、赤ちゃんがなる?」


「大人の方でも、すごく頭を使った時などにこうして発熱する場合があるんですよ。人にうつるようなものでもありませんし、一晩寝れば治まると思いますが、念のため解熱薬も出しておきますね」


 知恵熱……。

 恋愛を例えて『熱に浮かされる』と表現するのは聞いたことがあるけれど、まさか恋かどうかと悩みすぎて本当に熱を出すだなんて……。


「ありがとう、ございます……」


 私の複雑な表情をどう解釈したのか、医者は「すぐによくなりますよ」と笑顔で励ましてくれた。





 ガチャッ


「リヴー、調子はどう? スープと果物を持ってきたわ。何か食べられそう?」


 寝不足による二度寝から目覚めた頃、マニーが昼食の乗ったトレーを片手に顔を覗かせた。


「ありがとう、マニー。食欲もあるし、ちょっとぼーっとする以外はピンピンしてるわ」


 ベッドの上で上体を起こし、トレーを受け取る。


「お医者様はなんて?」


「うん……。ただの熱だから、うつるようなものでもないし、一晩寝れば治るだろうって」


 さすがに知恵熱だと知られるのは恥ずかしくて、当たり障りのない内容だけを伝える。


「そう、よかったじゃない。あっ! でも大事をとって明日もお休みするようにって、メイド長が」


「ええ!? そんなぁ……」


 早朝鍛練の付き添いは? 吸引タイムはどうなってしまうのだろう?

 熱があったって、這ってでも行きたいくらいなのに……。


「それにしても、こんな暑い時期に熱だなんてどうしちゃったのかしらね?」

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