10.Good-bye My Loneliness

 今朝も発声練習をしている水辺から、もうすこし向こうの湖畔では、秀星が撮影をしているはず。


 発声練習を終え、東屋に置いているランニングポーチから水筒を出して喉を潤していると、秀星がいつものように現れる。

 緑に囲まれた散策道から、白いポロシャツ姿で三脚とカメラを担いでやってくる。


「おはよう、ハコちゃん。もうすぐ睡蓮が咲きそうだね」

「おはよう、秀星さん」


 どちらからともなく、一緒に東屋に入る。

 屋根の下には木のベンチが向き合って設計になっている。だが、葉子も秀星も位置が決まっていて、おなじベンチに並んで座るようになっていた。

 角にランニングポーチを置いているそこに葉子が座り、秀星は真ん中ほどに座って、反対側の角に彼のカメラや機材を置く。この位置で、毎朝ふたりで、ひと息ついている。


「今日の写真は、どんなかな~」

「うん。今日はこれね」


 いつものカメラを差し出してくれるので、葉子も遠慮なく手に取る。

 毎日毎日、おなじ場所で撮影をしている。もちろん休暇は散策道を歩いて他の被写体も撮影している。でも朝はお馴染みのポイントでの撮影を変えようとしていない。ほんとうに彼の日課だ。

 その習慣が葉子にはよくわからない。自分もつられておなじ場所で発声練習をしているくせに。秀星が毎日毎日、まるで機械の動作のように繰り返している意味がわからない。


 そう思うのは、こんな日の彼の写真を見た時だ。

 よくある写真と彼が言うことが、最近、葉子にもわかるようになってきた。


 ほんとうに変哲もないのだ。大沼に来て二年目の夏を迎えるから? 葉子も見慣れてしまった風景だから? 爽やかな夏空を邪魔するように、もこもことたくさんの白い雲が青空を隠し、湖は少し波立って、陽射しの反射が余計なものに見える。さらに、たくさんの雲に頂を覆われて半分しか見えない駒ヶ岳。

 たまに『わ、今日は綺麗な色』、『今日はキリッとしていて鮮やか』と思えるものが混じるが、だいたいは、こうした変哲もない写真という仕上がりが多い。


「今日はいい天気だけど、雲が邪魔だったね~。駒ヶ岳も隠れちゃったよ」


 葉子はなにも感じなかったようにして、秀星へとカメラを返す。

 これすらも、二人にとってはもう変哲もないやりとりになっていた。


 こうして名もない二人が、毎朝おなじ時間に、意味のない発声をして、意味のない撮影をしている。東屋で落ち合って、朝の会話をする。

 不満なんかじゃない。むしろ、葉子はジョギングを楽しみにして発声練習をして、秀星がカメラを持って東屋まで来てくれるのを待っている。いつのまにかだ。


 ただ、唄い手として、写真家として、ほんとうに名もないことをしている。

 まるで……。向こうに行けない者同士、慰め合ってるように? なのに、心地がよくて、持っていたものを手放してしまいそうな気持ちになることもある。もういいよ、手放しちゃえ。そう思える自分がいて、でも、まだ放せないと握りしめている。


「次の休みは、小沼に咲く黄色の睡蓮を、夕方撮りに行こうかな。夕方だと花が閉じちゃうんだけどね。閉じちゃう前の夕暮れってかんじで撮りたいなあ」

「夕方バージョンのモネの池っぽく撮れるかもしれないね」

「そう! それを狙ってるんだ。ハコちゃんも来る? 終わったらラーメンを食べに行こうよ」

「ご馳走してくれる?」

「もちろん」

「じゃあ、行こうかな~。って、夕の睡蓮より、ラーメン目当てになっちゃった」

「僕もラーメンでハコちゃんを釣っちゃった」


 そんな会話で、一緒に笑うことだって当たり前。

 上司と部下以上の関係になっていた。だからとて男と女でもない。歳が離れすぎている。でも一緒にいることはもう自然で日常。


「来週は、お父さんとお母さんの結婚記念日。函館まで、回らないいいお寿司を食べに行くでしょう。お母さんとお洒落をするお洋服、買ってきちゃったんだ」

「いいね、お洒落ハコちゃんも楽しみだね。僕もおでかけ着を準備しておいたよ。でも、ほんとうにいいのかな。だって、僕はただの従業員なのに」

「そんなことないよ。秀星さんがいないと、あつあつ両親のそばで真顔の私がひとりぼっちになっちゃうもん。私の話し相手になってよ」

「あはは。それもそうかも。僕も楽しみにしているよ」


 レストラン経営が軌道に乗ってきたからなのか、父と母が数年ぶりに『結婚記念日だからご馳走を食べに行く』ことにしたのだ。

 ふたりきりで行けばいいのに、両親は娘の葉子も連れて行くことにして、さらには秀星も一緒にと誘ったのだ。

 最初は『そこは家族水入らずで、どうぞ』と断っていた秀星だったが、父の目論見もくろみは他にもあって、『俺と深雪はその夜は函館で一泊するんだ。食事が終わった後、娘を大沼まで連れて帰ってくれないか』という、『娘のナイト』になって欲しいみたいなお願いもしたのだ。秀星も『そういうことなら』と了承してくれた。


 成人した娘なんて交通機関が動いていればどうとでも帰宅できるのだから、おそらく家族ではない秀星に気兼ねなく来てもらうための、父の口実だと葉子は思っている。ただ大沼は夜間は人が少ない場所でもあるので、秀星が一緒なら心強いのも本心ではあった。


「秀星さんのお出かけ着も楽しみ」

「たいしたことないよ。僕はお洒落にはあまり興味がないからね」


 でも時計も靴も上等なものを選んでいることを、葉子は知っている。

 葉子に革靴を買ってくれたように、シンプルでも上質で品格ある『おでかけ着』もきちんと持っているに違いないと確信していた。


 父が親しくしている職場のおじさん、お兄さん? その人がまるで家族のように毎日一家と一緒にいるので、気兼ねがなくなっているのだ。


 秀星の仕事場でのシビアさは健在だが、プライベートでは兄貴のような顔をして親しくしてくれている。葉子のことを女の子として接してくれて、こんなふうに『年上の僕に任せなさい』とご馳走してくれたりして、『女の子ひとり、夜道を歩くのは危ない。僕におまかせください』と本気で言ってくれたり、そうして甘やかしてくれることも多い。


「じゃあさ、お寿司を食べた帰りは、ちょっといい珈琲専門店に行ってみようか。これも僕のおごりね」

「楽しみ! 秀星さんと二次会だね」


 朝は必ず会うし、休暇も彼の撮影に付き合うこともあって、プライベートで一緒にでかけることはもう当たり前。そんなときは秀星がなんでもご馳走してくれた。


 この日、葉子はふと秀星に尋ねていた。


「秀星さんは、なんの曲が好きなの」


 彼の表情が急に固まったので、葉子は我に返る。

 なんで突然そんなことを尋ねるのか。なにか意図があるのかと探られている目だった。

 葉子自身も不思議な感覚に陥っている。だって、なんで質問したのかって。『お礼に唄ってあげたいな』と自然に思ったからだ。ずっとずっと人前で唄うことを避けてきたのにだった。


「ZARDの『Good-bye My Loneliness』」


 秀星を見上げると、葉子が好きな静かで優しい笑みを見せてくれている。


「……そう、なんだ」


 葉子がいま秀星から聞いた楽曲は、アーティスト名は知っていても、タイトルは初めて耳にしたものだった。

 これ、いますぐ唄えない。帰宅してから調べて、お母さんがCDを持っているか聞いてみよう。そんなことが先に頭の中に駆け巡ってしまう返答だったのだ。


ZARDザード』は両親世代が若いとき、90年代に流行った人気アーティスト。女性ボーカルを中心としたユニット名で、ボーカルであった坂井泉水さかいいずみのシンプルで透明感溢れるビジュアルと歌声は長く支持されている。

 シンガーになろうとするならば、ZARDの楽曲に一度は触れる。オーディションで唄う楽曲として検討するほど有名曲が多い。未だに耳にするのは『負けないで』が多いことだろう。




 十和田の家に帰宅した葉子は、二階の自室へと一直線に駆け込むと、インターネットですぐに調べる。


「ZARDのデビュー曲、なんだ」


 その後すぐに母の深雪に『持っているか』と尋ねると、さすがリアルタイムヒット世代、母が経理の仕事をしている書斎から、わんさかとZARDのCDを持ってきてくれた。


 国民的ソングともなった『負けないで』。スポーツ飲料のCMソングでヒットした『揺れる想い』。ミリオンヒットを叩き出した楽曲の影に隠れてしまったのか、葉子は初めて『デビュー曲』を聴くことになる。


 その楽曲を聴いて葉子の心に、秀星が現れる。

 なんだろう。ちょっとだけ、涙が滲んだ。

 秀星さん、こんな切ない曲が好きなんだ――と。

 どうして好きになったのかな。どうしてこれが最初に好きと言える曲となったのかな。こんな恋をしてきたのかな。恋人だった彼女さんとの思い出の曲なのかな。

 そういえば。秀星さんって、いつもひとりだよね。


 独身で恋人もいない。親しい後輩さんとも結局は別れて働くことになって、ご両親はもう他界しているようだし、兄弟も親類の影もない。いま現在たまたま、私たち『十和田家』と一緒にいるだけ。こうなるまで秀星が選んできた人生のあゆみ。どうして独りを選んできたの? 


 歌詞を唱え、覚える。音を拾いメロディーを耳と身体で覚える。



 睡蓮が咲き始めた大沼の朝。葉子はいま向かっている沼の水辺で、いつもより念入りに発声練習をして待っている。


「ハコちゃん、おはよう。ついに睡蓮が咲いたね」


 いつものようにカメラを肩にかけて現れた秀星。ジョギングウェア姿で葉子は水辺に立ったまま、彼を迎える。


「あのね、『Good-bye My Loneliness』を覚えてきたの。唄うね」


 ほんわりとしたお兄さんの微笑みだった秀星の顔が一気に強ばった。仕事の時のような顔になっている。


「どうしたの、ハコちゃん」


 いままで『唄って』と頼んでも、恥ずかしがって唄ってくれなかったじゃないか。

 彼がそう言いたいのだとわかっている。でも秀星は、そこが葉子にとってデリケートな部分になっているから直接的に触れてこない。そんな葉子を、そっとしてくれたことには感謝している。


「この前、曲名を教えてもらったときに、すぐに唄えたらよかったんだけど。この曲を知らなかったから、お母さんのCDを借りて、聴いて覚えてきたの」

「し、知らなかった? お母さんから借りて? ええ、そうなんだ。ハコちゃんぐらいの子は知らないんだ。嘘でしょ、もうそんな世代……。え、ほんとうに唄ってくれるの? こ、ここで?」

「秀星さんのために、唄うね」


 葉子は緑に囲まれている東屋の水辺に立つ。肩幅に足をひらいて、お腹に力を入れて、息を吸って。夏の深い天色あまいろに向かって発声する。今日はメロディーを奏でる。


 いつか人は別れてしまうから。せめていま一緒にいてほしい。

 そんなふうな歌詞――。そうして、あなたは別れを繰り返して大沼に来たの?

 いまも、私と秀星さんは、一時のことなの?


 そんな想いを声に音に乗せた。


 唄い終わる時には、秀星がすぐ後ろに立ち尽くしていた。


「ハコちゃん……」


 そこから言葉が続かない彼がそこにいる。上気したように頬がほんのり染まっているように思えた。


「ありがとう。忘れないよ。ハコちゃんの唄」


 目を閉じて、彼が嬉しそうに微笑んでくれたあの日を、葉子は忘れないだろう。

 一人のために唄う。それも悪くない。葉子も久しぶりに唄って心が満たされた日でもあった。





❄次回より⇒2章 名もなき朝の唄 《ハコの動画配信》 開始

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