間章 屍者の日 ~ Prequel

ex:01 発端

 20xx年7月18日。

 その日、ゴビ砂漠の荒涼とした大地にぽつんと建てられた、現代的な趣の研究所からそれは始まった。




『主任、図面の刻印が完了しました』

「わかった。今行く」


 インターホンから副主任の報告があり、趙主任研究員は地下の研究室へと向かった。

 部屋の扉から、エレベーターのパネルに至るまで、あらゆる扉にIDカードをかざして通過する。通路の各所には監視カメラが設置されており、通る人間の顔を逐一チェックしていた。

 いささか過剰とも思えるセキュリティをくぐり抜け、主任は地下20mの研究室の前に立った。ここでもIDカードのチェックのほか、虹彩認証まである。

 認証をパスすると、シャコンッという音と共に扉を固定していた極太のボルトが引き抜かれ、ぶ厚い鋼鉄の扉がゆっくりと開いていく。主任は開ききるのを待たずに中に入った。



 広い研究室内には、ワークステーションや各種計測機器が並んでいる。部屋の中央には大きなテーブルがあり、四人の研究員が集まっていた。

 テーブルの上には、銀色に光る金属板が置かれている。

 金属板は幅3mほどの正方形で、5cmほどの厚みがある。そして、その表面には大きな円と五芒星が描かれ、その他の複雑な図象がびっしりと隙間を埋めていた。それらの図柄は塗料ではなく、金属板の表面に掘られた溝によって描かれている。溝の深さは5mm程度で、幅は場所によって違っていて、細い所では2mmほど、太い所では15mmほどあった。


「精度はどうだ?」

「誤差は±0.05mm以下のはずです」

「ふむ……」


 主任は金属板に近寄って、その細工をつぶさに見て回った。金属板に刻まれた紋様は、その意味は不明ながら、ひどく奇怪な印象を与えてくる。

 副主任が不安そうな顔で尋ねてくる。


「主任、本当にこんなものが機能するのですか?」

「情報では間違いないはずだ」

「しかし、どうも情報はいくつか欠落しているように思えますし……」

「一番肝心な部分はすべて入手している。問題はない」


 それらの情報は米国にある『平行宇宙開発プロジェクト』の研究所から、協力者の手によって持ち出されたものである。

 その協力者はスパイ行為でFBIに摘発されてしまったが、プロジェクトにはまだ何人か工作員を送り込んである。必要ならばさらなる情報を得ることも、場合によっては何らかの妨害工作サボタージュを行うことも可能だろう。

 そして、プロジェクトの核心部分の情報はすでに得られた。あとはそれをこちらで再現するだけである。足りない部分は、追々、こちらで試行錯誤しながら補っていけばいい。


「ならいいのですが……。どうにも、こんなもので平行宇宙が創造できるとは到底思えなくて」

「ふむ、そう思うのも無理はないが。いずれにしろ、試してみればわかることだ」


 彼らがやろうとしているのは、プロジェクトが生み出した平行宇宙創造のプロセスを模倣し、自分たち独自の平行宇宙を創ることだった。

 今のところ、平行宇宙との間ではデータの送受信しかできず、直接的に物質をやりとりすることはできない。だが、もしそれが可能になれば、慢性的に資源が不足している彼らの国に途方もない恩恵をもたらすだろう。

 プロジェクトには彼らの国も参加していたが、彼らの国は主導権を持っていない。研究を進めたくても、それができないのである。そのため、彼らは非合法な手段を使ってでも、自分たちで創ることにしたのである。残る意味もなくなったとして、プロジェクトからも脱退した。


 あの手この手を駆使して、やっと核心部分の情報は得られた。しかし、蓋を開けてみれば、どうにもその内容は大いに困惑させられるものだった。


 入手したのは『ウェイトリィ文書』と呼ばれる一連の論文だった。

 90年代に書かれたらしいその奇怪な論文は、まるで中世の魔術書でも読んでいるような気分にさせられる代物だった。なにしろ、魔法円マジックサークルやら異界の神のような存在やらが、平然と、当たり前の事実のごとくに論じられているのだ。およそ科学的とは言い難い、というより荒唐無稽な記述のオンパレードで、到底まっとうな科学者が取り扱うものではなかった。


 当初は、偽データを掴まされたのだと考えた。

 しかし、文書を丁寧に見ていくと、極めて非科学的な内容ながら、その記述は非常に詳細で一貫性があり、妙に具体的だった。

 また、協力者やその他の関係者の話を総合すると、プロジェクトの中心では密かに何やら魔術めいた奇妙な儀式が行われていたことをうかがわせた。


 プロジェクトは最新の宇宙論の実証実験だと主張しているものの、そのわりに一番の核心部分、平行宇宙をどうやって生成するのかという点は非公開とされている。

 普通ならそんな根本のところが不明では検証もなにもなく、論外である。しかし、公開された成果物については理屈どおりにきちんと機能していたため、研究者らは多少懐疑的になりつつも結果を受け入れていた。

 もしこの文書が本物であるなら、これは確かに公開できないだろう。こんなエセ科学じみた代物を元に創られたとされる『平行宇宙』など、誰がまともに取り合うだろうか。たとえ成果物があっても、それを確認する以前に与太話として捨て置かれるのが関の山だ。

 現在では、実際にその成果物を確認しているので、それがどれほど嘘臭かろうとも、何がしかの真実が含まれていると考えられるのだが。


 そもそも、平行宇宙を創って操作するなどという話自体が、現代の科学水準から著しく乖離しているのだ。多元宇宙論は各方面でいろいろ研究されているが、どれも理論止まりであり、このプロジェクトだけが異様に突出している。それを考えれば、魔術と呼ばれるような人智を超えた何かが行われていたとしても、不思議はないのかもしれない。


 主任は科学者の一人として、このようなエセ科学に取り組まねばならないことを不快に感じていた。だが、彼は目的を間違えたりはしない。

 彼らと、彼らの国の指導者層にとっては、結果さえ得られれば、その過程が科学的であろうと非科学的であろうと構わないのだ。

 なれば、あとは実践あるのみである。


「始めるぞ」


 彼らは作業を始めた。

 手順の意味はわからない。溝に水銀を流し込んだり、立方体に固めた塩の結晶を特定の場所に置いたり、血液を使って円を描いたりといった手順に、いったい何の意味があるのだろう。

 それでも、彼らは手順どおりに進めた。進めたつもりだった。


 彼らが知る手順に重大な欠落があるとは、想像もしていない。そして、手順が抜けた場合に何が起こるかについても、まったく知らなかった。仮に失敗しても、やり直しがきくと思い込んでいるのである。

 彼らは自分たちが何を扱っているのか知らないまま、それに触れていた。人類の常識をはるかに超えたものであるため、ある意味、仕方がない面もある。

 だがそれは、赤子が爆弾のスイッチで遊んでいるようなものだった。いや、後のカタストロフを考えれば、爆弾どころではなかった。


「ん?」


 まだ工程の半分もいっていないところで、金属板の上の空気が歪んだ。


「おぉぉ……!?」


 その場にいた全員が、それに見入っていた。

 金属板の上、50cmほどのところに、直径10cmほどの球状の領域が浮かんでいる。そこには何もないのだが、空間が歪んで見えるのだ。

 それはどうやら蜃気楼のように熱で光が揺らいでいるのではなく、レンズのように球状に光が歪んでいるかのようだった。まるで、重力レンズのように――。


 その時、主任は不意に強烈な悪寒のようなものを感じた。風が吹いたわけでもないのだが、何かの圧力としか表現できないものを受けた。主任だけでなく、他の研究員らも体をビクっと震わせた。

 そして、金属板に描かれた紋様が、赤紫色に光を放ち始めた。


「な、なんだ!? 何が起きている!?」

「わかりません。計測器には何の反応もなく……」

「こんなことはあの文書には書かれてなかったはずだが……うわっ!?」


 バチっと稲妻が走り、研究室内に置かれた機材のそこかしこから火花が散った。

 ふっ、と天井の照明が一斉に消えた。各種機材のディスプレイやLEDインジケータ、出入り口のセキュリティパネル、はては非常灯の明かりまで、人工の明かりすべてが消えてしまった。

 ただ、金属板に刻まれた紋様だけが、赤紫色の燐光を明滅させて、部屋の中を照らしていた。

 球状の領域からは、なんとも表現しがたい圧力のようなものをひしひしと感じる。それは強くなったり弱くなったりと、波のように強さが変化した。


「いったい何が……。おい、誰か電源パネルを見てこい」


 副主任が壁際に設けられたパネルのところへ走った。

 そのとき、球状の領域が放つ圧力が跳ね上がり、同時に金属板の紋様の光が急激に強まった。直視できないほどではないが、非常にまぶしい光を放っている。主任やテーブルの周囲で呆然と立ち尽くしていた研究員二人の顔がはっきりと見えるくらいに。


「ん?」


 ふと、主任は違和感を覚えて、近くにいた二人の顔を見回した。赤紫の燐光で、彼らの顔は照らされていた。

 さっきまで彼らは主任と同じく、金属板上の球状の領域に見入っていたはずだ。だが、今は二人とも無言で、無表情のまま主任をじっと見つめていた。

 主任は違和感の元に気づいて、ぎょっとした。


「なっ……!?」


 二人は主任を見つめていたわけではなかった。

 顔こそ主任のほうにまっすぐ向けているが、その目はどこも見ていなかった。というより、二人とも左右の両目が別々にぐるぐると動き回っていたのだ。斜視どころではなく、まるでカメレオンのごとく完全にバラバラな方向を向きながら、せわしなく不規則に動き回っていた。

 両目がああもバラけていては視線など辿りようもないが、不思議と彼らは主任を注視しているように感じられた。

 ゾっとして、主任は後退ろうとした。だが、すぐ後ろに人の気配を感じて、振り向いた。


「ひっ!?」


 そこには研究員の一人が無言で立っていた。姿が見えないと思ったら、いつの間にかそこにいたのである。

 その顔はまっすぐに主任に向けられ、両目は別々にぐるぐると動き回っていた。

 研究員は無言のまま、すっと両腕を持ち上げた。


「何だ貴様!? いったいどうしたというのだ!?」


 それに答えることなく、研究員はゆっくりと腕を動かして、がしっと主任の肩を掴んだ。


「お、おいっ、貴様っ! 何のつもりだ!? よせっ! ひっ! つ、冷たいっ!?」


 主任は研究員を押し退けようとして、その体に触れた。

 研究員の体は、まるで何時間も冷蔵庫で冷やしていたかのように、ひどく冷たかった。およそ生きている人間の体温ではない。ついさっきまでは普通に活動していたはずなのに。


 ただ、冷静に考えてる暇はなく、主任は肩を掴んでいる手を引きはがそうとした。だが、掴む力は恐ろしく強く、ビクともしない。

 研究員は顎が外れるのではというほどに、あんぐりと口を限界まで開いて、よだれとともに舌をだらんと伸ばした。そして、もがいている主任の腕に、ゆっくりと顔を近づけていく。


「よせっ!! やめ、い゛っ! ぎゃあああっ!」


 主任は絶叫をあげた。研究員が主任の前腕部に噛みついて、服の袖ごと食いちぎったのだ。研究員の口から、肉片がボタリと床に落ちた。

 鮮血が派手に噴き出て、骨まで露出している自らの腕を見て、主任は再び叫んだ。


「あ゛あ゛っ! あ゛あ゛ああああっ!! なんで! なんでこんなっ!? お、お前ら! み、見てないでたすけ……」


 他の研究員に助けを求めようとしたが、彼らは無言で近寄ってきていた。両目はバラバラに動き、顔だけを主任に向け、口をあんぐりと限界まで開けながら。


「い゛っ! ぎゃ! がっ! ぎゃああああああああああっ!」


 赤紫の燐光が明滅しながら照らす地下の研究室に、主任の断末魔の叫びが響き渡った。



「なんだ……なんなんだ……何が起こってるんだ……」


 壁際で、ただ一人残った副主任がつぶやいた。彼は床に座り込み、頭を抱えこみながら、ぶるぶると震えていた。

 彼はあまりの異常事態を目撃してしまい、驚愕しているうちに惨劇は終わってしまったのだ。


 いや、まだ終わってはいない。これからなのだ。

 気が付くと、研究員たちは口元や指先をまっ赤に染めたまま、ゆっくりと体を副主任の方へと向けた。

 それだけではない。血まみれで倒れていたはずの主任が、むくりと起き上がった。

 主任の顔が副主任へと向けられた。その目はカメレオンのごとく左右バラバラに動いており、限界まで開ききった口からよだれとともに舌がべろんと垂れ下がり――


 副主任は絶叫した。





 砂漠上空を軍用ヘリが飛行していた。


「大校、研究所まであと2Kmです。そろそろ見えてきます」


 パイロットが報告すると、後部座席にいた楊大校は鷹揚にうなずいた。(大校とは人民解放軍の階級で、西側でいえば大佐に相当する)

 目的地はゴビ砂漠に造られた秘密の研究所である。楊はその研究所の責任者だった。

 午前一〇時過ぎに、研究所から最大級のアラートが発せられた。何者かに襲撃されている、と警備員が報告してきたきり、それ以降連絡が途絶えている。

 それで状況確認のため、楊が急遽現地へ向かうこととなったのである。


 すでに研究所の施設は見える範囲にあった。

 厳重な壁で囲われた研究所の近代的な建物は、そこかしこから煙が昇っていた。のっぴきならない事態なのは、ここからでも察せられた。

 壁や外門には損傷は見られない。とすれば、研究所の内部から問題が起きたのか。


 その時、楊大校はひどく気味が悪く不快な圧力のようなものを感じた。それが何なのか、判別はつかない。気圧の変化などではなく、ただ悪寒のような圧力としか表現のしようがなかった。


「な、なんだ、今のは……?」


 悪寒は周期的に強弱をつけながら襲ってくる。それは、研究所から発せられているように感じた。

 不意に、ヘリの姿勢が崩れた。機体が左側に四五度近くまで傾き、機首も進路とは違う方向へ向けられた。強烈なGがかかるとともに、高度が急激に落ちていく。


「おいっ! 何をしている!?」


 楊大校はパイロットを叱責した。

 その声に反応したのか、パイロットはゆっくりと顔を振り向いた。体はシートベルトで操縦席に固定して、深く座ったままで。ごきり、と異様な音を立てて、パイロットはその顔を真後ろへ、後部座席へと向けた。

 パイロットの両目はバラバラに向いていた。


 さらにパイロットは操縦桿から両手を放すと、背中の方へ向けた。依然として、深く座ったままで。またもやごきりとイヤな音をたてて、両肩も両肘もありえない方向に曲がりながら、後方へまっすぐに伸ばしてくる。


「ひぃっ!?」


 パイロットの異様な状態に、楊大校は震えあがった。なぜそんなことになってるのか、あまりにも異常すぎてまったく理解が及ばない。意味がわからない。何が何やらわからないが、とにかくただ純粋に恐怖で一杯になった。


 機内に高度低下のアラームが鳴り響いた。そうして、ヘリは地面に激突し爆発、炎上した。





 十八時間後。ゴビ砂漠にて、小型の戦術核がさく裂した。


 異変に気付いた現地の政府が鎮圧しようと軍を派遣したものの、ほんのわずかな時間で全滅し、逆に異変を増大させてしまった。そればかりか、増援もあっという間に同じ末路をたどった。手に負えなくなった政府は、核兵器による解決を図ったのである。


 対外的には理由は伏せられ、ただ「核実験を行った」とだけ発表された。

 唐突で意図も不明な地上核実験に対して、各国で緊張が高まり、非難声明などが出された。しかし、その翌日から全世界で起き始めた異変への対応で各国は手一杯となり、核実験の件はうやむやとなってしまった。

 タイミング的に、核と異変の関連を疑う向きは市井の陰謀論者の間だけでなく、各国の政府関係者の中にも少なからずあったが、結局、誰も真相にたどり着くことはなかった。そうなる前に、すべてが終わってしまった。



 研究所は跡形もなく蒸発した。だが、研究室にあった球状の領域はそのまま残った。

 彼らが行った平行宇宙を創るはずの作業は、手順の欠落によって、別の『どこか』、あるいは『何か』と繋がったまま、固定された。

 そして、そこから漏れ出る未知の波動も止まらなかった。

 波動は地表面を這うように円形に果てしなく広がっていき、そして地球の反対側にある南米チリ西方沖で収束すると、そのまま通過して、再びゴビ砂漠へと戻っていく。

 このゴビ砂漠と南米の二点を両極として反復しながら、波動は地球の表面全体を覆いつくし、時間とともに強度を強めていった。


 これらの事象は、人類が理解し得る既知の宇宙の法則から大きく逸脱したものであったため、それがどういう理屈で起こるのか理解できる人間は皆無だった。それ以前に、それが起こっていることにさえ、人類は気づいていなかった。ただ漠然と、その余波によって引き起こされた間接的な事象から窺い知るのみであった。



 そうして、世界中で死者が起き上がり始めた。

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