第3話 鼻が忙しいので
「んぶっ」
抱き寄せられた勢いで、思いっきり硬い胸板に飛び込んで鼻をぶつけた。
すんすん何をするんだすん!
まったくすんすん、急にすんびっくりするじゃすんすんすんすん。
手荒な扱いに文句の一つも言いたいところだが、今はちょっと鼻が忙しいので発声に回す呼気はない。
汗だくのグレニスにぐっと抱きしめられ、爽やかな朝にピッタリのかきたてフレッシュな汗の香りに包まれる。
すんすんすんすんすん
なんだろうこれは?
突然なんのご褒美だろう? 私は自分でも気付かないうちに素晴らしい善行でも働いていたのだろうか。
「昨日、甲冑内部の匂いを嗅いでいたと言っていたろう? そんなに嗅ぎたいのならば直接嗅がせてやる」
願いを叶えようと言う言葉とは真逆の、温かさなんて微塵もない皮肉めいた声。
しかし今の私にとってそんなことは
石鹸なのか、微かにミントの香りが混じる野性的な香りに包まれて感じるのは脳のとろけるような至福。
甲冑ほどの熟成された濃厚さはないものの、やはりこの香りは最高に私好みである。
運動後の体温に熱されムワッと気化していく香りを、ひと嗅ぎも洩らすまいと吸引する。
頬に触れるじっとりと濡れたシャツから私にも香りが移ってくれないだろうか。そうすれば自給自足ぐへへ。
「———どうだ、そろそろ本当の目的を
グレニスはまるで私を拷問にでもかけているかのような口振りで言った。
吐く……? 吐くなんてまさか!
むしろ先ほどからずっと息は吸いっぱなしである。呼吸じゃなくて吸吸。
すぅぅぅと大きく吸い上げれば、私の身体の奥の奥まで極上の香りが染みわたっていく。
この状況をどうだと問われれば、それはもう。
「さ、最高れす……」
「……なかなか強情なようだな」
グレニスは軽くため息を吐いて抱きしめる腕を解くと、私の握りしめていたタオルを奪ってぞんざいに汗を
「あぁ……」
せっかくの汗がみるみる拭き取られていくのを切なく見守る。
「明日も今日と同じ時間に来い」
「はい。かしこまりました、旦那ふぁま」
返されたタオルを
ガヤガヤと賑わうお昼時の使用人用食堂。
カウンターで料理の乗ったトレーを受け取り、同室でメイド仲間のマニーと連れだって長テーブルの片隅に着く。
まずはスープからとひと匙口に含んだところで、マニーがとんでもないことを言い出した。
「リヴってば、いつの間に旦那様のお気に入りになったの?」
「ん゛ぇっ!? ッゲホ、ゴホッ」
起き煮入り?
マニーはテーブルの向かいから身を乗り出し、内緒話でもするかのように口元に手を添えて声を潜める。
「私聞いちゃったのよ。早朝鍛錬の付き添い、旦那様自らリヴを指名したんでしょ?」
「あー……、まあね……」
指名されたことには変わりないが、それは断じてお気に入りなどという可愛らしい理由からではない。
「指名っていっても……これは罰みたいなものよ。ちょっと、旦那様の前で失態を冒したせいで目を付けられちゃったみたい」
朝は香りでトリップしていて何もわからなかったけれど、冷静になって考えてみれば———あれはそう、尋問官と罪人である。
どうやらグレニスは、私が甲冑によからぬことをしようとしたと疑っているようなのだ。
「なぁーんだ、つまんないの。確かにすごく朝早いから起きるのは辛いわよね」
面白味のない返事に興が削がれたのか、マニーは乗り出していた身体を椅子へ戻すと大人しく食事を始めた。
使用人食堂ではマナーを気にする必要もなく、あちこちからカチャカチャとカトラリーの擦れる音が聞こえてくる。
「ねえ、マニーも鍛錬に付き添ったことある?」
「ええ、何度もあるわよ」
マニーは一年先輩なので、私より色々と仕事の勝手もわかっている。
「その時って、その……どんな感じだった?」
「どんなって言われても……ただ脇に控えて、飲み物とタオルをお渡ししただけよ」
「それだけ? タオルを渡したあとは?」
「んー、あとは鍛錬で使われた小道具を片付けたり地面をならしたりするくらいね。ほら、重たい道具なんかは旦那様がご自分で片付けてくださるでしょ?」
「ええ、そうね……」
こんなことを言えばまた大いなる誤解を与えそうなので口が裂けても言えないが、やはり抱きしめられるのは通常業務ではなかったようだ。
あの時の言動を思い返してみるに、グレニスはなぜか私を抱きしめることが私にダメージを与える手段だと思っているようだったけれど……正直、まったく意味がわからない。なんならご褒美でしかない。
本人の人柄についてはよく知らないけれど、他のメイドたちの反応を見ていても触れること自体が罰になるほどグレニスが嫌われているとは考えづらい。
グレニスは一体何がしたかったのだろう?
鍛錬はグレニスが宿直などで不在の日を除き、決まって毎日行われるという。
それは明日以降も、また今朝のようなことをされる可能性があるということで。
私は期待にだくだくと込み上げる唾液を、ちぎったパンと共に飲み込んだ。
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