8.天涯孤独の男

 北国の紅葉が早ければ、初雪も早い。あっという間に雪が降り積もり、大沼の湖は結氷けっぴょうし真っ白に染まる。駒ヶ岳も冠雪し、大沼国定公園も冬本番だった。

 十二月になると白鳥が飛来し、結氷しない橋のたもと『白鳥台セバット』と呼ばれる場所で、優雅にくつろぐ姿が見られるようになる。



 その頃になると葉子はすっかりホールでの接客に慣れ、秀星と一緒に給仕の仕事に励む日々を続けていた。


 ディナーを終え店が閉店。照明を落としたホールの外、暗闇を映す窓には小雪がちらちらと落ちているのが見えた。


 その日も皿拭きの作業を済ませてから葉子は実家へと向かう。

 従業員専用玄関へ向かう通路の途中に、あの小さな給仕長室がある。

 ドアが開いているので、挨拶をして帰ろうと葉子は覗く。デスクに座っている彼が、手元に開いている雑誌を眺めてため息をついていた。『お疲れ様』といつもなら声をかけていく葉子だが、その日はそっとして、黙って従業員専用玄関を出た。


 小雪が舞う中、傘をさして目の前にある実家へと向かった。


 秀星が見ていたのは、写真雑誌だった。

 秋に準備しているコンテストは応募を終えたと聞いてるが、その前、春に応募したコンテストの結果が出るのは、この時期だと葉子は教えてもらっていた。

 プライベートの気兼ねないお喋りで、秀星は葉子にはそんなことも話してくれるようになっていた。


 先ほどの秀星は給仕長の顔ではなかった。

 酷く寂しそうで、いつもの優しそうな穏やかさも影を潜め、がっくりと項垂れている。

 仕事も一流の男が自信を無くすとあんな姿になるのだと、見てはいけないものを見てしまったが如く、葉子の胸もきつく締め付けらる苦しさに見舞われる。


 そんな秀星さん、見たくなかったよ。

 どうして。なぜ。葉子の目に涙が浮かんでいた。

 仕事が出来る男でも、彼の生きる本質は『写真』。それがなかなか上手く行かないと嘆く男の顔も、眼差しも姿も、葉子にはとてもショックなものだった。

 葉子にもわかる。書類選考で一次通過して、期待に胸を膨らませて臨んだオーディションで落選するときの寂しさと空しさ。悔しくて哀しくて、情けなくて。それを三年間繰り返して、東京で踏ん張っていた日々。

 でも、あの人は、秀星さんはこんな思いを二十年も繰り返してきたのだ。二十年経っても、まだ繰り返される哀しみに暮れて、それでもカメラを持ち出して撮り続けている。『ほんとうに好き』だからだ。


 もう大沼を素材には撮らなくなるかもしれない?

 そうしたら、秀星さんはまたどこかのレストランへと転職してしまう?


 そんなことにも葉子は気がついた。


 

 父の『フレンチ十和田』は、白樺木立に囲まれた湖畔にある。

 その裏手、おなじく白樺木立のそばに、一軒家の実家がある。

 いまは降り積もった雪に包まれている。 

 翌朝も、葉子は実家の二階にある自室で目覚めて、母親が準備してくれる朝食があるダイニングへと階段を降りていく。

 一軒家の実家、その二階に葉子の個室を与えてもらっていた。

 着替える前に、両親と一緒に一階のダイニングで食事をする。


 もさっとしている父親の『政則』が、茶碗片手に雑穀米をかき込みながら話しかけてきた。


「葉子。しばらく秀星と写真のことは話題にするなよ」

「わかってる……」


 素直に返答した娘の様子に、父は逆に意外そうに見つめ箸を止めた。


「なんだ、結果を聞いたのか?」

「ううん。昨日、帰るときに給仕長室で雑誌をじっと眺めていて……。とても話しかけられるような様子じゃなかったから」

「そっか。ま、三日ぐらいで立ち直るさ。去年もあんなふうになってな。写真活動が本命だって俺もわかっちゃってさ。なのになあ、給仕が一流だもんな。ま、そのおかげで、カメラをいくつも持っていられるんだろうけどな」


 どうやら父にもあの姿を知られているようだった。

 今日は母も神妙な面持ちで、父の隣の席でため息をついている。


「いつもクールに淡々としている彼なのに、あんなに落ち込んでいる姿を見せられるとね、こっちも心配になっちゃう」

 

 十和田家のダイニングには、雪から反射した光が煌々と入ってくる。いつもの爽やかな朝のはずなのに、両親と葉子の間には、なんとも言えない重い空気が漂っている。

 いつもは頼りにしている男が弱る姿に、こちらもつられてしまっている。それほどに、夫妻と親子で案じているのだ。


「ああ、葉子にもうひとつ言っておくな」


 もう食べ終わろうとしている葉子が席を立つ前にと、呼び止められる。


「なに、お父さん」

「もうすぐ年末年始だ。うちのレストランも世間様とおなじ日程で休業にする。帰省の時期だが、秀星には実家に帰るかどうかなど、家族親族のことは聞かないように」

「ど、どうして?」

「あまり話そうとしてくれないんだ。親族となにかあったのかもしれないし、そうではないかもしれない。帰省するのか尋ねても『両親もいないから帰らない』とだけ。兄弟もいないみたいだから、ただ帰る場所がないだけかもしれない。だからって一人で年越しなんてさせたくないから、年末年始は秀星もうちで過ごしてもらうことにしている。葉子もそのつもりで」

「わかった」


 年末年始、家族が見えない秀星がひとりぼっちにはならないとわかって、葉子はほっとした。


 薄々感じていた。秀星から家族の話が出てこないのだ。

 レストランの手伝いを始めたころに、母の深雪みゆきから『秀星さんのご家族のことは、深く聞くのはやめておきなさい』と釘をさされていた。母親に言われたとおりに、葉子は自分から余計なことは質問しまいと注意を払ってきた。

 両親から釘を刺されていたとはいえ、ほんとうに秀星からは家族親族の話、育った土地の話がでてこなかった。誰と親しくしていて、大沼以外でどう生きてきたのかまったくわからない。秀星の交友関係で思いつくのは、神戸の後輩だけ。彼と和気藹々とメッセージのやり取りをしていることぐらい。

 だから葉子も、秀星の生い立ちについて触れるのが怖かったこともある。それをすることで、彼がいなくなったらという恐怖心を覚えるのだ。


 そう……。彼がいなくなったら嫌。

 父と母が彼を慕っているのも、もうわかっている。葉子もおなじだった。彼は十和田家と寄り添っていまは生きている。葉子にとっても、叔父だか兄だか、そんな頼りがいある大人の男性になっている。



 葉子は実家から制服に着替えて、職場となる父のレストランへと出勤している。

 この日も雪かきをして作った道を歩いてレストランに入る。


 給仕長室を覗くと、もう秀星がいた。

 いつものぱりっとした白シャツ姿、厨房から持ってきただろうカップを傾けて珈琲を窓辺で味わっている背中が見えた。


「おはようございます、給仕長」

「あ、おはよう。ハコちゃん。今年も積もったね。今日は真っ白で眩しいよ。仕事でなければ、白鳥台セバットまで撮影に行けるのになあ。惜しい。それほどいい天気だ」


 父は写真の話はするなと言ったが、彼から話題にしてきた。

 葉子が知っている『秀星さん』だった。やがて彼は、いつもの冷徹な桐生給仕長に戻るのだろう。


「私、白鳥台セバット、子供のころに見たことがあります。久しぶりなので撮影するとき、一緒に連れて行ってください」

「そうだね。では、次の休みにどうかな。またお昼ごはん、ご馳走するよ」


 彼は写真を諦めていない。やめない。また向かっていくんだという、大人だけが持つ強かな微笑みをみせてくれた。


 葉子が真剣に給仕に身を入れるようになったのも、彼が手を抜かない一流の仕事をするのに『写真家』にこだわっていたからだ。

 四十前、独身。まだ夢を諦めていない男が、愛しているカメラを担いで全国さすらいながら、夢を失わないために生きていくために仕事をしている。しかもその仕事を極めている。

 そんな人を目の前にして、言える? 夢があるから真剣に生きていく気力を、この仕事には使いたくないだなんて言ったら、夢にも生きていくことにも『負け宣言』をしていると思わされる人だったのだ。


 自称・写真家の彼は、仕事の傍ら毎日、愛する大沼公園の景色を撮影しては、誰も見ないSNSにアップしたり、受賞選考にかすりもしないコンテストに応募したりしているからなのだ。

 彼の生きる本質はその『毎日の撮影』であって、ギャルソンは夢を続けて支えるための生きていく方法でしかないのだ。

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