9.これは僕のエゴ


 年が明け、雪深い季節になると、葉子は『ワイン』について教わるようになっていく。

 お客様用に準備していたグラスワイン用のボトルにワインが残ると、それを『勉強』と称して飲ませてくれるようになった。



「ハコちゃん、ちょっとおいで」


 ディナーを終えて、深夜手前でやっと仕事が終わる。


 父が明日の仕込みの点検をしているところを目を盗むようにして、秀星に手招きをされる。

 連れて行かれるところは、地下にある小さなワインカーブだった。


「飲んでごらん。貴腐きふブドウのワイン。2004年、小樽産だ」


 とろりとしているシロップのような白ワインを、小ぶりのアペリティフグラスに注いで手渡される。

 そこで一口含み、葉子はテイスティングをする。


「甘い!」

「それが貴腐ブドウの特徴だ。でも、このボトルには……」


 彼が見せてくれたボトルには『辛口』とある。


「もう一度、口に含んでよく感じてごらん」


 彼に言われ、葉子も素直にもう一度口に含む。


「甘い梅酒のよう、でも、甘ったるくない、スッキリした……うん、すぐに甘みが消えキレがあります」

「そう。すぐに鼻孔にくる香りの高さと甘み、でもそれがすぐに去るスッキリした切れ味が特徴。辛口だからだね。その後味をしっかり覚えておいて」


 少しずつワインの味も教えてくれるようになった。

 そのカーブには、立ち飲み用の小さなテーブルもあって、そこにちょっとしたおつまみのように、本日残った料理なども小皿で持ち込まれたりしていた。

 焼いた肉、ハム、果物、チーズ、残りのワインをもらって、食材との組み合わせも体験させてくれた。

 食材の産地、生産者の顔に想いまで、彼は仕入れてきて語ってくれる。

 本当はこの仕事が好きなんじゃないかと葉子は思い始めていた。


 この日も、フロマージュで余った塩気が強いチーズとまろやかな味わいのチーズの二種で、貴腐ワインとのマリアージュを試してみる。甘いデザートワインには塩気があるチーズが合うことが良くわかる試飲になった。

 チーズも道産品が多く、父と給仕長の彼が休日に生産者を訪ねて選び抜いた物が多い。

 葉子も徐々に、ワインはどこのワイナリー、チーズはどこの牧場のものかと、フレンチ十和田が選んだ素材を舌でも覚えていく。


 父と秀星は、二人三脚でメニューと素材、そしてサービスを構築していくのだ。

 このレストランは、父と給仕長の彼が作り上げている。彼はもうこのレストランにも、十和田家にも不可欠な人間。


「秀星さん、ほんとうはフレンチの世界も大好きですよね」


 どんなに『写真のため、生きていくための仕事』だったとしても、写真同様にここまで入れ込めるのは、この仕事も好きでなければ出来ないと葉子は感じていたから聞いてみた。


 ワインカーブは照明を弱くしている薄明るい地下室、琥珀色のデザートワインのグラスを揺らし、彼が鼻先で香りを確かめている。その香りを気に入っているのか、記憶にとどめているのか、それとも葉子の質問に思いを馳せているのか、しばらく目を閉じ、僅かな笑みを浮かべている。

 残っていたワインを最後にひと呑み、グラスを呷ったその後に、彼が答えてくれる。


「全部、僕が撮る写真に繋がることだからね。表面だけ見えても写真にならないよ」


 フレンチのサービスの仕事について聞いたつもりだったのに。そんな問いでも、秀星は『写真愛好家』としての目線になってしまうんだと知る。



 葉子はだんだんとわからなくなってくる。

 『○○家』てなに? プロってなに?

 自分はプロじゃないけれど、写真家になりたいから頑張っているという人が、この仕事も写真家のうちのひとつだからと、部下まで懸命に育ててくれるのだ。僕が育てる以上は手は抜かないと、世間知らずで何も出来ない小娘に、丁寧に生きる術を与えてくれる。それも写真を支えるためのひとつ? でもきっと彼にとっては、仕事も写真とおなじぐらいに、徹底してやりこなさないと気が済まない存在なのだろう。彼の性分だから? それともやっぱり芸術の下地は、日常の生き方も影響してくるのだろうか?


 目の前で生き様を見せつける『秀星』という大人を眺め、葉子も悶々と自問する日々。そのうちに『一理ある』と、葉子も思うようになった。

 唄だっておなじじゃないか? 世の中にある様々なものに思いを馳せること、まず自分が生きることに一生懸命になること。そこから歌詞が声が表現が生きてくるのではないか?


 でも。あの人、プロじゃない。でも。言っていることわかる、なんでだろう?


 もう二十代も後半が目の前になって焦っているのに、諦めきれない辛い日々だと思っていた。しかし葉子にも心境の変化が起き始める。

 叶わぬ夢をへこんでも諦めず、夢を見続けるために、収入と生活を支える仕事も手を抜かない男。そんな秀星と一緒に過ごして一年ほど、葉子も活動を開始する。都市部に通うボイスレッスンと、雪解けを迎えた後、ジョギングと発声練習を始めたのだ。

 無駄じゃない。いや、やりたいんだ。いや、捨てられないからやるんだ。やりたいからやるんだ。


 またオーディションを受けるには、ずっとさぼっていた発声から整えていかねばらならない。

 万全な体勢だと自信を取り戻したら、葉子もダメ元でもオーディションを受けようという気持ちになっていた。



 葉子が大沼に来て、給仕の仕事を始めてから一年が経った。

 大沼の湖面の氷が溶け、白鳥が北へと飛び立ち、雪が溶けた散策道には若草色の蕗の薹がちょこちょこと顔を出し始める。


 ジョギング用の衣服を揃え、音楽プレイヤーを携え、音楽を聴きながら葉子は湖畔を走り出す。


 早朝、森林道を抜けて湖畔の水辺を走っていると、秀星の撮影ポイントにさしかかる。


「ハコちゃん! おはよう!」


 撮影用の三脚にカメラをセットして、いつもおなじ場所、ほぼおなじ時間に撮影をしている。

 雨の日も雪の日も、よほどに悪天候でなければそこにいる。

 休暇も森林散策道のカットをいくつも撮影している。彼の日課でルーティンだった。


 それを見習った葉子のルーティンがジョギングと発声練習だった。

 彼の撮影ポイントから少し離れた散策道奥にある湖畔東屋のあたりで、ひっそりとやっている。

 彼とタピオカミルクティーを一緒に飲んだあの水辺だった。『アー、アアアアア~』と、人目がないこの場所で葉子は久しぶりに声を張り上げる。

 森林の木々に自分の声が跳ね返ってくるような感覚を得ると、葉子も気分が良くなって、声が出せることで自信を取り戻していく。


 撮影を終えた彼がカメラを担いで、葉子ところまで歩いてやってくることもしばしば。


「いい声が出ていたね。あっちまで聞こえてきたよ。なにか唄ってよ」

「やだ。恥ずかしいですよ……。あ、今日の写真、見せてください」


 彼が嬉しそうに表情を崩す瞬間だった。

 東屋で彼がその日に撮影した写真データを一緒に眺める。

 朝日に染まる駒ヶ岳の茜の山肌に、薄紫に凪いでいる大沼と小沼、漂う小島の木々も霧をうっすらと纏っていて、しっとりと美しい春先の姿だった。


「今日も綺麗。私が大沼に戻って来て一年ですよ。毎日欠かさずカメラを持ってきて、持っていない日を見たことがないですもん」

「飽きないね。僕はね、この大沼の姿をぜんぶ見たいし、欲しいんだ」

「……満足したら、大沼での撮影はやめちゃうんですよね」


 父が『いつ満足して辞めるかわからない』とぼやいているように、葉子もそこは常に案じていることだった。それまで津々浦々撮影をしてきたカメラマンであって、仕事はそれを支えるだけのもの。新たな目標が出来たら、この人はカメラを担いでさっと軽やかに去って行く気がしてならない。


 彼も葉子の問いに、いつもの静かな笑みで黙っている。

 撮影した画像をディスプレイに映したまま、じっと口をつぐんでいる。

 その間がいつもより長い気がして、葉子の心も穏やかでなくざわついてくる。


「たぶんね、満足しないな。大沼に限っては、満足する日は来ない気もしている」


 やっと口を開いて出てきた答えだったが、葉子は意味がわからずに首を傾げる。


「そう、なんですか……。大沼以上に、また撮影したい土地はないんですか」

「うん。いまのところはね。満足していないね。だから、まだまだだね」

「あの、秀星さんにとって、大沼ってそんなに?」

「そんなにだよ。だから神戸の仕事を辞めて、ここに移住してきたんだから」


 わからない答えを探すように、葉子はいつの間にか、秀星の目を覗き込んでいた。

 いつも思う。この人はオジサンだろうに目の色は澄んでいる。濁っていない。毎日を毅然と生きている人だと葉子は感じている。でも、その奥にある色合いがいつも見えない。そこはまだ、葉子は若くて経験未熟だからなのだろうか。大人の男の本心など読み取れるはずもない。探ろうとしている葉子が途方に暮れてしまう、そんな印象的な目の人なのだ。


 彼も探られているとわかっているだろうに、葉子をきちんと見つめ返してくれる。答えを読み取られていないと悟ったからなのか、ほんのりとした微笑を見せる。ハコちゃんはまだまだだねと、勝ち誇っているようにも見えた。


「まだいるよ。ここに。僕は、フレンチ十和田も大好きだからね」


 そう聞いてホッとする葉子ではあるが、秀星が困ったようなため息を吐きながら、ふと伝えてきた。


「写真は僕のエゴだからね」

「エゴ?」

「そう、僕の人生最大のわがままってこと」

「わがまま……」


 わかるような気がしていた。大好きな唄を続けたくて東京まで行かせてもらった葉子、資金が尽きるまで夢を追わせてもらって実力が適わず帰郷する。だがまだ諦められずに、目標もなくただ好きでもない仕事を続けている。片や上司の秀星は、大好きな写真を続けたいために責任ある地位があるにもかかわらず、その職場を捨て、望む土地に移住してしまう。

 そういうことなのだろうか……? 写真をしたいから、撮りたいものがあるから、その欲望のままに動くことをエゴというのだろうか? 葉子にはしっくりこない大人の言葉だった。

 父よりは若く、親子ほど歳が離れてるともいえず、だからとてお兄さんとも言えないほど年上の男性。敬意はあれど、ほのかな恋心もなく、でも葉子にとってはどこか居心地のよい人だった。


 それは彼も一緒だったのかもしれない。

 葉子も東京で夢破れ、でも諦めていない。もがきながら日々を過ごして、でもなんとか脱落しないよう社会人としての最低限の行動を維持して生きていること。彼はなにもいわなかったけれど、若いときの自分と重ねているのかもしれない。


 湖畔の東屋でいつものひとときを過ごして、彼が先に徒歩で帰る。

 葉子はジョギングでレストランがある実家にもどる。


 ランチタイム前、営業開始。

 その時には、二人揃って黒い制服を着込み、背筋を伸ばす。


 湖畔でほのぼのと自然と戯れていたおじさんが、ビシッと凜々しく涼しげな佇まいとなり一流のメートル・ドテルに変身する。


 そんな彼の隣に並んでお客様のお出迎えの時間だと、玄関で姿勢を整える。

 ふと、桐生給仕長の顔を見上げる。葉子が好きな冷たい横顔。したたかに生きる男の顔を。

 いまの葉子ならわかる。冷たい顔をして視線をして、お客様はどうして笑顔でこの人に話しかけるのか。彼が見せる姿のなにもかもが、どんなことに対しても誠実で真摯であろうとするプライドを見つけてしまうからだ。彼が自分から見せるのではなく、彼に対した人が見つけてしまうのだ。葉子も見つけた。


 彼の隣にいること、一緒に仕事をすることを誇りに思える日々。


「ハコちゃん、仕事の顔をしてください」

 彼を見つめて嬉しそうにしている顔を知られてしまう。

「給仕長も、ハコちゃんって呼んだらダメじゃないですか」

「あ、十和田さん。仕事の顔をしてください」


 一瞬だけ、彼が表情を崩して笑った。

 でも、そのあとすぐに、二人揃ってきりっとした顔に戻す。

 葉子はそんな彼のそばにいるのが好きだった。

 彼に仕事を教えてもらい、一流の男と一緒にいることが『誇り』だ。


---☆


 そんな彼との毎日が当たり前になって季節が過ぎていく。

 ライブ会場でたくさんの人に注目されて、かっこよく唄いたい! でも、なかなかそこまで辿り着けない! どうしたらいいの!! 実家になんか帰りたくない、お父さんのレストランでなんか働きたくない! そんな想いを引きずって、東京からイヤイヤ大沼に帰ってきたのに。

 葉子はいま、水辺で発声練習をすることでしか自信を保てなくなっている。

 東京で踏ん張っていた焦っていた心が、実家に帰った時点でしぼんでいるのだ。

 唄は好きだ。唄っていると気持ちがいい。しあわせだ。

 でも。ただひたすら、誰のためでもなく、聴いてくれる人もいないのに『唄う』って意味がないような気がする。葉子はいま唄い手としてそこにいる。


 誰も必要としてくれなくて、聴いてくれる人もいなくて、でも唄いたくて、でも唄わせてもらえる場所がない。散々オーディションで落選して、戦場から脱落、都落ちしたシンガー。

 今年こそ。どこかひとつでもオーディションを受けなくちゃ。

 なのに応募する力が湧かない。



 大沼にまた夏が来る。湖面に睡蓮の花のつぼみが見え始めた。

 葉子が毎朝発声練習をしている東屋がある水辺の向こうにも、睡蓮の葉がゆらゆら揺れて、小さな花の色がつきはじめている。

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