ex:02 表面化

 20xx年7月20日。

 その日、世の中は騒然としていた。


『……ここ、○○大付属病院では昨夜から……』

『……政府は厚生労働省を中心とした対策チームを発足させ……』


 ニュース番組ではどこもその話一色となっていた。

 日本政府の発表によると、現在判明しているだけで、謎の症状によって昨夜一晩のうちに日本全国で少なくとも二万人が亡くなっていた。これは、日本の一日あたりの平均死亡者数約三千人、あるいは東日本大震災における死者一五,八九五人をも大幅に上回っていた。控えめに言っても大災害である。

 それは日本だけではなかった。世界各地で夜間の間に概ね人口に比例した死者が出ており、死者総数は数十万人に上るとみられていた。


 だが、これらはまだほんの序盤に過ぎなかった。人が死んでそれで終わりとはならず、さらに先の事態が待ち構えている、と予想できた者はいなかった。





 首相官邸では、日の出前からすでに慌ただしく対応に追われていた。

 時間が経つごとに集まる情報が増大しており、一旦情報を整理するために、首相や大臣らが集まって報告が行われた。本来の予定では、今日は隣国で行われた核実験への対応を協議する予定だったのだが、そちらの問題は脇に追いやられた格好となった。

 厚生労働大臣が現在までに判明していることを簡潔に報告した。


「昨日、一九日朝の段階では、全国で一〇三一人がこの症状で亡くなっております。これは医療機関で確認が取れたものの数字です。そして、本日、まだ正確な数字は上がっていませんが、現時点で判明しているだけで二万人を超えることは確実です」

「増えているのか」

「そうなります」


 昨日の午前中から、全国の保健所に原因不明の奇妙な死亡例の報告が少しずつ入り始めていた。

 症状としては、突然体温が急激に低下して死亡する、というものだった。直接的には低体温症で死亡したと考えられなくもないが、奇妙なのは体温が気温よりも低下する原因がまったく見当たらないことだった。水泳をしていたとか、登山中だったとか、あるいは冷凍庫に閉じ込められていたわけでもない。ここしばらく真夏日が続いていて、どう考えても体温が10℃前後まで下がる理由がないのである。


 症状を診た医師らは、奇妙な死に方に首をひねった。とりあえず死因不明なため、変死として通常の手順通りに警察署へ届け出たのだが、一部の医師はさらに地元の保健所やその他の医療機関にも連絡を入れた。過去に似た症例がないか、少しでも情報を集めようとしたのである。

 だが、各医療機関の側は複数の奇妙な死亡報告を別個に受けて、何か尋常でないことが起きてることに気づいた。それで慌てて厚生労働省や自治体に報告した。

 地域によって差はあるものの、各都道府県で数十から百を超える死者の報告があったので、各知事も慌てて厚生労働省に連絡をとった。

 情報が錯そうする中、午後になってようやく事態が全国レベルであることが確認された。


 事態を重く見て、厚労省も慌てて情報収集に走ったが、前例のない症状で現場も混乱しているところへ、さらには海外から似た症例の話が入り始め、さらに混乱する。

 ほぼ全国で死者が多数出たとなれば、普通は感染症の類を疑うところだが、症状も拡がり方も既知の感染症とはまったく異なっていた。報告の中には、それまで何の異常もなかった人が、数分後には冷たくなって死んでいたというケースも数件あって、それがさらに混乱を助長した。

 そうして状況確認に追われるままに夜を迎え、症例が爆発的に増加して、収拾がつかないまま朝になった、というのが本日の状況であった。


「症状のほかにわかっていることは、発生するのは夜間のみで、日の出以降は収まっていることです。この傾向は世界各国でも共通しております」

「原因についてわかっていることは?」

「NIIDからWHOや米と欧州のCDCなどにも問い合わせておりますが、今のところ、どこも原因の特定には至っておりません」

「対策については」

「正直に申しますと、皆目見当がつかない状況です。原因がわからないことには対策の立てようもなく」

「感染症ではないのかね」

「血液検査などでは今のところ何も発見できていません。また、疫学的に見ても、一般的な感染症の広まり方とはかなり違っているということです」

「毒物などのテロという可能性は?」

「それもまた、原因が不明ではなんとも。ただあのような症状を起こす薬品というのも、少々考え辛いかと」

「つまり、本当にお手上げ状態ということか」

「そうなります」


 明け透けな厚労大臣の説明に、ゲンナリした空気が広がる。ただ、原因がわからない以上、この事態がこれで終わってくれるという保証もなかった。


「とにかく、原因の究明を急いでもらいたい。それと、原因が特定でき次第、それがウィルスだろうと毒物だろうと、すぐにでも対応策が取れる体制を準備だけはやっておいてほしい。医療機関の対応力が限界を超えているようであれば、バックアップする方策の検討も頼む」

「発表のほうはどうしますか?」

「対策チームを作るということくらいか。原因については、正直に調査中であると言うほかないだろう。叩かれるのは間違いないが、致し方あるまい。あとは、憶測でパニックになられても困るので、そちらの対策も必要だな」


 そのくらいの指示しか出しようがないのは首相としても歯がゆいところではあったが、とりあえずそこで報告会はお開きとなった。





 当時、佐藤桐子はPAN社の仮想空間にて、仮想体関連事業のテスターとして働いていた。

 就業時間についてはとくに規定はなく、ほとんどフリーダムである。ホーム空間に在宅したままやれる仕事も多いため、寝起きの時間もまちまちとなりがちで、一応働いてはいるものの、傍目にはニート同然の生活を送っているようなものだった。

 その彼女は暇な時には、VRMMOゲームに入り浸っていた。ゲームはファンタジー世界での村づくりと、農作業シミュレーションのような内容だった

 いつものように、この日もそのゲームの仮想空間に転移した。


「マギー、おはよー」

「キリコ、おはヨウ」


 村のはずれにある井戸のそばで、顔なじみとなったプレイヤーのマギーと挨拶をする。時差の関係で、桐子にとっては夜だが、北米サーバーに棲息するマギーはまだ昼間である。そのため、ログイン時の挨拶は「おはよう」が共通で用いられていた。

 この頃からすでに、マギーも仮想体だった。翻訳機能が誤動作して、語尾が妙な形に訳されるのも元々である。ただ、このゲームでの彼女は常に全身をモフモフのファーリィな猫の着ぐるみで覆い隠しており、決して素顔を見せることはなかったが。


「日本では死者数がすごいことになってたけど、そっちはどうだった?」

「こっちでモ、朝から大騒ぎだっタよ」


 桐子がさっそく世間を騒がせている件を話題にした。仮想世界に棲んでいても、さすがに現実でこれだけの大問題が起きていると、どうしても耳に入ってくる。

 アメリカでも夜間の間にかなりの死者が出ており、一夜明けて現在はニュースのトップに躍り出ていた。


「原因、何なんだろうね」

「さあ……テロとかそーいうんじゃなさそーダけど。ただ、なんか絶対死んでるはずなのニ、動き回っテた人がいタ、とゆー話があっテネ」

「え? なにそれ」

「しばらくしたら動かなくなったらしいけド。ゾンビなんじゃないかっテ、噂になってタ」

「えー……いくらなんでも、さすがにそれは……。アメリカ人ってゾンビネタ好きすぎない?」

「否定はできなイ……。プレッパーとかいるシ」


 桐子はネットの掲示板などからは距離を置いていたので知らなかったが、実は日本でも一部の掲示板やSNS、動画投稿サイトなどで、そうした投稿が増えていた。ただ、それを証明するものは何もなく、大手メディアではスルーされていた。動画もほとんどがヨタヨタと歩く人が映っているだけで、健常者とどう違うのかはまったく伝わってこない。たまに、顔のアップが映っているものもあったが、CGと疑われていた。


 日本時間の午後十時過ぎになって、二人の友人であるプレイヤーがログインしてきた。


「ちーっす、マギーさん桐子さん」

「おはよー、シーバスさん」

「おはヨウ」


 シーバス氏は生身の日本人VRプレイヤーである。彼はVRゴーグルを装着したうえに、全身にセンサーとフィードバックデバイスを付けて仮想世界に埋没しているというだ。このゲームでも古参格の一人である。


「何の話してたん?」

「昨日の夜の、原因不明の病気だかなんだかで死者がいっぱい出た話」

「ん? なにそれ?」

「え? 知らない?」

「日本でも、そっちのニュースでイっぱいなんでなイ?」

「あー、その、俺は世俗との関係を断ち切って、修行に励んでいるから……」


 言われて、彼は仮想空間のその場でネットニュースをウィンドウに表示して、読み始めた。


「おー、なるほど、こんなんが起きてたのか」

仮想こっちの世界にいるアタシらでさえ知っているというのニ……」

「徹底してるわねえ」

「何々、死んでるはずなのに、動いて彷徨い歩く奴がいた……とな」

「なにそれ?」

「あー、やっぱリそっちでモそーいう話出てるのネ」

「掲示板見てたら、『【社会】新種の奇病か 全国で死者二万人以上』ってスレがあって、そーいうネタで盛り上がってた。リアルでゾンビ発生じゃねえかって。あれ、何か文字化けしてら」

「ゾンビとか、いかんせん無理がありすぎでしょ」


 突拍子もない話なので、三人とも真に受けてはいなかった。


「へー。すごい大ごとになってるみたいだな。まあ、俺ら一般人が気にし……え?」


 話している最中に、彼は、彼のキャラクターは、唐突に体をギクっと強張らせた。


「なんっ、だ、だれだっ!? ぅおゎっ、冷たっ!? おまっ、や、やめっ、があ゛っ!?」


 シーバスは意味不明なことを叫びながら、そのまま後ろに倒れこんだ。猛烈に苦しみながら、もがいている。


「ちょ!? シーバスさん!?」

「シーバス!?」

「ぎゃっ、い゛だっ、い゛っ、や、や゛め゛っ、がっ!?」


 彼は左手で首筋を押さえて、右手はまるで伸し掛かってきた何かを必死に引き剥がし、押しのけようとするかのような動きをしていた。

 桐子とマギーは彼の様子にぎょっとして、思わず後ずさった。

 仮想空間にいる桐子やマギーからしたら、彼が奇妙な一人芝居でもしているようにしか見えない。だが、演技でやってるにしては、いささか苦しみ方が尋常ではなかった。


「ぐぇっ! ぎゃ、あ゛ああ゛ぁあっげぶっ!! …………けふ……………………」


 手足を突っ張らせ、猛烈に絶叫したかと思うと、ふっと力が抜けて弛緩した。そして、溜め込んだガスが漏れ出るかのような音を立てて、それっきり沈黙してしまった。


「シーバスさん……?」

「な、なニ? いったい、何ごト……?」


 手足は小刻みに痙攣している。目は見開かれたまま、どこも見ていない。

 その様は、まるで死んでしまったかのようだった。

 桐子は恐る恐る近づくと、彼の喉に手を当ててみたのだが。


「脈拍なし……って、アバターの脈測ったって意味なかったわ」

「アバターはそんなとこまデは再現してないシ」


 VRアバターが再現しているのは、手足や胴体の姿勢と、首の向きや視線、表情、口の動きくらいである。中の人がどんな容体なのか、仮想空間からではさっぱりわからない。


「どうしよう……? リアルで何かあった……? 連絡先、メアドくらいしか知らないけど」

「運営通して、連絡入れてもらウ、トか?」

「ここの運営って、そういうのやってくれるのかな?」

「さア?」

「うーん……ん?」


 二人がどうしたものかと考え込んでいると、不意に、シーバスがむっくりと上半身を起こした。


「アら?」

「だいじょうぶ、だったのかしら……?」

「でも、なんカ、様子おかシいようナ……?」


 彼はさっきまでの絶叫振りが嘘のように、無言でじっとしていた。


「シーバスさん、大丈夫で……?」


 声をかけようとして、何か違和感を覚えて桐子は途中で口ごもった。


「ひっ!?」

「うおわッ!?」


 二人ともシーバスの顔を見て仰天し、またもや後ずさった。

 先ほどまで苦悶の表情だった彼の顔は、打って変わって無の境地のように何の感情も浮かんでいない。そこはまだいいとして。

 だが、その両目はまるでカメレオンのように左右バラバラな方へ向けられ、でたらめに動きまわっていた。


「あ、あの目、いったい何ごと?」

「アバターがバグっタ?」

「バグ? いや、バグであんなんなるの?」

「わからんけド、でなきゃ、あんなになるわけないンでは?」


 横で喋ってる二人にようやく気づいたのか、シーバスの顔がゆっくりと二人のほうへ向けられた。彼の視線はまったく追いようがないが、その顔は二人を完全にロックオンしているように感じられた。

 そうして彼は、二人の方へ向かってゆっくりと動き出した。足の使い方を忘れてしまったかのように、腕だけを動かして、地面の上を這い進んでくる。

 彼は二人のそばまでくると、腕を伸ばして桐子の足をがっしりと掴んだ。


「いっ!?」

「ほわっざふぁっ〇あゅどぅいん!?」


 マギーが何か早口で叫んでいたが、そちらの翻訳を気にしている余裕はなかった。あまりの気色悪さに、鳥肌がたつ。蹴り飛ばそうとしたができず、桐子は体勢を崩して、尻もちをついた。逃げようにも、シーバスは手を放してくれない。

 シーバスはその顔を桐子の足に近づけていく。混乱した桐子は、「これは、足を舐める変態プレイなのか?」などと一瞬思ったりしたが、シーバスの顔はつま先ではなく、足首より上のあたりを狙っていた。

 顎が外れてるのでは、というくらいに限界以上に開かれた彼の口が、桐子の脛に押し当てられた。


「ひいっ!?」


 そして、ガブリと顎が閉じられた。


「ぎゃあっ!?」

「ゆぁびとぅん!?」


 だがそこで、シーバスの動きはぴたりと止まった。力も入っていないようで、桐子はシーバスを引きはがすと、マギーと共に距離をとった。


「キリコ、足はだいじょブ?」

「え? あ、大丈夫みたい。そーいや、ここVR世界だったわ」

「あー、キャラ同士でダメージは入らなかっタか。ワタシも忘れてタ」


 感覚的には極めて精巧に造られているので、当人たちも時折忘れてたりするが、ここは仮想世界である。剣で切ればHPが減るといったゲーム要素はあるが、実際にそれでアバターの体に傷ができるわけではない。噛みつき攻撃などというのもプログラムされていないので、何も起こらない。

 一方、シーバスの方はずっと同じ姿勢で固まっていた。ついさっきの痙攣状態と違って、今度はまるで電源のスイッチが切れたように完全に停止していた。


「ン? フリーズしてル?」

「どうなんだろ……止まってるみたいだけど」


 反応がないのを訝しがっていると、シーバスのアバターがふっと掻き消えた。


「消えた……?」

「回線が切断したカ、PCが落チて、強制ログアウトしたっぽイ?」

「あー、たしかにそんな感じかも」


 本当に起こったことなのか確信すらもてなくなるくらいに、後には何の痕跡も残っていなかった。

 異様な緊張感から解放されて、二人ともほっとしていた。


「さっきの、なんだったと思う?」

「ちょっとゾンビ映画みたいかと思っタ」

「うあ、ちょっと怖いこと言わないでよ」


 さきほどゾンビの話をしていたばかりだけに、桐子もそれっぽさを感じてはいた。


 この時点ではまだ、仮想世界は平穏だった。現実世界で起きている現象の一端を仮想世界から垣間見たのであるが、二人とも「変なことがあったなあ」という程度の認識しかなかった。

 二人が現実世界の騒ぎに気づくのは、日付を跨いでからのこととなる。





 VRアバター『シーバス』の中の人、鈴木健一は実家で父母や弟と共に暮らしており、自室で引きこもり生活を続けていた。

 いつものごとく昼夜逆転した生活で、夜十時過ぎに寝床から起きた彼は、いつものごとくVRゴーグルを被り、各種センサーを体の各所に取り付けて、VRMMOゲームにログインした。


「おー、なるほど、こんなんが起きてたのか」


 朝方から世間の話題がそれ一色となっている大問題も、ゲーム内の友人に言われて初めて知った。

 友人たちと話している間に、彼の部屋に弟がひっそりと入ってきた。弟は普段なら兄の部屋には近づこうとすらしないのだが、この時は違った。

 弟はカメレオンのごとく左右バラバラな目線で、顔だけを兄に向けながら、そっと忍び寄った。

 兄の方は、VRゴーグルで現実の視界と聴覚がシャットアウトされているうえ、弟の動作があまりにも静かすぎたため、弟の気配に気づくことなく会話を続けていた。


「へー。すごい大ごとになってるみたいだな。まあ、俺ら一般人が気にし……え?」


 彼が誰かがいることに気づいたのは、弟が兄の肩をがっしりと掴んだからだった。

 VRに没頭していると、受けた感覚が仮想なのか現実なのかごっちゃになることが多々ある。そのため、肩を掴まれたのが仮想ではなく現実のことだと認識するまで、ややタイムラグがあった。


「なんっ、だ、だれだっ!? ぅおゎっ、冷たっ!? おまっ、や、やめっ、があ゛っ!?」


 腕で払いのけようとして相手に触れたのだが、その表面は異様に冷たく、それが人間の腕だとは気が付かなかった。

 弟の指が健一の着ていたシャツを貫通し、深々と肩に突き刺さった。


「ぎゃっ、い゛だっ、い゛っ、や、や゛め゛っ、がっ!?」


 健一はケーブルがひっかかって、足がもつれてその場で後ろに倒れ込んだ。そこへ弟がのしかかった。

 弟は口をあんぐりと開け、健一の首筋に噛みつくと、その肉を一気に噛み千切った。

 肩の痛みをはるかに超える首の激痛に、健一は首に左手を当てた。噴出する血で、あっという間に手が血まみれになった。右手は相手を押し退けるようと、必死に動かしていた。ゴーグルで視界が塞がれているため、相手が弟だとはまだ気づいていない。

 弟はまるで機械のように正確かつ無感動に、手刀を兄のみぞおちに突き刺した。さらに指先が上に進み、兄の肺と心臓を引き裂いた。


「ぐぇっ! ぎゃ、あ゛ああ゛ぁあっげぶっ!! …………けふ……………………」


 健一は手足を突っ張らせ、猛烈に絶叫した。それから、ふっと力が抜けて弛緩した。口から残った息が漏れると、それっきり沈黙してしまった。

 襲撃者は健一が終わったところで、ふらっと立ち上がると、またもや何の気配もなしに部屋を出て行った。


 残った健一はしばらく痙攣していた。その痙攣がピタリと止まった。そして、むっくりと上半身を起こした。

 頭にはVRゴーグルを装着したままだった。このゴーグルには視線トラッキングや、表情の検出機能もついていた。着用者の目線を検出して、そのままVR世界にいるアバターの目線に反映させるのである。健一の両目の視線も、そのまま反映された。たとえその視線が、まるでカメレオンのように左右バラバラな方へ向けられていても。


 健一の視線はでたらめだったが、それでもゴーグルを介して仮想世界にいる二人の女性の姿をした。

 そうして彼は、二人の方へ向かってゆっくりと動き出した。足はケーブルに絡まってうまく動かないが、腕だけを動かして、地面の上を這い進んだ。

 伸ばした腕で片方の女性の足を掴んだ。そして、顎が外れてるのでは、というくらいに限界以上に開かれた彼の口が、女性の脛に押し当てられた。

 ガチっと顎が閉じられた。それと同時に、足に引っ掛けていたケーブルが伸び切って、コネクタから抜けた。それによって、PCの電源が落ち、VR世界への接続が切れた。

 ゴーグルの視界は真っ暗になった。


 足に絡まっていたケーブルはいつの間にか外れていた。獲物を取り逃がしたことに悔しがることもなく、視界が塞がれてることにもまったく意に介さず、彼はふらっと立ち上がると、弟と同じように何の気配もなしに部屋を出て行った。


 日付も変わろうかという時間帯だと言うのに、外では救急車やパトカーのサイレンが鳴り渡り、上空からは複数のヘリコプターが奏でるローター音が響いてきた。時折、何かの衝突音や、爆発音が混じっていた。



 その後、彼がどうなったかを知る者はいない。――正確には、いなくなった。生きてる者は誰も。

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