第9話 おしまい、れふか……?
すんすんすんすん
今日も今日とて抱きしめられて、存分にグレニスの香りを堪能する。
香りを嗅ぎもらさないためにと隙間なく密着しつつ、移り香も期待していないと言えば嘘になる。
大切な朝の潤い補給。
「なあリヴェリー」
「ふぁい?」
胸に鼻を埋めたまま顔を上げもしない私の無礼などすっかり慣れっこなようで、グレニスは気にした風もなく話を続けた。
「薄々……いや、ひしひしと感じているんだが……甲冑の件はまさか、本当に匂いを嗅いでいただけなのか?」
「!!」
一体どこからばれたのだろう!?
私の態度は完全に、粛々と尋問を受ける罪人そのものであったはずなのに。
もしや毎朝の短い会話によって私の人間性を把握したことで『この清廉潔白なリヴェリーが嘘をつくはずなどないから、当初の言葉が真実だったに違いない!』と思い改めてしまったのだろうか?
……認めたくない。
これを認めてしまえば、その時点で『尋問』が終了してしまう。
何しろ
しかし、ここで嘘をついて否定するのはどうにも
最初のうちは嘘をついて怒らせるのが恐ろしいだけだったけれど、今となってはこの真面目で厳しくて、なのに体調不良のメイドを親身になって介抱してくれるようなグレニスへ、自分も誠実でいたいと思うのだ。
ということでここはひとつ、なんとか誤魔化せないだろうか。
「……どうしてそう思うんれふか?」
「毎朝嬉々として俺に鼻を擦りつけておいて、むしろなぜばれないと思えるんだ」
騎士団長の洞察力恐るべし。
「っふぁ、
「往生際が悪いぞ。しらを切りたいならせめて、
「んぐぐ……」
そんな無茶を言われてはこれ以上為すすべがない。
返事に窮して胸に鼻を埋めたまますんすんと唸っていると、グレニスが自身の右腕を持ち上げ鼻元へと寄せた。
くん……
「……こんなおっさんの匂いを嗅いで楽しいか? 汗くさいだけだろう」
「!!!」
あまりの発言にガバッと顔を上げる。
「なんっっってこと言うんですか! 旦那様の香りは最高ですよ!? 男らしく野性的でいて、でもどこか清涼感もあって、嗅げば嗅ぐほどに味わい深くって! 鍛錬後なんてたっぷりと香りを含んだ汗の蒸気が鼻腔いっぱいに立ち込めて脳がとろけそうなほどの至福を…………はっ!」
はめられた! 誘導尋問だっ!
当のグレニスはなんだか唖然とした顔をしているけれど、そんな演技で騙されるものか。
「
「いや、何もしていないが」
「ばれてしまっては仕方ない……。おっしゃる通り、私はあの日、甲冑の香りをそれはそれは楽しく拝嗅していました。許可なく大事な甲冑に触れたことについては申し訳ありませんでした」
「反省しているのならいい」
「……しかしながら、私に非があるにしたって先ほどの発言は看過できません! この汗は厳しい鍛錬によって生み出された努力の結晶、たゆまぬ精励の証なんです! 例え旦那様ご自身であっても、汗を
「あ、ああ……、すまなかった……?」
「それにそもそも旦那様はおっさんなんかじゃありません! おっさんっていうのはうちのお父様みたいな、色気もへったくれもない中年男性のことを言うんです!」
『ぶぇっくしょい!』
『あらあなた、お風邪ですか?』
『いやぁ、不意に鼻がムズムズしてね。身体はこの通りピンピンしてるよ』
『そうですか、お元気なのでしたら結構。今すぐタオルをお持ちになって、盛大に
『ご、ごめんよハニー……』
言いたいことを言って気が済むと、フンッと鼻息を吐いてグレニスの胸に鼻を埋めなおした。
「……なあ」
「なんれふか」
「甲冑に触れた理由もわかったことだし、もう
そう言いながら、抱きしめる手でポンポンと私の背を叩く。
———ああ、ついに恐れていた瞬間が来てしまった。
朝のこの時間を失ったら、もう私がグレニスの香りを嗅げる機会など二度とやって来ないだろう。
精神が現実から逃れようとするあまり、ぐらりと目眩がする。
「……おしまい、れふか……?」
声が震える。
すがるように、離されないように、ぎゅっとグレニスにしがみつく。
「主人の決定に逆らうのか?」
「………………いえ」
冷静な声に、シャツを握り込んでいた手をゆっくりと開く。
ぎこちなく腕の力を抜くと、静かに一歩、身体を離した。
私は行儀見習いとしてここに置いてもらっている身。
主人であるグレニスへ要求を告げることなどできる立場ではないし、この『香り』は私のものでもない。
世界中の何よりも好きな香りを取り上げられたとて、異議を唱えられる正当な理由など一つもありはしないのだ。
これが休日の件のように私を気遣っての提案であれば、気遣いはご無用ですと突っぱねることもできたのに。
グレニスの意思による決定となれば、私にはどうしようもないではないか。
下唇を噛んで顔を俯ける。
部屋に戻ったら、革鞄に頭を突っ込もう。
マニーの目が気になるけれど、もうそんなことは言っていられない。
休憩時間に屋敷の物置を探って潤滑油の匂いを嗅ぐのもいい。
何を嗅いでも満足感は得られないだろうけれど、それでもどうにかして自分を慰めなくては。
「おい、泣いてるのか!?」
「いいえ……」
視界は滲んで何も見えないけれど、雫は零れ落ちてないから泣いていないはずだ。
「〰〰あー……ったく! わかったわかった、俺が悪かった!」
力強い腕にぐっと引き寄せて抱きしめられれば、今しがた今生の別れを告げたはずの大好きな香りがふわりと私を包んだ。
反動で零れ落ちた涙がグレニスのシャツに染み込んで消える。
「……?」
「なにも泣いて嫌がるものを取り上げるほど俺も鬼じゃない」
「……じゃあ……これからも、嗅いでいいんれふか……?」
信じられない思いでおずおずとグレニスの腰に腕を回し、確かめるようにぎゅっとしがみつく。
「ああ。続ける理由がないというだけで、どうしても廃止したいというほどの手間でもないしな。何より、女性を悲しませるのは騎士道に反する」
その言葉に、ひどく安心して詰めていた息を吐……吸った。
これからもこうして香りを嗅いでいられるのだ。今度は、グレニスの許可の下に堂々と。
私の希望を受け入れてくれるグレニスはこの上なく優しいと思うのに、つかの間ものすごい絶望を味わわされたことが面白くなくて、つい憎まれ口を叩いた。
「……悪い女に騙されまふよ」
「お前が言うか。……これでも人を見る目はあるつもりだ。そもそも、悪女は鼻頭を赤くしてベソをかかないだろう」
「なんのこと
それから、ばれて困るものもなくなったことで安心して、いつもより多くの言葉を交わした。
グレニスが言うには最初から私を暗殺者などと疑ったことはなく、これといった害意が見えないにも関わらず甲冑に触れていた私の真意がわからずに、尋問をすることにしたそうだ。
「悪意があるとわかる相手から差し出された飲食物に口をつけるはずがないだろう」
それもそうだ。
グレニスは最初から、私の差し出した果実水を迷いなく飲んでいた。
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