第8話 鼻直しに

「は? 尋問だと?」


 なんともいぶかしげな表情を見るに、『尋問』が毎朝の抱擁を指していることは正しく伝わっているようだ。


「はい……、鼻直しに……」


「……『鼻直し』の意味はわからないが、そうすれば気分がよくなるのか?」


「恐らくは」


 期待を込めてじっと見つめれば、グレニスが観念したようにため息をついた。


「まったく……。ほら、来い」


 片膝をついた体勢のまま、受け入れるように両腕を広げてくれる。


 私はお仕着せが汚れるのも構わず膝立ちで進み出ると、そのままグレニスの腕の中に倒れ込むようにして抱きついた。



 すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!


 しっかりと首筋にしがみついて鼻を擦り付け、身体中の空気を塗り替えるべくたっぷりとグレニスの香りを吸い込む。


 鍛錬後のような香り立つ汗の蒸気が上っていないのが残念だけれど、非っ常ーに残念だけれど、どんなに薄くともやはりこの香りは格別だ。


 不安定な膝立ちのままぎゅうぎゅうとしがみついて必死に鼻先を擦り付けていると、抱きしめられた身体が一瞬浮き上がってすとんと何かに着地した。


「……?」


 顔をグレニスの首筋に埋めたまま、身体は横向けに何かの上に座らされて抱きしめられている。

 椅子? こんな所に椅子なんてあっただろうか。

 顔を上げて確認すれば済む話だけれど……まあいいか。


 すんすんすんすん


 楽な姿勢になったことでより一層集中して香りを吸引していると、ややあっていたわるような声がかけられた。


「どうだ? 少しは楽になったか?」


「ふぁい! ……あっ! いえっ、やっふぁりもう少ひかかるかも……」


「なんだそれは」


 呆れたような響きの中に微かな笑みを含んだ、穏やかな低音。

 私の体調不良によって手を煩わせているというのに、迷惑そうな様子などこれっぽっちも見せないふところの深さ。


 香りがいい人は性格もいいのかなぁ、なんて。

 いつもより薄い香りを身体いっぱいに吸い込みながら、とりとめもなく考える。


 確か歳は三十といっただろうか。相手には困らないだろうに、未だに独身なのが不思議だ。

 一人に縛られず遊びたい、というようなタイプにも見えないし……。


「何が原因だったんだ?」


「ふぇっ?」


「体調不良を起こした原因だ」


「あー……」


 心配してくれているグレニスに嘘はつきたくないがしかし、『あなたの叔父さんを嗅いで吐き気を催しました』だなんて、なんでも正直に言えばいいというものでもない。


「ちょっと、その……(スターシュの臭いを嗅いだら)急にクラッときまひて」


 原因には触れず簡潔に伝える。

 これなら嘘はついていない。


「立ちくらみか。貧血には赤身肉を食べるといいぞ」


「ふぁい」


 それにしても香りが薄い。

 先ほどまでの不快感は綺麗さっぱりなくなったけれど、こんなに薄い香りでは嗅いでも嗅いでも満足感が得られないではないか。


 胸筋の谷間と違って首筋には鼻を埋められるような溝もないし、どうにももの足りない。

 もっとしっかりとこの香りを取り込みたいのに。もっと、こう、がっつりと———


「おいっ、俺は肉を食べろと言ったんだ! 人の首を噛るな!」


 ……はっ!

 気がつけば、大きく開いた歯の間にグレニスの首筋が挟まっている。いつの間に!


「っと、申し訳ありません。ついうっかり……」


「お前はうっかりで人を食うのか」


 さすがに申し訳なく思い、顔を離して歯形のついてしまった首筋をゴシゴシと擦る。

 うーん、だめだこりゃ。すぐには消えないわ。


「あれ?」


 早々に歯形消しを諦めて視線を落とすと、自分が腰を下ろしている物体が目に入った。


 脚。

 これはどう見ても人の脚だ。

 膝を立てた、脚。


 そして信じがたいことに———私の脚でないのだから当然だけれど———私がお尻に敷いている脚は、グレニスの身体に繋がっている。


 私は、立て膝をついたグレニスの膝の上に乗せられているらしい。


「えーと……重くありませんか……?」


 自分の置かれた状況が飲み込めず、どうでもいい質問が口をついて出た。


「重さは感じないな」


「それはそれは……」


 いやはやまったく、それは結構なことで。はっはっは。


 自然に会話しながらそっと腕を解いて、さりげなーく脚を下りる。

 グレニスも立ち上がると、パタパタとズボンの土を払った。


「……なんだ? 赤い顔をして」


「いえ、別に……」


「まさか、今さら・・・照れているのか?」


 グレニスが驚いたように目を見開く。


 人をなんだと思っているんだ失礼な。

 こちとら交際経験はおろか男性と手を繋いだことさえないうぶな乙女だ。

 当然、お父様以外の男性の膝に乗ったことなどない。


「照れますよ……そりゃあ」


 傍目にもわかるほど赤面しているのだという気恥ずかしさに口を尖らせれば、大きな手のひらが宥めるようにポンポンと頭を撫でた。


「まったく、変なところで純情だな。身体の具合はもういいのか?」


「はい、お陰様ですっかりよくなりました! ありがとうございます」


 身体いっぱいにしっかりとグレニスの香りを摂取したので、気分はばっちりだ。


「では俺は戻る。また具合が悪くなるようなことがあれば、無理せず下がるんだぞ」


「はいっ!」


 屋敷へと戻っていくグレニスをその場から見送ると、くるりと方向転換して花壇に向き直る。


「さーて、何かしてる途中だったような…………あっ! 掃除用具!」


 急いで、目と鼻の先にある掃除用具の元へと駆けつける。

 香りを嗅ぐのに夢中になって、長らく放っておいてしまった。


 道具を放ったらかしにしていたことが誰かに見つかっては大変だ。メイド長に叱られてしまう。

 幸いスターシュにもグレニスにも気付かれていなかったようだし、このまま誰にもばれずに……。


 掃除用具を拾い上げて盗っ人よろしくキョロキョロと周囲を窺えば———廊下を通りかかったメイド長と、窓ガラス越しに目が合った。


 ……げっ。

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