第16話 小石照る

 ガチャリと自室のドアを開ける。

 すでに就業時刻を過ぎているのでマニーも戻っているかと思ったけれど、自分の方が早かったようだ。


 荷物を置くと、着替えもそこそこにベッドに腰を下ろした。


「ふぅー」


 今日はなんとも充実した一日だった。

 訓練風景を眺めるのもなかなか新鮮だったし、無事に差し入れも渡せて、グレニスの兜を存分に堪能できたのも僥倖…………そういえば、なんであの時若い騎士の兜を嗅ぐのを躊躇してしまったのだろう?

 グレニスの香りが一番だからといって、他の人の香りであっても好きな部類には違いないのだから、とりあえず嗅いでおけばよかったのに。


「好きな香りねぇ……」


 ガチャッ


 呟きと同時にドアが開き、マニーが姿を現した。


「あら、リヴ戻ってたのね。おかえりー! どうだった? お出かけは」


「ただいま。なかなかに充実した一日だったわ。マニーもお仕事お疲れ様」


「ありがと。さっき一度声かけに来たんだけどいなかったから、もう夕飯食べてきちゃったわよ?」


「うん、私も外で済ませてきたから大丈夫。ありがとう」


 マニーはお仕着せのエプロンとキャップを外し紺のワンピース一枚になると、ベッドの隣にある書き物机の椅子にドサリと腰かけ、身体ごとこちらに向いた。


「……うーん、そうやってドレスを着てると、本当に貴族のお嬢様なんだなーって思うわね」


 マニーは好奇心いっぱいの瞳で上から下まで繁々と私を眺める。


「ええ、おしとやかに見えますでしょ?」


 期待に応えるべくツンと澄ましてオホホと笑ってみせれば、マニーが虚をつかれたようにぱちくりと目を瞬き、どちらからともなくプッと吹き出した。

 我ながらお嬢様然とした態度は似合わないと思うし、それはそれで問題な気もする。


「で? そんなドレスなんて着ちゃって、今日はデートだったの?」


 恋愛話に目のないマニーが、きらりと瞳を輝かせて身を乗り出す。


「ううん、残念ながら違うわ。ちょっとドレスコードのある場所に行く用事があっただけ」


 それでなくとも以前『グレニスのお気に入り』なんてとんでもない誤解をうけそうになったのだ。グレニスの訓練を見に行ってこんな時間まで一緒にいたと言えば、マニーの興味の炎に油を注ぎかねない。


「えぇー、そっかぁ……。そういえば、さっき言ってた『好きな香り』っていうのは何の話? 香水でも買うの?」


 浮いた話でないとわかり残念そうにしがらも、変に食い下がったりしない切り替えの早さはマニーの魅力だと思う。


 どうやら先ほどの独り言は聞かれていたらしい。

 ちょうどいいので、私より色々と知識の豊富そうなマニーに先ほどの疑問を相談してみることにした。


「香水じゃないんだけど……、ねぇ、『その人の香りだけが特別好き』ってどういうことだと思う?」


 ほどほどに好きな香りをどんなにたくさん嗅ぐよりも、その人の香りただそれだけを嗅ぎたいと思うような。

 ———考えられるとすれば、最高に好みな香りを知ってしまったがために鼻が肥えて、『その香りしか嫌だ!』と贅沢になってしまった……とかだろうか。


「香り? 体臭ってこと? 相手は男の人で?」


「うん」


 マニーは顎に手をかけて、思案するように宙を見つめる。


「香りだけ・・、ねぇ……? その相手って、顔は今一つなの?」


「顔?? ううん、顔はかなり格好いい方じゃないかしら」


「じゃあ性格に問題があるってこと??」


「えっ、ううん。性格はすごくいいと思うわ。色々と気遣ってくれるし、厳しそうに見えて実はすごく優しいし」


 ……あれ?

 マニーの言葉に答えながら首を傾げる。


 『他の人の香り』でなく『その人の香りだけ』を特別に感じるのはなぜだろうと聞いたつもりだったのだけれど、ちょっと質問を間違って解釈されているようだ。

 一旦誤解を解かなくては。


「あの、マ———」


「リヴ、それって要は『その人の全部が大好きで』ってことじゃないの??」


 コイシテル……


 小石照る……


 …………………………


 …………………………


 …………………………恋してる?



「えっ」


 マニーが弾き出した予想外の答えに、しばし時が止まった。


「へぇー、リヴにもそんな人がねぇ! 相手は誰なの? 私の知ってる人!?」


 勝手に納得して嬉々として詰め寄ってくるマニーの勢いに圧され、僅かに上体を引く。


「〰〰待って待って! こっ、ここ、恋って! 全然そういうのじゃないから! マニーは何か誤解してるわ!」


「えぇー? だって体臭が特別に好きで、顔も性格も好ましく思ってるんでしょ?」


「まぁ……好きか嫌いかで言えば……」


「じゃあさ、もし相手が遠い地へ行っちゃってもう二度と会えないってなったらどうする?」


 グレニスが遠い地へ行ってしまって香りが嗅げなくなったら?

 そんなの……


「遠い地まで追いかけていけばいいだけじゃないかしら?」


「……いつでも側にいたいと思う?」


「思うわ」


 うんうんと深く頷く。


 部屋にいる時だって仕事中にだって、四六時中グレニスの香りを嗅いでいられたらどんなに幸せだろうと常々思っている。

 ちなみに、グレニスが難しければ、兜や汗だくシャツでも一向に構わない。


「ちょっと想像してみて。その人に抱きしめられたらどんな気持ち?」


 これは想像というより、毎朝の吸引タイムを思い出せばいいだけだ。


「すごく幸せで、今日も一日頑張るぞー! って元気が湧いてくる」


「じゃあ、その人に口付けされたら?」


 んー、グレニスはどこもかしこもゴツゴツとしているから、きっと唇も少し固くて、でも至近距離から香りが——————


 あの険しい顔がゆっくりと近付き少し固めの唇に触れるところまで考えかけて、はっと我に返った。


「なっ、なんてもの想像させるのよっ!!!」


 顔を真っ赤にして悲鳴じみた声を上げる。

 抗議の目でキッとマニーを睨んでも、なんだかマニーはわくわくと楽しそうな様子だ。


「で、どうだった? 嫌な感じでもした?」


「それどころじゃないわよ!!」


 自分の想像が恥ずかしすぎて、恥ずかしいという感情以外何もわからない。


「不快で吐き気がしたりは?」


「そんなのはないけどっ! 自分が恥ずかしい……っ!!」


 こたえないマニーを睨むのは諦めて、叫びだしたいような羞恥を抑えようと両手に顔を突っ伏した。

 手のひらに触れる頬は熱い。


「口付けが不快じゃないなら、やっぱりそれは恋だと思うわ」


 羞恥に悶える私にマニーが容赦なくとどめを刺す。


「聞いた話だと、人って本能的に合う異性を匂いで嗅ぎ分けてるらしいわよ。近親者に惹かれないように、年頃の娘が父親の匂いを不快に感じたりだとか」


 それは確かに思い当たる節がある。

 幼い頃は全然気にならなかったのに、十五歳のデビュタントを迎えた辺りからお父様の匂いが少し苦手になった。


 単にお父様がくさくなったのかと思っていたけれど、なるほど、お母様にとっては今も昔もいい匂いに感じているのかもしれない。


「その点、匂いが好ましい相手とは相性ぴったりで、結婚しても長続きするし、子供もできやすいんだって!」


「こっ……」


 あまりの衝撃に、パタリとベッドに倒れ込んだ。

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