7.僕は帰らない

 殴りつける激しい雪の中、秀星はいつものポイントで登山用のビバークテント内で時間を凌ぐが、そのテントも吹き飛ばされそうだった。予報で知らされている夜明けまであと五十分。その間、秀星はずっと考えている。


 エゴだな。ほんとうにエゴだ。


 ハコにこれはエゴだと語ったことを思い返している。


 僕は、エゴに取り憑かれた引き戻せない男になっている。


 もう家族がいないからこそ、この中毒に身を投じることが出来る。

 かろうじて止めてくれていたのは、『仕事』と、兄貴のように慕ってくれた『十和田シェフ』と、たくさん気遣ってくれたシェフの妻『深雪さん』。穏やかに生きていきたいと振り返らせてくれた『ハコ』。あ、彼も……、ずっと僕のことを、秀星を忘れずに思い返してくれた『篠田』だ。


 彼等が家族同様の『大切な人』になっていた。

 だから、この行為を辞める決意をした。

 なのにここにいる。


 もう遅いのだと気がついた。

 やっぱり僕は取り憑かれている。

 秀星は自覚してしまう。


 ガクガクと震えながら、もう一度思い返す。いまならここで引き返して、アパートで暖かい風呂に入れば、優しい日々が待っていて、生きていける。


 夜明けまであと三十分――。

 秀星は震えながら、テントから出て、三脚を置きカメラをセットする。

 目の前は囂々と吹き荒れる雪で、いつもの湖面も駒ヶ岳も見えないが、そこに佇みファインダーを覗いた。


「写真家失格だな。バカな行為だと人は笑うだろう」


 シャッターを押す。真っ白な吹雪の写真なんて、なにが面白いんだ。


「ごめん、ハコ。僕は……やっぱり、そこには帰れない」


 夜明けまで二十分――。

 ただ静かに降り積もる雪の夜明けにだって、同じ写真は撮れるだろう。

 そう思ったこともある。でも違うのだ。この激しい吹き荒れる吹雪が開けた、あの瞬間がほしい。もし自分が写真家を名乗っていいのなら、あの瞬間を残したいのだ。


 あの瞬間に立ち合った時から、秀星の行く末は決まっていた。

 でも。ありがとう。少しでも優しく生きていきたいと思える日々があったことを、しあわせに思う。

 最後にいろいろな形の『愛』に出会えたと思う。

 たったひとり、写真だけが生きている瞬間を感じるだけの人生だった。

 なのに、みっつの『愛』が秀星に寄り添っていた。


 それでもなお、男はその『愛』をかなぐり捨て、エゴに向かう。


 夜明けまで十分――。

 もう身体がよくわからないほどに冷え切っていた。

 全身が震えているのも、寒いという感覚もわからなくなっている。


 夜明けまで……。五分、シャッターを押し続ける。

 夜明けまで……、これで駄目だったら、この身体をなんとか引きずってカメラを捨てて帰ろう。


 夜明けだ――。

 急に風が緩む、雪が静かに降り始める。


 僕が望んだ、あの夜明けだ。


 また出会えた。これ以上のものはない。

 愛以上の僕のエゴがそこにある。見ずに終わると思ったのにそこにある。


 凍えた指先で、シャッターを押す。


 エゴが引き寄せた美しい色に包まれ、秀星はその色をずっと瞳に映して、もう一度シャッターを押す。


 至福。

 もうここから動きたくない。この色が薄れるまでずっとシャッターを押す。押す、押す、色が消えるまで押す、押す……。日が昇るまでずっと押す。


 欲しいものはもうない。


 ハコのあの唄が聞こえる。


 ハコ、唄うんだ。やめたらいけない。

 君の、しあわせを、願っているよ。




僕はこの写真を撮りに大沼に来たんだけど……


心の中の写真は、

十和田シェフ、妻の深雪さん、『フレンチ十和田』の風景

神戸で毎日一緒にはしゃいだ彼、

そして、水辺で唄う君だ。



20○○年 3月10日 6時30分ごろ

桐生秀星 北海道 七飯町大沼にて死去



名もなき朝の写真 《北星秀、最後の写真》(終)




⇒次回、朝の唄最終章 名もなき朝の私 《さよなら先生》開始

葉子と篠田の話に戻ります

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