第五十七話・棄てる覚悟
「そう、なんだ……」
母親が生きていたと聞いて、みつるは笑顔を見せなかった。さとるも真栄島から聞いた時に、素直に『良かった』と思えなかった。
弟の反応を見ながら話を続ける。
「家に帰るか、施設行くか、どっか別んとこ行くか。どうするか決めないといけないんだ。……みつるはどうしたい?」
「どうしたい、って」
「また前みたいに母さんと暮らしたいか?」
「……ッ」
みつるは青褪め、慌てて首を横に振った。
こんな反応を示すのは予想外だった。今まではさとるが実家の分の家事も代わりに済ませ、金を渡していた。あやこは昼間はパート、夜は飲み歩く生活で、家には寝に帰るだけ。みつるに辛く当たるようなことはなかったはずだ。
しかし、みつるは母親を拒絶した。
「絶対やだ。戻りたくない」
「なんで」
「お母さんなんか嫌い。会いたくない。お母さんがにいちゃんを苦しめてきたの、僕知ってるんだよ。だから、ずっと前から大嫌いだった」
「みつる……」
泣きながら母親への憎悪を吐き出す弟の手を握り、宥めるように何度も肩を撫でる。困惑するさとるの顔を見て、みつるはまた涙を流した。
「でも、いちばん嫌いなのは、にいちゃんに迷惑かけてばっかの僕なんだ……」
兄に迷惑を掛けている自分が嫌い。みつるが心の内に秘めていた感情を知り、さとるは狼狽えた。
これまで弟の前では辛い顔を見せないようにと努めてきた。母親が何もしなくても生活に不便がないようにしてきた。隠していた『見せたくないもの』の存在に気付かれていたことに驚きを隠せなかった。
さとるも、みつるに対して負い目がある。
それは、両親の記憶。父親と母親、そして自分。親子三人暮らしだった頃の幸せな記憶がさとるにはある。生まれた直後に両親が離婚したため、みつるは父親を知らない。離婚原因を作った母親は家に寄り付かなくなり、生活は荒れた。
あたたかい家庭をみつるは知らない。
だから、せめて母親だけは奪わないようにと努力してきた。あやこは外ヅラが良い。学校行事には必ず小綺麗な格好をして参加するし、他の保護者や教師の受けも良い。他人の目がある場所では母親らしい言動をする。例え周りに向けたパフォーマンスに過ぎなくても居ないよりはマシ、さとるはそう考えていた。
そんな兄の思いとは裏腹に、弟は上っ面だけの母親などとっくに見限っていたのだ。
「お母さんの所になんか帰りたくない。にいちゃんにも迷惑掛けたくない。……僕ひとりで施設に行くから、にいちゃんは自由になってよ」
「みつる……」
選んだのは、
りくとと気があったのは、無意識のうちに互いの心の中に抱えている感情に気付いたからかもしれない。家族の幸せの邪魔になっているんじゃないか。自分さえいなければ。二人はそう思いながら生きてきた。
「毎日いっぱい働いて、家のこともして、ごはん作って。その上お母さんにお金取られて。僕を塾に入れるために仕事増やしたんでしょ。そんな生活続けてたら、にいちゃん倒れちゃうよ。それに今回のことだって僕をシェルターに入れるために危ないことしたんだよね? お願いだから、もう何もしないで。にいちゃんの好きに生きてよ」
ぼろぼろと涙をこぼし、みつるは兄に気持ちを訴えた。優しい兄をこれ以上自分に縛り付けたくない。その一心だった。
「…………わかった」
しばらく沈黙した後、さとるは静かにそう答えた。
「じゃあ、」
「母さんを
「は?」
「そんで、二人だけで生きていこう」
兄の言葉に、みつるは間の抜けた声を上げた。
あれだけ言ったのに理解してもらえなかったのだろうか。何も出来ない自分と一緒に居れば必ず迷惑を掛けてしまうというのに。
──母親を棄てる。
そう決意したさとるの表情は晴れやかだった。
頭の片隅にあった選択肢を、彼はずっと見ない振りをしてきた。みつるが要らないと言うのなら、もう
「おまえがそこまで言うなら、母さんにはオレ達が死んだってことにして二度と会わない。名字を変えて引っ越したり、学校や地元の友達にも会えなくなるけど、いいよな?」
「え、でも、にいちゃん」
戸惑うばかりのみつるの手を、さとるは再び力強く握った。テーブルを挟んで真正面から向き合い、ニッと笑ってみせる。
「おまえと離れるのだけは絶対に無しだ!」
キッパリと言い切る兄に、みつるは唇を真一文字に結んで嗚咽を堪えた。
「オレが頑張ってこれたのは、おまえが居たからだ。おまえが居なかったら何の目的も楽しみもない。いくら自由な時間や金があったって意味がない。……分かったか?」
一人では、母親との生活に耐えられなかった。自分を慕ってくれる弟が居るから何があっても耐えられた。みつるが兄を心の支えとしたように、さとるもまた弟の存在に救われてきた。
「僕が一緒でもいいの?」
「いいって言ってんだろ」
「っ……」
とうとうみつるの涙腺が限界を迎え、拭っても追い付かないほどに泣き出してしまった。無理やり泣き止ませることはせず、さとるはただ震える弟の手を握り続けた。
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