3.神戸からの弔問


 秀星の遺骨をとりあえず置いている和室へと、母が矢嶋社長を案内する。

 葉子も仕事前だったので、ギャルソン制服のまま、母と対面をした。


 高級そうなスーツを着こなす、いかにも上流社会の人間という風格を醸し出しているおじ様だった。でも目が父や秀星のように鋭い、仕事をする男の目だと葉子は畏れを抱いた。


 母が通した和室には簡易的に準備した小さな仏壇がある。白くて真新しい骨袋を目にした矢嶋社長の目元が一気に崩れ、涙ぐんだのを葉子は見てしまう。


 その時、葉子は無性に秀星に会いたくなってしまった。

 こんな経営者が遠くから駆けつけるほどの男だったことが、矢嶋社長を通して伝わってきたからだ。初対面の人間から、秀星が透けて見えてしまい会いたくなる。

 矢嶋社長は『矢嶋シャンテ』というフレンチレストランを中心に、神戸でいくつもの飲食店を経営するやり手社長だと父から聞かされている。

 それほどのビジネスマンが、秀星の死を知って、遠く北海道まで駆けつけ、なおかつ涙を流してくれているのだ。葉子にはわかる。秀星はこの社長の心にも残るほどの『人に忘れさせない男』だったことが。

 しかもこの社長は秀星が写真を続けるために、大沼へと手放してくれた潔さもあったということだ。

 秀星に会いたくて、最後の別れを言いたくて来てくれる経営者。父も母も秀星が大好きだった。葉子だって……。また葉子の心に息苦しくなる胸痛が起こる。会いたい、会いたい。少し前まであの人は『ハコちゃん』と優しく笑いかけてくれていたのに! ほんとちょっと前、ほんとうについ最近まで!!


「矢嶋様、いらっしゃいませ。私がフレンチ十和田のオーナーで、十和田政則です」


 和室の入り口に、仕事着姿の父が現れる。

 秀星の遺影をひたすら見つめていた黙って矢嶋社長が、正座をしていた膝を父へと向けた。

 矢嶋社長は父にも、訃報を届けてくれたことに対してのお礼を述べる。

 父と母、そして葉子も、仏壇を前に、矢嶋社長と向き合うよう正座にて畳の上に並んだ。


「撮影の機材がそばにある状態で亡くなっていたそうですね。最期まで写真の男でしたか」


 また秀星の遺影を見つめ、矢嶋社長の目に涙が光った。


「一流のサービスマンでした。こちら神戸でベテランのメートル・ドテルがリタイア退職をした後、中堅だけが残ったため、ホールサービスの統率が崩れそうになったことがありました。彼が来てくれたおかげでギャルソンたちの意識が一新され、サービスの質が保たれました。それを見込んで引き抜いたほどのギャルソンです。冷徹な男でしたが、それも仕事だからこそ。そう定めたら、人になんと思われようとぶれない。ですが、それはホールでのことで、仕事でなければ、シンプルに生きているだけの穏やかな男でした。皆が桐生を頼り信頼していたものです。神戸から出て行く時も、手放したくなく、休暇を長く与えるなどの特別待遇を申し出ましたが、北海道に住むのが目的だからと一蹴されました。それだけ桐生は、ここ『大沼』を望んでいたのです。ここで、思いを遂げた――と思いたいです」


 一緒だ。神戸でも一緒だった。秀星はそこでも、大沼と変わらぬ男であって、こんな重厚な雰囲気を放つ経営者の心にも深く刻まれるほどの男だった。

 それは父も母もわかっているからか、揃って正座の姿のまま矢嶋社長に向き合い、うつむいていた。


「最期の写真を見せていただけますか」


 そんなことを申し出る人は初めてだったので、父が戸惑っている。


 秀星が挑んだ撮影から、まだ一ヶ月も経っていない。写真の現像をどうすればいいかなど十和田の者にはわからない。

 だが葉子は背筋を伸ばして、立ち上がる。


「お待ちくださいませ」


 和室の片隅に秀星の遺品をひとまずまとめている。

 そこにいくつものカメラも置いてあり、埃が被らないようにと母が布をかけて保管していた。

 その布をめくり、葉子は一眼レフのカメラを持ち出す。


 父と母は操作がわからないようだったが、葉子は調べたので、カメラのディスプレイを表示させることができる。操作をして、その写真を探し当てる。矢嶋社長へと差し出した。


「吹雪開け、夜明けの写真でした」


 濃紺の空、紫苑の山裾、枝先の新雪のやわらかさ。北極星が残る夜明け。うっすらと見える山陰は駒ヶ岳。紺と紫と橙がまじりあう夜明けのグラデーション。

 だが葉子はその写真から禍々しさを感じ取っていた。美しいのだが、それを越えた恐ろしさも感じるのだ。


 それは矢嶋社長もおなじなのか……。『美しい』とは言わず、眉間にしわを寄せ、なんとも言えない難しい顔をしていた。


「まさか、これのために……」


 そうため息を吐くと、葉子にカメラを返してくれる。


「残念です……非常に、」


 社長たる男がそこで声を詰まらせ、かんばせを背けた。


「彼が退職を申し出た日に、私は『写真よりもギャルソンのほうが天職なのでは』と引き留めようとしたものです。写真は愛する趣味、その趣味を支える仕事を失うわけにはいかないだろう、その仕事こそ才能があった天職なのではと――。ですが桐生の返答は『天職ではなく、僕の欲望のための仕事です』と言い切っていました。そこまで言われたら引き留められません。そのまま見送りました」


 サービスマンとして一流の男であったのに、彼の誇りはそこにはなく『写真を撮る』ところにあった。その欲望を支えるための仕事だったと、秀星は言い切っていたという。


『写真は僕のエゴだよ。ハコちゃん』


 写真のことをそう言っていた。

 若い葉子には、大人の彼の心情を理解することはできなかったが、『欲望』と聞いてハッとさせられた。


この最期の写真は、秀星さんが言っていたエゴだった?

これは秀星さんが最期に望んだ欲望?

『まだ大沼には満足していない』。これが彼の満足だったの? 死んでもいいほど欲しいものってこれだったの?


 こんなことを望む男の心情なんて、やっぱり葉子にはわからない!

 こんなことが秀星さんのいちばんだったの?

 私とお父さんと一緒に仕事をすることは? 私とお母さんと買い物に行くことは? 父と母の結婚記念日だって、私も秀星さんも両親に誘われて一緒に函館までお寿司を食べに行ったじゃない。四人家族みたいに一緒に行ったじゃない。私たちと一緒にいる時間はいちばんじゃなかったの?


 考えないようにしていた思いが吹き上がってきた。大人達が向き合っている席から葉子は立ち上がり、和室を飛び出していた。


「葉子!」


 父の声が背に届いたが、葉子は駆け出し自宅からも飛び出していた。


 白樺に囲まれている十和田の家を離れ、レストランの建物の横にある小路へと向かい木立の向こうにある水辺へ向かう。空は茜に染まって晴れているのに、小雪がちらついている。北国ではよくある天候の中、葉子は水辺まで辿り着くと、そこで涙と蕩々と流した。


 まだ雪が残る湖畔は冷え込んでいて、氷が溶けた湖面も寒々しく波打っている。

 薄暗い夕暮れには、影をもつ雲が早く流れている。まだ春の柔らかい気配などどこにもない、意地悪な冷たさを残している風が吹いているだけ。


「エゴ? あれが秀星さんのエゴだったというの? エゴってなに? 最期のわがままだったということ? そんなことのために、私を置いていったの!?」


 嗚咽を漏らしながら葉子は泣いた。せっかくメイクをした顔が涙で汚れていくのがわかる。拭った白シャツの袖にファンデーションがついてしまった。


「三月の北海道はまだ冬とおなじですね」


 そんな声が聞こえ振りかえると、黒いダウンコートを羽織った矢嶋社長がそこにいた。


「これからお仕事ですよ。お父様は厨房に行かれました。私が呼びに行きますと、追いかけてきました。そんな泣いた顔ではホールには立てませんよ。お客様に悟られてもいけません。今日は欠勤にしますか?」


 その声色にも、表情にも、葉子は覚えがある。

 仕事をする、お客様を第一とするビジネスマンの確固たる空気を纏う男。そこに秀星が重なった。

 葉子は涙をもう一度拭う。


「まだディナー開店まで時間があります。メイクを直し、シャツを着替えてきます」

「そうですね。秀星なら、そう言うと思います」


 桐生ではなく『秀星』と呼ぶ矢嶋社長が、そこで哀しそうに目を伏せた。

 秀星に親しんでいた経営者という彼の姿にも、白樺木立と湖面から乾いた風が吹き付ける。

 葉子は気を取り直して、自宅へともう一度帰り、支度をやり直す。

 業務につくと、矢嶋社長がタクシーで帰る姿が見えた。



 その夜のこと。レストランでの賄い夕食を終えたあと、厨房でそのまま父に言われる。


「明日、矢嶋様にフルコースを振る舞う。葉子、サービスはおまえに任せる」


 厨房の料理人たちも了承してくれ、葉子も強く頷く。


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