【4】名もなき朝の私 《さよなら先生》

1.ポルシェ売りました!

『アルパチさん』の正体が判明する。

 なんと神戸の矢嶋社長だったのだ。


『葉子さんに知られないように、こっそりリクエストしていたんですよ。唄ってくれてありがとう』と、大沼訪問の際に社長から暴露してきたので、葉子は仰天する。


 神戸レストランにある社長室でも、昼食時にタブレット片手に、葉子の唄チャンネルを毎日視てくれているとのこと! 雑誌取材の申し入れがあった時に葉子が動画配信をしていると知ってからずっとだと教えてくれた。


 その時に、葉子が篠田給仕長の様子を確かめると、彼が目をそらして誤魔化そうとしているのも確認。どうやら『アルパチさん』の正体は知っていたが、雇い主で上司である矢嶋社長から『葉子さんには正体を言うな』と口止めされていたらしい。

 しかも『アルパチ』というネームを提案したのも、篠田給仕長だとか!


 なんでも、還暦近い矢嶋社長が動画チャンネルに対して情報が疎いらしく、『動画配信にリクエストする方法がわからない。篠田、教えてくれ~』と頼まれたらしい。

 その時に『矢嶋だからやっちゃんでもやっしーでもいいじゃないですかあ』と適当にあしらおうとしたら『そんなバレそうな名前は嫌だ』と拒否され、『じゃあ、社長はアル・パチーノに似ているから。アルパチで!』と勧めたら、矢嶋社長が喜んでそのネームを使うようになったらしい。


 だからあの時、葉子が本当に矢嶋社長(アルパチさん)のリクエストを引き当てたので、思わず声がでてしまったようだった。


 忠実に上司の言いつけを守っていたんだと、そんな健気さも垣間見てしまう。じゃあ、あの時のいろいろと誤魔化そうとしていた言い方、けっこう焦っていたんだと、大人の男の慌てぶりを思い返して、葉子は密かに笑ったりしていた。


 秀星と違って喧しいけれど、賑やかにしてくれ、大沼のレストランが明るくなっていく日々。


 大沼から白い雪が消えさり、白鳥もいなくなり、木々の枝先に新緑が息吹き、もうすぐ桜に木蓮にと、いっぺんに花が咲く季節が目の前だった。


 篠田給仕長と一緒に大沼で過ごすようになって、はや四ヶ月目を迎えようとしていた。



 そんな彼のイメージは、まったくかわらない。

 とにかく『チャラい』。



「葉子ちゃん、見て~。車、買い換えちゃったんだ」


 休暇日に、ギターのレッスンへとでかけようと実家の玄関を出ると、篠田給仕長がいた。

 大型のSUV車の運転席を降りたそこに、お洒落な大人の男ファッションで、今日も不敵な笑みを浮かべている。

 上質そうな黒のトレンチコートに、ハイネックのカットソーというシンプルな出で立ちなのに、男らしさが滲み出ている。


「そ、そうですか……。わざわざ見せに来られた……のですか?」


 まだ移転して数ヶ月、四月を迎えている。これまで彼は『ほぼ』車がない生活を送っていた。

 なにしろ神戸ではポルシェのカレラに乗っていて、それがやっと北海道へ輸送されて到着したものの、雪国仕様にまったく支度が出来ていず、ガレージにしまったまま走らせることもなかったのだ。


 葉子はそのポルシェに何度も乗らないかと誘われたが、断っていた。

 そもそも雪タイヤはいていないし、広島出身で阪神を中心に働いてきた彼が、雪道を運転できるわけがないのだから、危なくて乗りたい以前の問題だった


 まったくもって雪国のことを知らない篠田に、父もハラハラしている。


『篠田君、ポルシェ、四月に入っても乗るのはやめておきな。君、絶対に事故るよ』

『えー! 俺、雪が溶けてなくなったら、ポルシェで函館とか走るの楽しみにしていたんすよっ』

『それやりたいなら、北国初心者は六月まで我慢かな。四月はまだ雪の日もあるし、峠は五月でも雪が残っているし、降るところは降るから』

『六月!? 待てない!!』


 そんなやり取りを葉子も店で眺めていた。


 いちいち彼が騒々しい。リアクションが大きくて、声が大きくて、お喋り。彼が来て数ヶ月経つが、ほんとうに毎日そのテンションを保っていて、逆に凄いなと葉子は目を瞠っている。


 でも、父は楽しそうにしている。いつの間にか笑わせてくれているから、ふっと秀星のことを忘れているときがある――と、その時は寂しそうに呟いていた。


 だから葉子も黙っている。父と篠田給仕長も呼吸が合ってきて、いいパートナーシップができあがってきてる。秀星とは違うやり甲斐を、父はまた取り戻している。新しい男との仕事に、父はもう向き合っているのだ。


 その彼があのポルシェを売ってしまったということらしい。


「ポルシェ……、変えちゃったんですね」

「んー、こっちではまったくもって役立たずだもんでね。四輪駆動のきっちり走れる車にしたんだよ。ま、もうポルシェに乗って気取る歳でもないしね」


 神戸で気取って乗り回していたんだなと、葉子は思った。

 お洒落だし、顔も断然男前だし、女の子の扱いも上手い。落ち着きある大人の男性というイメージだった秀星とは真逆すぎるのだ。

 ほんっとうに、その年齢であっても、いちいち軽くて『チャラい』。


「よかったですね。これで函館までひとりで行けますもんね」

「ほんっとね。いままであちこち買い物に行くときに、車を出してくれた葉子ちゃんには感謝しているよ。ありがとね。そのお礼も伝えたくて、車社会復帰のご報告にきたのであります」

「……そうですか。お疲れ様です」


 仕事をしている時と同じ反応しかできない。

 なのに、彼は『報告は終わった。さて、いまから』待ってましたとばかりに、またとびきり元気な笑顔をきらきらっと浮かべる。おじさんのくせに、大人のくせに、なにその無邪気な笑顔――。彼のくるくると変わる表情に、葉子はいつも戸惑うばかり。


「でも売るまえに、葉子ちゃんを乗せたかったな~。おじさん、最後のかっこよい運転、見せたかったー。だけど! 今度はこの車に乗せてあげようと思って! 今日も函館までレッスンなんだろ。乗って乗って」

「けっこうです。JRで行きますから」

「俺もさ。函館に用事があるんだよ。葉子ちゃんのレッスンのようにさ、休暇に通いたいジムとかの見学に行くんだ」


 そのついでだから乗っていけと言われる。


「いえ、ひとりで音楽を聴きながら行きたいので」

「なに聴いてるの!? おじさんにも教えて!」

「いやです。ひとりがいいんです」

「そうなんだ……。ごめんね。もしよければと思ってさ。じゃあ、気をつけて行っておいで」


 そんなときになって、懐が広い大人の優しい笑みを見せる。


 彼が新しい車の運転席ドアをあけ、足をかけてシートへと乗り込もうとしている。


「……でも。せっかく来てくださったので……、今日は乗せてもらおうかな……」


 乗り込もうとステップに掛けていた長い足を地面に戻し、彼が驚いた顔で葉子を見ている。

 そしてすぐさま助手席へと向かってドアを開いた。


「ぜひぜひ! 乗って乗って。帰りも迎えに行くから一緒に帰ろ!」


 それにこの人、函館のことまだわからないだろうから、結局葉子が案内することになるのだろう。




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