2.カメラを持ったおじさん

 このレストランは、閉店後に賄いが出る。

 それを食べるのも食べずに帰るのも自由だった。

 葉子はまだ慣れないので、すぐ隣にある十和田シェフ宅となっている実家へ帰り、母がこしらえてくれた夕食を食べている。


 この日、桐生給仕長は、いつも従業員と共にとっている夕食の賄いを、父の許可を得て持ち帰りにしたようだった。


「お疲れ様でした。お先に、失礼いたしますね」


 私服に着替えた桐生給仕長が、まだ厨房にいる父へと挨拶にやってくる。


「おう、お疲れ。明日も頼むな」

「シェフもいつまでも厨房にいたらダメですよ。休養も大事ですからね」

「わかっとるわっ」

「言っておかないと、ずーっと厨房で調理をしていそうですからね」

「秀星のカメラほどじゃないと思うけどなっ」

「僕は明日の朝が早いので、ではこのあたりで失礼いたします」


 あんなにパリッと凜々しい冷徹な人だったのに。私服に着替えた途端に、平凡な中年男性になってしまうので、葉子も毎晩一驚している。

 あとひとつ特徴があり、桐生給仕長は毎日、その肩にプロ並みのカメラを携えてやってくるのだ。


 自宅へ帰る方向にある従業員専用玄関で、桐生給仕長と一緒になった。


「お疲れ様でした、ハコちゃん」

「お疲れ様です。今夜は厨房で食べていかないんですね」


 父に早く帰れと言っていた桐生給仕長だが、いつもなら、彼だって父と一緒にいつまでも店にいる。


 父が作ってくれたという彼専用の小さな事務室『給仕長室』で、店の管理の残務をしている姿を見ているからその姿を知っている。でも今夜の彼は残務もしないで帰るらしい。


「明日、狙っていたショットが撮れそうだからね。季節といい、天候といい、条件が揃いそうなんだ。早起きしたいから今日はもう帰るよ。じゃあ、お疲れ様。ハコちゃん」

「お疲れ様でした。いい写真が撮れるといいですね」


 ちょっとした社交辞令のつもりだったのに。仕事では冷気を放っている桐生給仕長が『えへへ、ありがとう』と、らしくない照れ笑いを見せたので、葉子は唖然としていた。


「おやすみー、ハコちゃん」

「お、おやすみなさい」


 仕事モードが切れると、ただのほのぼのしたおじさんになっちゃうし、気が抜けている時はすっかり『ハコちゃん』と呼ばれている。怖いだけの人ではないと、ほっと安心も覚えた時期でもあった。


 そんな彼をここ数週間見て、葉子はもう知っていた。

 彼の夢は『写真家』だ――ということを。


 二十年追いかけても、撮り続けても、彼が願う結果は出ない。

 でも生きていかねばならないから、仕事をしている。

 あの言葉の意味を、父の店で働くようになった一ヶ月の間に、葉子はやっと理解したのだった。



---☆



 皿拭き以外は、ただホールの入り口で立って見ているという日が続いた。

 一ヶ月も経つと、給仕長から新しい指示が出る。


「フレンチのサービスにも役割分担があります。大まかになりますが、ホールの接客サービスを統括するのが『メートル・ドテル』、僕のような給仕長のことを指します。給仕長を補佐、ホールのテーブルサービスを担当、統括するチーフのことを『シェフ・ド・ラン』と呼びます。さらにこのシェフ・ド・ランを補佐するのが『コミ・ド・ラン』。ギャルソンの見習いとなります。つまり、十和田さんはいまは『コミ・ド・ラン』、見習いです」


 その説明があった後、彼が葉子を冷たく見下ろして付け加える。


「通常、フレンチのホールサービスの業務では、見習いの『コミ・ド・ラン』はお客様のテーブルでサーブすることはなく、お客様と言葉を交わすことも許されないのが慣習です。しかしホールと厨房を繋げる役割もあります」


 どうしてホールに呼ばれないのか、葉子はようやく理解した。

 まだお客様と言葉を交わすことを許されていない立場だったのだ。


「本日から、給仕長の僕と塩谷君がとったオーダーを厨房へと伝える仕事もしてもらいます」

「はい、わかりました」


 そんな簡単なことでいいのかと思った。

 だが違った。桐生給仕長の指示は細かい。だが葉子はメモにとろうともしていなかった。


「頭で覚えて素早く伝えられるようにと願っていますよ。ですが、出来ないうちはメモをとって欲しいですね」


 これも、小馬鹿にされたような鋭い目線で言われる。

 あの目で冷たく見下ろされると、葉子は萎縮するようになっていた。


 父のコース料理は、その日にどのようなメニューになるか、だいたい決まっている。

 伝達と言えば『そろそろポワソンを』と、お客様のお食事進行のタイミングを見計らった桐生給仕長からの指示ぐらい。それを父に伝えるだけ。だからメモなんて……。


 だが桐生給仕長がお客様に接して気がついたことで、少しずつアレンジが変わっていくこともある。

 アレルギーの有無や好き嫌いの確認も、来店予約があった時にきちんと聞いてはあるものの、当日言い出すお客様もいれば、その日のお客様の様子で判断をして、オーダーの変更や、別アレンジを要望してくることも多々あった。


 当日、すでにコースが開始されているのに、いまから変更した調理が出来るのか。お父さんが困るのではと葉子も最初は思っていたのだが、給仕長から伝わってきた情報を父の十和田シェフはすぐさま受け入れ、あっという間に要望に添った変化に対応させた料理に仕上げていく。その連携は見事であったし、もしかすると、フレンチレストランでは、プロにとっては出来て当たりまえのことだったのかもしれない。


 食事をされているお客様の笑顔、ゆったりとしたムード、お帰りになる時の『おいしかったよ』や『ごちそうさま』の短い言葉。それを生むために、給仕長も父もお客様第一で仕事をしていることを、葉子は目の当たりにしていく。


 小さなひと言、短いひと言、また来てもらうための信頼を得るのに、どこまでのことをしているのか……。少なくとも、フレンチレストランではここまでしているのだと葉子は知っていく。


 それから桐生給仕長から、フレンチレストランの給仕の基本を叩き込まれた。


「お辞儀の角度、甘い」

「まだ背が丸まっている」

「カトラリーを置く位置を間違えている」

「お客様への目線を落とす位置が高い」

「仕草が美しくない。指先まで神経を尖らせるんだ」

「でもさすが、発声、発音はよし!」


 まだ諦めていない夢がある。本当はこんなことしていたくない。お金がないからしかたがない。嫌々やっているんだ。どこかでいつもそう思っている。そうすると、彼にその雰囲気を感じ取られ、そんなときにはビシッと活を入れられてきた。


「ひとつの仕事を軽んじる者は、夢など叶えられない。それを軽んじるなら、いますぐ辞めてください」


 シェフの娘という特別扱いは一切なかった。父も見て見ぬ振りで、黙っている。母もだった。

 普段は優しい顔と温和な雰囲気でほのぼのしているのに、お客様に対しての接し方や料理や食材に対しての敬意の持ち方には厳しかった。

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