4.素敵な上司さん?

 翌日、葉子は渋々自宅を出て、JRの大沼公園駅へ向かう。

 大沼国定公園に来ることを目的とした観光客がたくさん下車する駅でもあった。

 小さい駅ながら、列車が到着するたびに人の出入りが激しくなる。

 その人波の中、駅舎内のベンチに座っている桐生給仕長を見つける。


「おまたせいたしました。給仕長」

「おはよう、ハコちゃん」


 やっぱり。仕事モードでなければ、葉子のことは『ハコ』と呼ぶつもりなんだと確信した。


 間違えた呼び方を何故か彼が気に入って、これからもその呼ばれ方をされるのかと葉子は案じていた。でも『ハコちゃん』と呼ばれると、手厳しい給仕長が『いま僕は仕事の僕じゃないよ』と合図を出してくれているようで、ホッとしてしまう瞬間にもなっている。だから葉子はもう、呼ばれ方については、抵抗することはやめていた。


「では、行きましょう」


 ベンチから立ち上がった彼の姿を見ても、葉子はさらにほっとしている。

 いつも私服に着替えた時のまま、平凡な中年男の出で立ちだったからだ。

 白いポロシャツの上にグレーのパーカーを羽織って、ベージュのイージーパンツという、よくあるシンプルな服装。今日も、いつもより小さめのカメラをバンドにつる提げ、首にかけていた。


「本当にカメラ大好きなんですね」

「そりゃね。いつどんな風景に出会えるかわからないでしょう。函館まで行くのも久しぶりだからね。ほんとうはいつもの装備ごてごてのカメラを持っていきたいけど、今日の主役はハコちゃんなので、『ライカ』で我慢しました。でもこれ、いいカメラなんですよ。なんともいい味わいの一枚が不思議と撮れちゃう」


『ライカ』、葉子でも知っている高級カメラじゃないかとおののく。写真に本腰を入れているということが、なおさらに伝わってくる姿だった。


 一緒にJRにて函館まで。到着するとすぐにデパートへと連れて行かれる。

 彼が迷いもなく葉子を連れて行ったのは、一階の婦人雑貨売り場にある婦人靴コーナーだった。


 女性の靴なんて知っているのかなという戸惑いを秘めつつ、二十三歳の葉子も大人の女性が好むブランドなどわかりもしないから、ただ上司である彼についていくだけ。

 どうするのかなと眺めていたら、桐生給仕長はこれまた迷わずに、そこにいる販売員の女性に声をかける。


「この子に合う革靴を探しています。立ち仕事をしているので履きやすい物をお願いします」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 制服姿の初老女性がにこやかに、奥にある鏡と椅子がある場所まで案内してくれる。


「お色はいかがいたしましょう」

「黒でお願いします」


 対応はすべて桐生給仕長がしてくれ、葉子はまるで父親についてきた子供のようにして、背後でおどおどしているだけになっていた。


「はい、ハコちゃん。そこに座って履き替えてみたら」


 販売員さんが次々と持ってくる靴が、葉子の足下に並べられる。

 葉子ではなく、彼が箱から出てきた革靴を手に取って、デザインに素材を眺める始末。


「これはエナメル質で艶がありすぎですね。うちの店には合いません」

「どのようなお店でしょうか。失礼でなければ、教えてくださいますか」

「フレンチレストランです。ホール接客のために履く靴を探しています。黒の革靴と指定しています。ですが足に合っていないようで身体のバランスの取り方が気になっていたんです」


 靴を合わせる本人ではなくて、連れてきた男性が次々と注文をつけるので、販売員の女性も『はあ』と呆気にとられていた。


「かかとも、これだと高すぎです」

「ローファーはいかがでしょうか」

「正直、カジュアルですね~」


 その条件を聞いてまた販売員の女性が、奥にあるバックヤードへ向かうと今度はしばらく戻ってこなかった。


「あの、給仕長。なければまた他の日に……」

「いえ、ダメです。今日中に見つけますよ。それから、外では給仕長とは呼ばないでくださいね。プライベートなんで」

「桐生さん、あのですね」

「桐生さんもやだな。お店の皆さんは、シェフを始め皆『秀星』と呼んでくれるので」

「……しゅ、秀星さん、ですからね」

「あ、戻ってきましたよ。次こそ!」


 最後に『こちら、いかがでしょう』と持ってきてくれた黒い革靴三足、今度は彼の眼鏡に適ったようで、葉子はさっそく試し履きをしてみる。


 そこで初めて気がつく。通販で適当に選んだ靴との履き心地が天と地ほど違っていたのだ!


「え、これ。最初から痛くない……。足がぜんぶ包まれる感じ……」

「いいですね。デザインも品格も良しです。ハコちゃんの履き心地が良いのなら、僕はこれがオススメですね」

「じゃあ、これで……」


 と答えて、葉子は値札を見て絶句する。三万円!? そりゃ、履き心地いいはずだよとひっくりかえりそうになった。二十三歳、都会暮らしの資金が尽き、実家に帰ってきて三ヶ月ほど。そんなお金なんてないし、『給仕長に靴を買うように言われたから貸して』と母から預かってきたお金は『一万円』だった。


「こちらいただきます。支払いは僕が、これでお願いします」


 目を回しそうになっていた葉子の目の前で、桐生給仕長もとい『秀星さん』が、クレジットカードを販売員に差し出していた。葉子は絶句する。


「お待ちくださいませ」


 給仕長が出したカードと靴の箱を抱えて、女性販売員がレジへと向かっていく。


「給仕長!」

「え? 誰、給仕長って」


 とぼけた顔でそっぽを向かれたので『ああもうっ』と顔をしかめながら、葉子は彼に食ってかかる。


「困ります。こんな高い靴をそんな。自分で買いますし、こんなこと両親が知ったら怒られますし!」

「いい靴がどのようなものか知ったでしょう。これからは『品質』とはなにか、葉子さんには知ってほしいんです。『価格が高価』なのは何故か。素材を選び、手間暇かけて作られてきた物の対価とはどのようなものなのか、です。不当に高価なものもありますが、それが正当であるかの目利きも養って欲しいです。それがサービスに結びつきます。きちんと作られたものを『正しく』お届けする気持ちです」


 これから葉子に知ってほしいこと? 葉子は勢いを収めてしまう。また彼が給仕長と呼ぶなといいつつも、仕事場ではない場で、あの冷たく鋭い視線を葉子に向けてきたからだ。


「資金が尽きて実家にお世話になっている二十三歳女の子が、このような靴を買える余裕もないことはわかっていますよ。ですが、これで仕事が出来やすくなるわけでしょう。これは上司の僕からの『投資』です。プレゼントではないので誤解なきよう」

「投資って。私、そんな、この仕事はまだ……」


 これから先長く続けるつもりもないのに、投資をされても困る――とまで葉子は言えずにいた。いまはまだ、ここにいなくては生きていけないからだ。そこもすぐに秀星に見抜かれる。


「ほーら、まだしばらくはお父さんのレストランで働かなくてはならないでしょう。一時的な仕事であっても、僕が給仕長である限りは、きっちり正しくやりこなしてもらいますからね。そのための投資、いわば、僕がいま責任を持っているホールを守るための投資ですよ」


 葉子のためでもなんでもなく、自分の仕事のためだと彼が言い切った。


「いつも、こんなことをされているんですか……。出来の悪い見習いに」

「まさか。人材が足りている高級グランメゾンだったら、あなたのような中途半端な気持ちのギャルソンから淘汰されていき、やる気のある者だけがシェフ・ド・ランとして上がってきますから。いちいち面倒などみるまでに至りませんね」


 その言葉にも葉子は打ちのめされる。

 放っておいてもダメになる資質と言われたからだ。


「ですが。フレンチ十和田では、葉子さんは大事な人材、セルヴーズ女性給仕です。それからね、ここでこの仕事を覚えておけば、東京に戻ってもアルバイトなどの勤め先が増えるでしょう。なんなら、僕が知っているレストランを紹介してもいいよ。ただし僕の顔に泥を塗らない程度に出来るようになること。だから、これからのためにも、今はここで仕事を覚える。そのためには履き物から変えてみる。わかったね。お父さんには僕からきちんと伝えておくから、明後日からその靴で、再度レッスンをしますよ」


 ぐうの音も出ず、葉子は『はい』と小さく答えるだけしかできなくなっていた。


「ありがとうございます。大事に使いますね」

「靴の磨き方も教えなくちゃね」


 接客をしてくれた女性販売員さんが『素敵な上司さんですね』と笑顔で見送ってくれた。

 素敵な上司? 素敵なんかじゃない。怖くて手厳しくて、冷徹で、いっつも緊張しているよ。でも……。葉子は泣きそうになっていた。

 冷たい厳しさの裏側から見え隠れする、父親のようなぎこちない暖かさと優しさに……。





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