7.タピオカミルクティーが流行った時

「ふう、今日もピンと来るものが撮れなかったな。そろそろ帰るかな」


 そんな上司ではない秀星のため息を耳にしながらも、葉子は受け答えに困ってしまい、持ってきていた飲み物をレジ袋から出して誤魔化してみる。


 コンビニで買い込んで自宅の冷蔵庫に保管していた『タピオカミルクティー』。それをおもむろに飲み始めると、向かいにいる秀星がじっと目を見開いて見つめている。


「ん? なんでしょう?」

「それがかの有名な、タピオカミルクティー?」

「かの有名なって。そうですけれど。飲んだことないんですか」

「いやあ、おじさんだからさ。若い女の子に人気がありすぎて、試しに飲んでみるにしても買う時にちょっと気が引けて――」

「もうひとつありますよ。よろしければ」

「ええ!? いいの! だってハコちゃん大好きで二つ持ってきたんでしょ」

「いいですよ。飲み過ぎても太っちゃうんで、どうぞ」


 もうひとつ入れておいたタピオカミルクティーのカップをレジ袋から取り出し、向かいにいる秀星に差し出す。


「うわわ、うわわ、これが、これがタピオカミルクティー!!」

「そんな大袈裟な。コンビニにも普通に売っていますって」

「だって、こんなおじさんが買うのって、キモいって言われるんじゃないのかな!?」

「私は思わないですって。ここなら誰も見ていませんから、どうぞ」


 またまた『嬉しい!!』なんて無邪気な笑顔で浮かれた様子を見せるので、葉子はそのギャップに出会って笑わずにいられなかった。


「そっかー。これがタピオカミルクティーかあ。ストロー、太いね?」

「底に沈んでいるタピオカの玉を吸うためですよ。勢いよく吸うと、喉にいきなり入るから気をつけてくださいね」

「あ、ほんとだ。ゴロッって入ってきた!」


 目の前で子供のようにチュウチュウ吸っている上司の姿に、葉子はやっぱり笑みが止まらない。


「秀星さんが若いときにも一度流行っていたはずなんですけれど」

「あー、その頃の僕は、それこそコミ・ド・ランで余裕がなかったから覚えていないなあ」

「給仕長にもそんな時期があったんですね」

「そりゃあ、そうだよ。メートル・ドテルもシェフ・ド・ランも、コミ・ド・ランから始まっているんだから」

「それって何歳ぐらいの時ですか」


 尋ねてみると、ストローを吸っている彼が空を見つめてふと考えている。当時のご自分を思い返しているようだが、彼にとってはかなり遠い日のよう?


「そういえば。ハコちゃんぐらいの時? いやもう少し年齢上だったかな。二十代後半?」

「そうですか。やっぱりいまの私は見習いで頑張れってことなんですね」

「下積み年代なのかもね。そう、好きなことを頑張っても、若いうちに成功するってなかなかないよ……。って言っておいて、この年齢でも夢叶わずでちょっと空しくなってきちゃうかな」


 急に気弱なおじさんの顔で、しょぼんとしながらタピオカミルクティーを吸っている。本当にあの怖い桐生給仕長かなと、葉子は久しぶりに目を擦った。だいぶギャップに慣れてきたと思っていた葉子だったが、プライベートの桐生給仕長は別の顔をたくさん持っていて、いまでもびっくりする。


「あ、ごめんね。僕はこうなっちゃったんだけど、ハコちゃんはチャンスを作りなよ。まだ二十三歳じゃない。うんとたくさんチャンスある。つくらないと運も逃げちゃうから、怖くなくなったら頑張って。僕、応援するよ」


『怖くなくなったら』。やっぱりいまの葉子の心境を彼には見抜かれている。

 もう否定する気もない。いまはこの気持ちのまま、葉子は大沼で給仕の仕事をして過ごそうと覚悟を決める。


「でも、秀星さんもまだわからないですよね」

「もちろん。そのために大沼に来たんだからね」

「……そんなに大沼に?」


 また傍らにあるカメラを手に取り、彼が撮影した画面を小さく笑って覗いている。


「うん。自然豊かで、季節によって表情を変える。日々刻々と変わっていく景観もいいね」


 父が生まれ育った地方だから、葉子も大沼には馴染みがある。

 このあたりの自然の景観の素晴らしさは葉子も好きだから、道外からやってきた人がそういってくれると、なんとなく嬉しくなる。


「秀星さんがピンと来る写真が撮れるといいですね」

「そうだね。まだ諦めていないよ。ん~タピオカミルクティー、おいしかった。ありがとね、ハコちゃん」


 最後まで、ほっこりしたお兄さん笑顔で飲み干した秀星を見て、葉子も微笑む。


 夕暮れに染まり始めた湖面と駒ヶ岳を眺めながら、彼と一緒に湖畔の散策道を歩いて帰った。

 そんな時の秀星は、ほんとうに、ほのぼのとしたオジサンで、一緒にいると笑い声が絶えない。

 十五歳も歳が離れているなんてことを、葉子は徐々に忘れていくほどに親しみを覚えていく。


「もうちょっとサーブが上手くなったら、今度はワインのサーブも覚えてもらおうかな」

「できるかな……」

「できるように教えるのが僕の使命。どんなに出来が悪くてもね」

「出来が悪くてすみません」

「出来が悪いわけじゃないよ。最初は誰もがそう。僕は教えがいがあるけどね。教えればハコちゃんはちゃんと覚えてくれるから安心しているよ」


 黄金に染まる湖面に立つ波に、沈む夕日がキラキラと反射していた秋の夕。

 もし、こんな大人の男性だと知らなかったら、葉子は給仕の仕事から逃げていたかもしれない。

 彼は葉子に『音楽以外』の生きる術を教えてくれた恩師だ。



 彼は首都圏や関西都市部にいた経験があり、そこでギャルソンの経験を積んできたらしい。


 父もたまに首をひねっている。

『神戸の有名フレンチで、若いメートル・ドテルとして引き抜かれて望まれたらしい。なのに、写真が第一で、その夢を追うために、せっかくのキャリアも捨てちゃうらしいんだ』

 彼が父の元に面接にやってきたのは四年前。葉子が東京で必死にオーディデョンを受けまくっていた頃に、実家になるレストランの給仕急募の求人を見てやってきたらしい。

 面接も非常に奇妙だったと父が言う。


『大沼公園の景観に惚れ込んでいます。毎日ここで四季折々の、または生き物の写真を量産していきたいです。私の信条ですが、仕事をきっちりやらぬ者には、壮大な美しい写真は撮れない――です。仕事はやります。断言します』


 写真のために給仕の仕事をしているという売り込み方だったとのこと。


 北海道の片隅でひっそりと営んでいるローカルなレストランに、都市部でメートル・ドテルまで務めた男がカメラを担いで流れ着いてきた。

 そして数年、居着いている。理由は『ここの素材にまだ飽きないから』だった。


 だから父は非常にやきもきしている。『飽きたら、絶対にここ辞める。それっていつだよ』と思っているのだ。


 なのに。彼は父がその日に準備した料理をいくつかピックアップして、厨房にカメラを持ち込んできて『本日のシェフメニュー』として撮影する。

 レストランのサイトまで作成してくれ、そこに毎日写真をアップする。それすらも彼は『僕の趣味なので気にしないでください』と言う。


 戸惑っていた父だったが『なんか予約が増えた。おいしそうな写真に惹かれたとか言われた』と、彼が運んでくるものを目の当たりにして、奇妙な生き方をしている男だったが、徐々に信頼関係が芽生えて、彼の写真活動も大事に見守っている。

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