3.ここはライブ会場
二ヶ月がすぎる頃、『この仕事は一時凌ぎだ。はやく東京に戻りたい』という葉子の焦る心を、桐生給仕長に見抜かれる。
『とにかく姿勢が悪い。立っている姿勢も、心構えも』と手厳しい叱責を受ける。
お客様からのオーダーを桐生給仕長から聞き取って、厨房へと伝える仕事を任されてからしばらく、うっかり大事な伝達を言い忘れたことがある。
『キャビアがお好きではないお客様が一名、今日のオードブルに使われていたので、ひと皿だけ使用しないように』。準備するワインの名前も一緒に言われカーブで探しているうちに、その伝達を忘れてしまったのだ。メモを取らなかったせいでもある。
そのせいで伝達ミスを起こし、料理ができあがってお客様のテーブルへと皿をサーブする時に、桐生給仕長が気がつく。一度出した皿を下げるということを、彼にさせてしまったのだ。
だが彼はすぐに葉子を怒らなかった。父も呆れた眼差しを少し向けただけで、二人は息が合ったようにさっと『お客様フォロー』へと動いた。
桐生給仕長はオーナーシェフである父に、『お詫びにフロマージュをサービスしたいのですが』と短く伝えると、父も『そうしてくれ』と短く返答。すぐさま本来のオーダーだったキャビア抜きのひと皿へと調理を始める。
『フロマージュ』は、フルコースの順番の中にあるメニューのひとつで、食後とデセール(デザート)の間で食する『チーズとデザートワイン』のこと。フレンチ十和田ではコースに組まずに『追加料金』として、当日、お客様に『フロマージュはどうされますか』と伺ったうえで、オーダーを取るようになっている。
それをご希望されなかったお客様であったため、お詫びにチーズとデザートワインをサービスする決断を、桐生給仕長は下したのだ。
葉子の失敗で、店のスタッフに仕事が増えた。『十和田さん、デザートワインを準備するので手伝ってください』。いつもの冷たい声の指示があっただけで怒られず、葉子はホッとした。でも反省をしながら手伝った。
お客様はかえって喜ばれていて、本来なら追加料金でオーダーしなくてはならないはずのチーズとデザートワインを味わえて満足そうだった。
当然だが、それでは終わらなかった。
「十和田さん、給仕長室まで来てください」
彼の仕事部屋、『給仕長室』。そこに、葉子は呼ばれる。
伝達ミスのことだと、すぐにわかった。あの冷徹な給仕長をとうとう怒らせたと葉子は怯える。
給仕長室の窓辺には白樺の木立がそばにあり、隙間の向こうには駒ヶ岳と大沼が見える。
「なんでしょうか……給仕長」
給仕長は白樺と大沼が見える窓辺に向かっている。
彼が振り返り、その景色を背に葉子に向き合う。彼が静かに口を開く。
「とにかく姿勢が悪いです。立っている姿勢もそうですし、心構えもです」
冷たい目は、葉子を真っ正面から射貫いていた。
これまで多少のことは見逃してきたが、その分、今日のことは逃がさないとばかりに威嚇されている。鬼気迫る冷気が一気に吹き付けるかのような恐ろしさを感じ、葉子の背筋は凍りつく。
メモを取れと言ったでしょう。小さな伝達しかないからと、高をくくっていたでしょう。
そう言われるのだと、目を瞑って構える。
だが桐生給仕長が言い出したのは、葉子が思わぬこと。
「いつかライブ会場のステージに立っておもいっきり唄いたいのでしょう。その時、お客様に向かってどう唄いたいのか、いまここで説明してください」
意外な問いに、葉子は目を見開いて彼を見上げた。
葉子が答えるまで、彼はあの目でじっと黙って待っている。
だが葉子は、そんな質問をされたからこそ、わかってしまったのだ。
「……来てくださった、お客様に、楽しんで帰っていただきたいです……」
もし自分がステージに立ったら。自分が注目されたいのはもちろんだが、観客にだって楽しんでほしい。あの子の唄で元気になれる、ライブに行って良かったと喜んでもらって、『また行きたい、会いたい、唄を聴きたい』と言って欲しいと思う。
それを、この『フレンチレストラン』で喩えたら?
ライブ会場はこのホールで、食事をするお客様は観客。ではこのレストランで『唄っている』のは誰? ……お父さん!? 私と給仕長は……会場スタッフで……?
「わかっていただけましたか。ここは、これまで何十年と修行をしてきたお父様の、大事なライブ会場です。貴女がステージで唄う時も、一人きりではできません。貴女を素敵に見せるためのスタッフが何人もいるはずなのです。そのスタッフさえも『プロ意識』でライブを支えている。いまここが『生きていくしかない場所と時間』だとしたら、いまの貴女はステージを支えるスタッフしかやれることはありません。プロになりたいなら『プロ』に敬意を払ってください。『プロ』の仕事に対価をくださるお客様にもです。それが出来ねば、貴女が思う『プロ』にはなれません。いますぐここを辞めてください」
葉子は愕然とする。いま自分は唄うこともできない会場スタッフとおなじで、それだけしかできない二十三歳の女だということだ。
サービスの見習いという仕事しかできない女なのに、言われたこともできない、なにもない女。
「も、申しわけ、ありませんでした」
「ひとつの仕事を軽んじる者は、夢など叶えられませんよ」
「はい、承知いたしました……」
情けなくて涙が滲んだ。歌手にもなれない、仕事も中途半端でできない。
だから? だからオーディションも合格できなかった? なにひとつ、人と比べて秀でているものがないから?
すぐに東京に帰ってオーディションを受けたい気持ちばかり急いて、この仕事を適当にしていたからこんなことが起きた?
実家に帰ってきて二ヶ月、葉子は始めて涙をぼろぼろこぼしていた。
「もうよろしいですよ。お疲れ様でした」
泣いている葉子を置いて、桐生給仕長が外に出ていった。
ひとしきり泣いて、葉子は涙を拭って、ひとりになってしまった給仕長室から外通路に出ようとする。
ドアを少し開けたところで、ホールと厨房へと向かう通路に父と彼が向き合っているのが見えた。
「やる気がない娘を任せてすまない。辛い役をさせてしまって」
オーナーシェフである父がコックコート姿で頭を下げているところだった。
葉子が桐生給仕長に淡々とお小言を言われていても、父が知らぬ振りをしていたことは葉子もわかっていた。
シェフとして堂々としている父が、ほんとうに辛そうに頭を下げている。そう思うと、葉子の胸も痛んだ。
「やめてください。シェフ。貴方のお嬢様でなくとも同じことを言うし、いままでも部下の教育でしてきたことですよ。ましてや、この仕事をするつもりのなかった若者なのですから。まあ、こういうこともあるでしょう。これが私の仕事です。ですから任せてくださったのですよね。きっちりやらせていただきます」
「ありがとう……。半端な気持ちでやらせているとわかったうえで任せてしまって」
「厨房で皿を持った時に、僕もキャビアが使用されていると気がつくべきでした。僕の失態でもあります。二度手間に調理をすることになったこと、フロマージュを無料サービスすることになりまして、こちらこそ申し訳ありませんでした」
桐生給仕長も頭を下げていた。
『いや、お客様とトラブルにならないよう、よく丸く収めてくれた』とまた父が頭を下げている。
葉子の心構えが緩んでいたことで、一流と父が讃えている給仕長に、皿を下げさせるという失態をさせてしまった見習いサービスマン。そして、オーナーである父の心の重しになっている娘。
『いまのあなたが出来ることは、ステージを支えることだけ』
それすらも出来ない娘、お荷物の娘。役に立たない娘。ここを出ても行くところもない娘。
唄だけ唄えていればそれでいいと思っていたが、それだけでは生きていけないことを初めて知る。
---☆
そこからは、自信がつくまでメモをきちんと取るようにした。
姿勢が悪い。一度メモを取りなさいと言われたのに、素直に聞き入れなかった姿勢。この仕事は一時凌ぎだと軽く見ていた姿勢。とにかくここで働いていればいいとお客様の時間を大事に思っていなかった姿勢――。それをひしひしと感じるようになっていた。
やがてオーダーもメモを取らずに伝えられるようになったころ、今度は閉店後のホールに呼ばれる。
「僕がお客様役をするので、十和田さんはサーブをしてください」
やっとホールの仕事をすることを認められた気持ちだった。
「ですが、覚えておいてください。本来『コミ・ド・ラン』の見習いが、お客様のテーブルへとサーブをすることはありません。なおかつ、葉子さんはまだシェフ・ド・ランに昇格するほどの技量も所作も身についていませんから、その役職につけるつもりもありません。ですけれど、お父様の『フレンチ十和田』は少人数で支えているため、コミ・ド・ランの葉子さんにもサーブの仕事を覚えてもらいます」
本来の修行では、まだ早い段階。実力はない。それでも、このレストランでは人手が必要だからということで、葉子はホールのサーブ業をさせてもらえることになった。
彼がテーブルに座り、なにも乗せられていない皿を葉子に持たせ、フルコースのサーブと接客のレッスンが始まる。
彼がお客様としてホールに入ってきてから、テーブルへの案内、椅子を引くのはスタッフの役目、お客様が着席したら――。その順を追って、食器も持って、テーブルへと持っていくレッスンが繰り返される。
お辞儀の角度、お客様とお話しをするための目線の位置、声かけのタイミング、皿の持ち方、皿をお客様の背後からサーブする方向などなど、事細かく指導される。
ある夜、まだぎこちない仕草でサーブする葉子に、彼があからさまなため息を吐いたのだ。
「終業後の夜間で疲れているのは、わかるんですけどね……」
ひとつのテーブルをコースとしてサーブすると、だいたい二時間。ただし厨房の料理仕上がりも入れて。レッスンの間は、給仕長の彼の説明と指導を受けながらでも、一時間程度はかかる。それを二度、三度繰り返される。閉店後、給仕長の彼のレッスンを受けていると、深夜になることもしばしばあった。そんなとき、葉子はよく集中力を切らしてしまい、失敗を繰り返すこともままあった。
ため息を吐いた彼に、また冷たく怒られるのかと思った。
お客役をして椅子に座ってる彼が、真横でサーブするために立っている葉子の足下を見た。
「ハコちゃん、その靴はどこで買ったのですか」
さっきまで『十和田さん』だったのに、急にくだけた口調になったので、気疲れしていた葉子もふっと心が緩んだ。
「通販です」
店のホールスタッフ指定の靴は『黒い革靴』だった。
葉子はシンプルなパンプスを選んで、父の店で働く初日から履いている。
「なるほどね。わかりました。今夜はこれでお終いにしましょう。明日から店の休業日が二日続くからと思って、遅くまでのレッスンにしましたが、無理をさせてしまったね」
「いいえ……」
あれ。なんか、急に『桐生のお兄さん』に変貌したと、葉子はますます力が抜けていく。
そうか、明日から二日間休業日だから、いつになく遅くまで指導されていたのかと葉子も気がつく。繁忙期が過ぎた秋口なので、従業員たちの英気を養うため、二日連続の休日が挟まれている時期だった。
「明日ですね。僕と買いに行きましょう」
「え? なんのことでしょう」
「だから靴。ちゃんとしたものを買いましょう。その靴、かかとが少し高いですね。だからバランスが取りにくいんです。自分の身体を支えることが第一になっていて、だから、お客様にサーブする角度が甘くなる。それだな、まずはそこからだね」
「はい?」
白シャツ姿の彼が、袖をめくって腕時計を見た。
「今夜は遅くなったので、集合時間はゆっくりめにしましょう。明日、正午に大沼公園駅で待ち合わせです」
「え! 一緒にでかけるってことですか!?」
「ですから。函館まできちんとした靴を買いに行きましょうということです。あ、これ給仕長命令ですからね。さぼったら、オーナーシェフに告げ口します」
お父さんに告げ口! そんな脅すような言葉を初めて使われたので、葉子はびっくりのけぞって呆然とするしかなかった。
「ランチは僕がご馳走します。お腹すかせておいてくださいね。それでは。お疲れ様でした。また明日」
葉子は唖然として、ホールにひとり取り残される。
貴重な休日を、給仕長命令で一緒に出かけるって――横暴すぎない?
そう思ったが、父が桐生給仕長のことは非常に信頼して葉子を預けているので、『告げ口』なんてされたら『なぜ秀星に従わないのだ』と、父になにか言われるのも怖くて葉子は従うしかなかった。
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