第10話 私のシャツ……!

 日の出時刻は日に日に早まり、こんなに早い時間だというのにすでに日が差しはじめている。

 朝の清涼感は薄れ、身体を包む生暖かい空気が日中のさらなる暑さを思わせる。


 すっかりと夏らしくなった。

 鍛練をするグレニスの白いシャツは、遠目にもわかるほど汗でびしょびしょだ。



「お疲れ様ですっ」


 鍛練を終えたグレニスの元にワゴンを押して駆け寄る。


「ああ。こう暑くては、シャツが張り付いて不快でかなわん」


 水差しからゴブレットへとはちみつレモン水を注いでいると、グレニスが不意にシャツのボタンを外しだした。


 元々大きく寛げられているシャツは、三つほどボタンを外すだけであっという間に全開になる。

 汗でまとわりつくシャツを鬱陶しそうに剥がしとれば、眩しい朝日の下、ごつごつと筋肉の隆起した雄々しい肉体が姿を現した。


 ぴんと伸びた背筋。

 太い首筋は山なりに肩へと続き、筋肉の塊をいくつも組み合わせたような上腕へと繋がっている。

 大きく盛り上がった胸筋の間には、私がいつも鼻を埋めている深い谷間。

 その下に連なる腹筋はくっきりと割れてぼこぼこと張り出し、けれど腰回りは抱きつきやすそうにぎゅっと引き締まっている。


 再三にわたる抱擁でグレニスが逞しいことなどわかりきっていたはずなのに、直接肉体を目にするとまた一段と迫力を感じるものだ。

 小麦色の肌をなぞるように滑り落ちる汗の粒を眺め、ごくりと生唾を飲んだ。


 グレニスは私が差し出したゴブレットを受け取るのと引き換えに、脱いだシャツをこちらに手渡してくる。

 まあ、ではありがたく。


「———っぷは。……おい」


「ふぁい?」


「なぜ俺のシャツを頭に巻きつけている」


ふぉこにそこにふぁふがシャツがあっふぁあったふぁらから


「……何を言っているかわからん」


 今度は聞き取れるよう、声を張り上げて理由を説明する。


ふぇっかくのせっかくのふぁふをシャツをあうぃわわらい味わわないふぇは手はないふぉないとおふぉいふぁひへ思いまして!」


「……恐らく聞きとれたとしても、はわからないのだろうな」


 そうだろうか?

 難しい話はしていないと思うのだけど。


「それはそうと、今日はソレ・・だけ・・でいいのか?」


「ふぁっ!!」


 大変だ! 芳醇な香りを放つシャツに夢中で貴重な吸引タイムを逃してしまうところだった!


 慌てて前に突きだした両手をうろうろとさ迷わせてグレニスを探す。

 何せ視界が真っ白で何も見えないのだ。


 確かこの辺りにいたはず……どこだどこだ。


「何をやってるんだ、まったく」


 呆れたような声がクリアに聞こえたかと思えば、私を包み込んでいた極上の香りがふっと遠のいた。

 ついでに真っ白だった視界には色が戻った。


「ああっ、私のシャツ……!」


「俺のだ俺の」


 遠ざけるように高く持ち上げられてしまったシャツに手を伸ばせば、反対の手で首根っこを掴んで引き寄せられ、すっぽりいつものポジションへと収められた。


「ほら、妙なことをせずに大人しくこっちを嗅いでろ」


 ちぇっ。ついに念願の汗だくシャツを手に入れたと思ったのに。

 一日寝かせてちょっと発酵した状態でも嗅いでみたかったのに。


 くすん……すんすんすんすん


 いつものようにグレニスの腰に腕を回そうとして、いつもとは違う素肌の感触に驚きビクリと心臓が跳ねた。

 そういえば上半身裸なのだった。


 シャツを握りしめるつもりだった両手をその場で握りったり開いたりして、結局ぺたりとグレニスの背につける。


 直に触れる素肌は濡れた汗で一瞬ひやりとして、すぐにそれを塗り替えるような熱がじわじわと染み込んできた。


 運動直後だというのもあるだろうが、日頃からたくさん運動をする人は、血の巡りがよくて体温が高くなるのだと聞いたことがある。


「旦那ふぁまのお身体は熱いれふね」


「リヴェリーは体温が低いな。顔も手もひんやりとして心地いい」


 私の欲求に応えて毎朝香りを供給してくれるグレニスへ、私からもひんやり感を提供できているなら何よりだ。

 それにしても、こう自身の体温まで高くては夏場の暑さはさぞ辛いだろう。


「鍛錬ひゅうもシャツを脱いれたらいいんじゃないれふか?」


「そうしたいところだが、暑さに耐えるのも修行のうちだからな。実際の戦闘となれば、もっと生地の厚い騎士服やら甲冑やらを身につけたまま戦わなければならない」


「なるほろ」


「まあ、いくら忍耐力を鍛えたところで暑いことに変わりはないがな。特には甲冑をよろっての野外訓練がある。地獄を見るだろうな……」


「明日……」


 頭の中でスケジュール表を確認する。

 今日が火の妖精日ということは、明日は水の妖精日。

 毎週決められた私のお休みの日だ。


「それは旦那ふぁまも参加されるんれふか?」


「ああ。上に立つ者が楽をしていては誰もついて来ないからな」


「ちなみに……訓練って公開されふぇるんれしたっけ……?」


「屋外演習場であれば、有事を除き城に入れる者なら誰でも見学できるようになっている」


「へー……」


 へー、ほー、すーん、なるほどねー。


 私はそわそわとはやる心の内がばれないよう、いつも通り至極冷静に香りを堪能するのだった。

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