5.給仕長ではない日

「さーて、買い物は終わったから、ランチにしようか。ハコちゃんはなにが食べたいかな。僕もまだ函館と大沼にきて一年ちょっとだからね、知らないこと多いんだ」

「私も住むのは初めてですから。あ、イカナポリタンって知っています?」

「ああ、函館の新しいご当地グルメかな」

「その中に黒いイカナポリタンがありまして、北斗市にいるイトコが連れて行ってくれたことがあるんです。まだあるかな……」

「黒いイカナポリタン!? 聞いたことがないな。十和田シェフとはいつも車で遠出する食材探ししかしていなくて」


 それは是非食べてみたいと、秀星が無邪気にはしゃいだので、葉子は目が点になっていた。


「北斗市にもどりますけどいいですか」

「いいよ、いいよ。行こう、行こう!」


 葉子も久しぶりの来店になるので、二人で一緒にスマートフォンで検索して場所を確認、再度JR線で北斗市に向かう。


「うわ~、なんだろうワクワクするなあっ」

「ギャップ、すごいんですけど……」


 そんなにっこにこのお顔、仕事中にはちっとも見せてくれないからと言いたくて、葉子は口ごもる。

 張り切って進んでいくその背中は、うん、やっぱり四十路のおじさんだなと、葉子は密かにため息を吐いていた。


 しかも当の名物店で、イカスミで黒くなっているパスタを一緒に頬張った時も。

 互いの唇が青紫色になっていることに気がついて目が合ったのだが、もう一緒に笑っていた。


「ごめんね、年頃の女の子の顔を笑って」

「いえいえ、黒いパスタだとわかっていて一緒に来ましたし、私こそ、上司の顔を笑ってしまいました」

「あ、ハコちゃん。これで僕を撮って」

「え、どうしてですか」


 スマートフォンを差し出され、イカスミで口が黒くなっている写真を撮ってくれと頼まれる。


「神戸の後輩に送ってやるんだ。絶対に笑ってくれるから」

「そうですか」


『えへん』と胸を張って、唇が黒いのに得意顔をされたので、葉子はまた笑い出していた。

 向こうでも厳しいメートル・ドテルだっただろうに。慕われているんだと葉子は思った。

 でもちょっとわかるかな。だって、仕事じゃなければ、なんだか……。変だな、給仕長がカワイイお兄さんに見えるだなんてどうかしていると、度々目を擦りたくなる一日になった。


 歩いては立ち止まってカメラで撮影をする秀星にも付き合った。

 大沼国定公園にある自宅に戻るときにも、なにか気になっては持ってきたライカで撮影している。


「よし。いつもとちょっと違う趣の撮影ができた」


 自宅まで送り届けてくれた最後、彼が夕暮れのなか、ライカのカメラを愛おしそうに撫でていたことも、葉子の目の奥に焼き付いていた。


 彼が言う『夢を支えるために、仕事をしている』ということが良くわかった一日でもあった。

 夢を必死に支えている。高価なカメラを買うことも管理することも含まれているのだろう。葉子が見据えている『飛行機代』や『東京で暮らすためのお金』に匹敵することが、秀星には『カメラ』なのだ。お金を生み出さない夢だから、支えるためのお金を生み出す仕事は一生懸命やる。そんな生き方。



---☆



 休日明け、艶で光る真新しい靴を履いて出勤をする。

 給仕長室を覗くと、ちょうど彼も着替え終えたところで、白シャツのカフスにあるボタンを留めているところだった。

 あんなに気さくなお兄さんで楽しそうだったのに。いま葉子の目の前にいる大人の男は、いつものひんやりとした空気をまとった怖い給仕長に戻っていた。


「おはようございます。桐生給仕長」


 背を向けていた彼が振り返る。


「おはよう、十和田さん」

「あの、一昨日は、革靴を買ってくださって、ありがとうございました」


 彼の冷めた目がちらっと葉子の足下に降りてくる。


「いいえ。では、今夜もレッスンがありますので、その靴で頑張りましょうね」

「はい!」


 元気よく答えると、彼がいつになくふっと口元を緩めたのだ。

 けっして仕事場では気持ちを緩めない秀星が、なんだか堪えきれなくなったように口元を拳で押さえ、笑いを堪えているのがわかった。


「給仕長……?」

「ごめん。イカスミ、思い出しちゃって」

「え! 私のあの時の顔を思い出して笑っているんですか。私も思い出して笑っちゃいますよ。ライカおじさんになっていたことも」

「ライカおじさん!!」


 また給仕長が口元を押さえて必死に笑いを抑え……、いやもうケラケラとお腹を抱えて笑っているから、葉子は眉をひそめる。


「やっぱり、神戸の後輩にも『イカスミ顔』めちゃくちゃ笑われたんだよね。しかも怒られちゃった。若い女の子と初めての食事で、口を黒くしたところを写真に撮らせる上司になっていて、『おじさんすぎて信じられない』って。『まず食べるものから気を遣え、俺ならぜーったいに女の子の口元が汚れやすくなる食事は選ばない』って言われちゃった。で、ごめん。彼とのやりとりを思い出しても、笑いが止まらなくてずっと」

「ずっとって」

「そうだ。今度は、ライカおじさんって言われたと送ってみよう」


 給仕長室にある小さなパソコンデスクの椅子に座って、スマートフォンをいじりだした。

 その神戸の後輩とは日常でやりとりとしているようだった。

 おじさん同士……だろうか? だとして、おじさん同士のメッセージのやりとりって、こんなかんじなの? 普通に女の子同士みたいで意外すぎた。でも葉子には考え及ばない『おじさんの世界』だと深く考えないようにする。


「あ、返信きた。ん? 『彼女の言うとおりでは』だって。あはは!」


 制服を着ている時間に、ほのぼの笑っているのを初めて見た! こんなの桐生給仕長じゃないと葉子は目を丸くする。

 その後輩さんには、かなり心を許しているようだった。

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