第13話 そんな、急に困ります私……っ

 グレニスの後に続いて騎士棟の中を進み、《団長 グレニス=ジェルム》とプレートのかかった扉をくぐる。


 深いボルドーの壁、艶々に磨かれたマホガニーの調度品。正面の壁には大きな騎士団旗がかけられ、その手前にはどっしりとした執務机が据えられている。

 部屋の主の威厳を際立たせるかのような重厚感ある室内は、余計なものなど一切なくて厳格なグレニスらしい。


 一角にある応接セットのローテーブルに兜と水差しを置くなり、グレニスはガシャガシャと音を立てて甲冑を脱ぎだした。


「えっ! そんな、急に困ります私……っ」


 慌てて両手で顔を覆い指の隙間からグレニスを凝視していると、甲冑を脱ぎながら呆れたような声が答えた。


「ちゃんと下に服も着ている」


 言葉通り、外された甲冑の内側から白い布地が現れる。


「なんだ……」


「そこのソファにでも座っていろ。その辺にある飲み物を飲んでいてもかまわない。俺はまず汗を流してくる」


 べったりと汗で貼りつくシャツの襟元を不快そうに寛げながら、グレニスが隣室へ繋がる扉を開ける。

 言われるままに応接セットのソファに腰かければ、目の前のローテーブルには兜が鎮座していた。


「グレニス様っ!」


 慌ててグレニスの背に声をかける。


「うん?」


「ちょっと……ちょこーっと、兜に触れててもいいですか……?」


 ぬるい果実水に消沈していた気持ちもどこへやら。目の前に本日のメインディッシュを据えられて、これが触れずに我慢などできようか。


 以前無断で触って怒られたことで、私は学んだのだ。

 まず、ちゃんと許可をもらわなくては。


 胸を高鳴らせ、きらきらと期待を込めてグレニスを見つめる。


「…………っはぁ。もういい、好きにしろ。くれぐれも悪さはするなよ?」


「はいっ!」


 突きつけられた人差し指に満面の笑みで頷けば、グレニスは疲れたような顔をして今度こそ扉の向こうに消えた。




「よいっしょ」


 身を乗り出してテーブルから兜を持ち上げると、じんわりとした温かさが手のひらに伝う。

 ああ、愛しの愛しの兜ちゃん。私も会いたかったわ。


 ドキドキと鼓動が早まる。

 込み上げる唾液をゴクリと飲み込んで、ふぅぅぅぅと長く息を吐き出して。


 ……いざ!


 ガポッ


「っ〰〰〰〰!!!」


 両手で兜を押さえ持ったままグネグネと身をよじる。


 意識して吸い込むまでもない。

 むせ返るほどの濃い香りが、あちらからぐいぐいと鼻腔を圧して体内に取り込まれにくる。


 温められた空気が汗の香りを存分に揮発させ、頭を包み込む狭い空間のすべてが濃密な香りに占拠される。


 熱気で思考が溶ける。

 芳醇な香りに気分が酩酊していく。


 以前嗅いだ手入れ後の薄い香りとは比べものにならない。

 先ほど他の騎士の兜を嗅いで感じた物足りなさが嘘のように、ぴたりと隙間なく、ともすれば過剰なまでに満たされる。


 これだ。

 私が求めていたのは、まさしくこの香りだったんだ。


 すぅぅぅと香りを吸い込めば、身体の奥がきゅんきゅんと歓喜に疼く。

 そわそわと落ち着かず、けれどどこまでも安心できて。


 ああ、やっぱり好きだ。好き、大好き。

 もうここに永住したい……。




 ガチャッ


 扉の開く音がする。

 音の方向からして、隣室に行っていたグレニスが戻ってきたのだろう。


 随分早いお戻りだ。

 グレニスが部屋を出てから、まだ三つ数えるほどしか経っていない気がするのだけれど。


「はぁ……、そんなことだろうとは思ったが」


 ため息混じりの声がして、離れた場所でカチャカチャと何かの触れあう音がする。


 やがてカタリ、と目の前のテーブルに何かが置かれた。


「ほら。冷めた紅茶しかなくて悪いな」


「! そんなっ、ありがとうございます! いただきます!」


 休日とはいえ、仕える家の主人に給仕させてしまうなんて!

 わたわたとテーブルの上を手探りしてカップらしきものを摘まみあげ、ありがたく口へ運ぶ。


 カツンッ


「……?」


 カツンッ


「??」


 おかしいな、飲めない。


「おい……」


 頭に感じていた重みがふわりと消えて、視界に光が差す。

 私を取り巻く香りが空気中に霧散していく。


 見上げれば、隣に立ったグレニスが呆れたような顔で兜を持ち上げていた。


「兜を被ったまま飲めるわけがないだろう」


「あ……なるほど」


 それは盲点。すっかり一心同体になっていて気付かなかった。

 香りの余韻で陶然と兜を見つめる私の頬を、大きな手のひらがするりと撫でる。


「頬が熱いな。ずっと・・・あの炎天下にいたんだ、座って見ているだけでもきつかっただろう」


 剣だこのあるゴツゴツとした手のひらが、その無骨さとは対照的に優しく頬を包み込む。

 グレニスの顔を見上げれば、労るような眼差しが真っ直ぐに私を捉えた。


 こんなに心配してもらって非常に心苦しいのだけれど、私の頬が熱いとすれば十中八九兜の香りで高揚していたせいだ。

 なんだか居たたまれず、手のひらから逃れるようにパッと顔を背けた。


「全く問題ありません、すこぶる元気です! 紅茶いただきますね」


 紅い水面に口を寄せる。


 コクッ


 ぬるい紅茶が渇いた喉をするりと潤していく。

 紅茶を口にして初めて、自分がとても水分を求めていたことに気付いた。

 火傷の心配なんていらない紅茶を、ゴクゴクと一息に飲み干す。


 グレニスは私から遠ざけるかのように兜を持ったまま正面のソファに回ると、自身の隣に兜を据えて腰を下ろした。


「———っぷはぁ!」


 生き返った!


「好きなだけ飲むといい」


 グレニスがテーブルに置かれたポットを示す。

 お言葉に甘えて、カップにおかわりを注いだ。


「ありがとうございます。……あの、グレニス様はいつから私があそこにいると気付いてたんですか?」


 訓練中はずっと離れた場所にいたはずなのに、なんだか早くから気付いていたかのような口振りが気になる。


「演習場に姿を現す前からだな」


「えっ?」


 話しながら、グレニスは不格好な水差しを手に取って、縛られた紐をぐるぐると解いていく。


「門を通る時に俺の名前を出しただろう。それで俺に確認が来た」


 かかった布をめくってコルク栓を外し、空のカップにトポトポと中身を注ぐ。


「そっそれは、だって……招かれた人かお城の関係者しか中には入れないって言われたので……つい、『騎士団長のお屋敷で働いてる者です』って……。じゃあ、グレニス様が入城を許可してくださったんですか?」


「まあ、目的・・は大方目星がついていたからな」


 グレニスがカップに注いだはちみつレモン水に口をつけた。


「それはありがとうございます……って、あーっ! それ! 無理して飲んでいただかなくていいですってば! もうとってもぬるくなってますし!」


 グレニスがぬるいはちみつレモン水を口にしているのに気付き、慌ててテーブルに手をついて身を乗り出す。


「俺が差し入れられたものだ、どうしようと自由だろう。それに俺は体温が高いからな。これぐらいでも十分冷たさを感じる」


「そんな……だって、それ……」


 いくら体温が高いといったって、それはもうお世辞にも冷たいなんて言えない温度だったはずだ。


「ん? ああ、礼がまだだったな。わざわざ城にまで差し入れをありがとう、リヴェリー」


「!」


 ずっと怒ったような怖い顔をしているくせに、毎朝鍛練の途中でも挨拶を返してくれるし、些細なことでも心配してくれるし、こんなぬるい果実水にお礼なんて言ってくれるし。


 真っ直ぐな感謝の言葉に驚いて、ドキリと一瞬心臓が弾んだ。

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