第6話 お断りします
すんすんすんすん
「なあ」
すんすんすんすんすんすん
「おい!」
「ふぁいっ? なんれひょう?」
視線を上げてグレニスの顔を見る。
もちろん鼻は胸筋の谷間に埋めたままだ。
毎朝抱きしめられながら一言二言言葉を交わすうち、私はこの自分にも他人にも厳しい主人が見た目ほど恐ろしい人ではないと認識を改めていた。
常に怒ったような怖い顔をしているし言うことも厳しいけれど、理不尽に当たり散らすわけでもなければ怒りっぽいわけでもない。むしろ、滅多なことでは怒らない気がする。
私が挑戦的に言い返した時だって無礼を怒りはしなかったし、その時抱きついて怒られなかったのをいいことに以降の尋問ではちゃっかり私からも抱きしめ返しているけれど、それも咎められていない。
そうしてどんどんと調子に乗った私は、もはや『来い』と呼ばれるのさえ待たず、グレニスが果実水を飲んでいる間に勝手に腕の中に収まっている。
「今日のこれはなんだ?」
グレニスは私に見えるよう、私の顔の上で空になったゴブレットを振って示した。
「ああ……レモン水に、はちみつと塩を少し入れたんです。酸味とか塩気とかが疲れにいいと聞いたので」
腕を伸ばしてゴブレットを受け取ると、改めて鼻を埋———
「なるほど。もう一杯入れてくれ」
「……かしこまり、まし……た……」
職務を遂行するため断腸の思いでグレニスから鼻を剥がし、早足で鍛錬場の隅に置き去りにしたままのワゴンへと向かう。
自分が作った物を気に入ってもらえたことは嬉しいけれど、そのせいで尋問が中断されることになるとは全く計算外だった。ぐぬぬ。
ワゴンごとグレニスの元へ戻っておかわりを手渡すと、用は済んだとばかりにすぐさま抱きつき直す。
グレニスの方もすっかり習慣化してしまったのか、空いた左手が半ば無意識に私を抱きしめ返していた。
頭上でごくごくと喉が鳴るのを聞くともなしに聞きながら、深く香りを吸い込む。
すぅぅぅぅぅっ
野性的な香りが鼻腔を撫でながら体内に落ち、吸い上げるほどにじわじわと身体中に浸透していく。
なんだかとても安心するような、なのに落ち着かない気持ちになるような。心地よい矛盾に身を
こんなに密着して存分に香りを嗅いでいるというのに、まだ足りない気がするから不思議だ。
この香りのすべてを、余すところなく体内に取り込んでしまいたい。
———そういえば幼い頃、使い古された革の匂いが好きで好きで嗅ぐだけでは飽き足らず、お父様愛用の革鞄を
言い訳をさせてもらうとするならば、口内に含んだ物は鼻の裏側から前へと香りが抜けて、また格別の味わいがあるのだ。
え? 言い訳になってないって??
……グレニスを噛ったら、やっぱり怒られるのだろうか……。怒られるのだろうな……。
「———ぷはっ、これは飲みやすくていいな。明日からもこれと同じ物を持ってきてくれ。塩はもう少し足してもいいかもしれない」
噛りつく想像をされているとも知らず、グレニスは満足そうだ。
「承知しまひた。でも、休養もひゃんと取ってくらふぁいね」
疲れにいい物を摂ったからといって、疲れが消えるわけではない。
グレニスには是が非でも元気でいてもらわなくては。
「休みか……。そういえばリヴェリーの休みはいつだ? みな
ギクッ
「…………」
「……おい、休みはいつだ?」
余計なことを言ったと後悔しても遅い。これぞまさに尋問。
貼り付いた身体を通して伝わってくる低い声の振動に、捕らわれてしまったかのような逃げ場のなさを感じる。
実際は私が抱擁を解けば逃げられるのかもしれないが、それはまあ不可能というものだ。
哀れ捕らわれた私に残されたのは、問いに答える道ただ一つ。
「…………きっ……」
「き?」
「今日……です……」
「は!? 休みなのになぜここにいる!」
「
グレニスは私のしがみつく力など物ともせずに両肩を掴んでベリッと私を剥がすと、真剣な表情で私の目を見据えた。
「いいか? 俺が鍛錬に付き合えと命じたからといって、なにも休日まで返上する必要はない。労働に応じた休養を取ることも、大事な仕事のうちだ」
「朝の一時間ちょっとですし……、このあとでちゃんと休む予定ですし……」
真剣な瞳が後ろめたくて言い訳するように口を尖らせれば、グレニスが呆れたように首を振った。
「そもそも、休日まで俺に付き合う必要はないんだ。もっと好きなことをして有意義に過ごせ」
私の奇行に対する尋問として始まったはずなのに、こうしてちゃんと休みを取れと諭してくれる主人は雇用主の
短期間しか接していない自分にだって、グレニスが騎士団長としていかに慕われているかが容易に想像できる。
だがしかし、それはそれ。これはこれ。
「……お断りします」
「なんだと?」
私の返事が聞き取れなかったのか、グレニスが片眉を上げて聞き返す。
「鍛錬の付き添いをお休みするのを、お断りします」
しっかりきっぱり目を見て告げて、肩に置かれた手をよいしょと
「ちゃんと休みを取れ!」
「休みは取ります! でも、尋問は休みませんっ!!」
女相手なのでものすごーく手加減してくれているのだろうけれど、それでも力強い大きな手に押されるのに負けないよう、渾身の力でグレニスにしがみつく。
「休めと言うのに! ……このっ、なんて力だ……! おい、足まで使って巻きつくな! こら! いい加減離れろ……っ!!」
「いやぁぁぁぁっ!!」
「人聞きの悪い声を上げるな!」
そうして私は持てる体力のすべてと引き換えに、なんとか毎朝の尋問を勝ち取ったのだった。
その日のお休みは街へ出かける余力もなくぐったりとベッドに沈む羽目になったけれど、後悔はしていない。
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