第5話 あの香り(のする本体)
ジャブジャブと、たらいに入れられた洗濯物を洗っていく。
下っ端の私に回されるのは、扱いは簡単だけれど洗うのが大変なテーブルクロスやシーツなどの大物ばかり。
繊細な扱いを要する高級素材でできた物———主にグレニスの衣類など———は、もっと洗濯物の扱いに長けた先輩メイドが手がけている。
「はぁ……」
羨ましい。
グレニスは鍛錬後に騎士団の制服に着替えるから、今洗われている洗濯物の中には今朝の汗だくシャツが混ざっているはずだ。下着だってあるかもしれない。
はす向かいで手際よく洗濯をする先輩メイドの手元で、極上の香りの染み込んだ衣類が次々と洗剤の香りに塗り替えられていくのを為すすべもなくじっとりと見つめる。
洗濯場には洗剤の香りが充満しているせいで、他の香りなんて漂ってこない。
あの香りを嗅ぎながらであれば仕事も捗ること請け合いなのに。
清掃の時だって、大事な物の置かれた主人の部屋を下っ端なんかに任されるわけもなく、私は延々と広い庭の掃き掃除をしているだけだ。
あーあ。一日中あの香りに包まれていられたら、どんなに幸せだろう———
「リヴェリー、さっきから手がお留守よ!」
「はいっ! すみません!」
この屋敷は良くも悪くも平等で、平民も混ざる使用人の中、行儀見習いの令嬢だからといって優遇されることはない。
ちゃーんと下っ端として、肉体労働じみた雑用からのスタートだ。
これもグレニスの方針なのだそう。
おかげで令嬢の中には「こんなに大変なんて聞いてない!」と憤慨して辞めてしまう人も少なくないのだとか。
私も入りたての頃は『すぐに辞めると言い出すのではないか』と窺うような周囲の視線が気になっていたけれど、三ヶ月経った今ではそれもなくなった。
勉強のために置いてもらっている身なのだから、しっかり努めようと思う。
最高のご褒美も貰っていることだしね!
視線を手元に戻した私は、気持ちを切り替えわっせわっせと洗濯に精を出した。
メイドの朝は早い。
というより、早朝鍛錬の付き添い時刻が異様に早い。
深夜とも早朝ともつかない時間に起き出して、薄暗い部屋で身支度を整える。
「あれぇー? リヴ、今日はお休みじゃなかったっけぇ?」
物音で起こしてしまったのか、マニーが二段ベッドの上から眠そうな顔を覗かせた。
お仕着せ姿の私を見て首を傾げている。
「ごめん、起こしちゃった? お休みなんだけど、鍛錬の付き添いだけはしてこようと思って」
「えぇーっ、
『罰』とは一体なんのことだろうと考えかけて、自分がそう説明したのだったと思い出した。
これまでは休日もマニーが寝ている間に部屋を出ていたので、気付いていなかったのだろう。鍛錬の付き添いを終えて私服に着替えに戻る頃には、始業時刻をすぎていて使用人棟は無人だったし。
「大丈夫大丈夫、心配しないで! 私がやりたくてやってるだけだから!」
「リヴってば、すっごく責任感が強いのねぇ……、ふわぁ~ぁ。あんまり無理しすぎないようにねー」
マニーは感心したように言って、もう一度寝直すのかベッドに頭を引っ込めた。
期せずして自分の株を上げてしまった気がする……。なんという後ろめたさ。
失態の責任を取ろうだとか全くもってこれっぽっちも考えていなかったし、なんならあれが罰だということさえ忘れていたくらいなのに。
とりあえずベッドへ向けて両手を合わせ、『騙すつもりはなかったんですごめんなさい』と拝んでおいた。
こんなに早い時間にも関わらず、厨房ではすでに料理人たちが朝食の支度を始めている。
「おはようございます!」
大きな声で挨拶し、タオルを乗せたワゴンを押しながら厨房に足を踏み入れる。
新鮮な野菜の香り、刺激的な香辛料の香り、予熱で温まっていくオーブンのちょっと焦げたような香り。
朝の清涼な空気に様々な香りが溶け込んで、ここに来るとなんだかワクワクとした気持ちになる。
「おはよう」
「おはようございます」
「今朝も早いねー」
「みなさんには敵わないですけどね」
口々に返される挨拶に答えながら厨房の中を進む。
「おー、おはようリヴェリーちゃん。今日もべっぴんさんだね」
「あはは、おはようございますバートンさん。バートンさんも渋くて素敵ですよ」
父親よりも歳のいった料理長が軽口を寄越すのに笑って返し、隅の作業台で準備に取りかかった。
作業台の上にトレーとゴブレットを用意して、昨日のうちに仕込んでおいた果実水を半地下の保冷貯蔵庫から取ってくる。
「あっ、そうだ。ねえねえバートンさん、疲れに効く飲み物ってありますか?」
後ろの作業台で肉に香辛料を刷り込んでいる料理長に声をかける。
「なんだい、リヴェリーちゃんお疲れかい?」
「ううん、私じゃなくって旦那様。毎日すごーくお忙しそうだから……」
定刻になれば使用人棟に引き上げる自分とは違い、グレニスの帰宅は毎夜随分と遅いようだ。
それなのにこんなに早朝から鍛錬に起き出して、ちゃんと休養は取れているのだろうか。
余計なお世話かもしれないけれど、あの香り(のする本体)の一助になれる手段があるのなら講じたい。
グレニスが倒れでもしたら、わた……国の一大事だ。うん。
「あー、そうさなぁ。元々多忙な方だけど、ここ最近は輪をかけてお忙しそうだもんなぁ。うーん……疲れなら、酸っぱいものや甘いものなんかがいいと思うよ。汗をかいた時なんかは塩っ気も必要だな」
「酸っぱい……甘い……塩……」
鍛錬後は汗だくなので、となると塩気はあった方がいいだろう。
手元に視線を落とせば、キンキンに冷えた金属製の水差しの中にはレモンスライスが浮かんでいる。
酸っぱいもの……。
ちょっと悩んでから、そこにスプーン二杯ほどのはちみつと少量の塩を加えてみた。
はちみつはいいとして、果実水に塩を入れるのは怖かったので本当にちょっぴりだけだ。
適当なカップを出し、出来上がった水を味見してみる。
「……んっ! 美味しい!」
はちみつの甘味によってレモンの酸味がマイルドになり、直接の塩味は感じないけれど、塩の効果か味がちょっと引き締まっている気がする。
すっきりと薄味のはちみつレモン水は飲んだ端からスッと身体に浸透していくようで、これはなかなかいいんじゃないだろうか。
「バートンさん、ありがとう!」
「リヴェリーちゃんのアイディアだろ? 美味く出来てよかったな」
「はいっ!」
はちみつレモン水を乗せたワゴンを押しながら、私は意気揚々と鍛錬場へ向かった。
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