▼断章

 かつて、私は天使だった。


「今度の休みはどこかに遊びに行こうか」

「いいえ、パパ。私はお家でのんびりするのが好き」

「私たちの天使さん。今日のご飯は何が食べたい?」

「オムライスがいいな!」


 しとやかに、従順に。少しだけ、可愛らしいわがままを。

 父も母も、良い人だった。両足がなく、這うことしかできない私に愛情を注いでくれたのだから、それは間違いのないことだ。


 先天性の発育不全。私には、生まれつき両足がなかった。

 そんな私に、両親は最大限の愛情と環境を与えてくれた。家の中、私の部屋の中で不便なことはほとんどなかったし、頼めばどこでも連れて行ってくれた。


 私に許されなかったことは、たったひとつ。

 歩きたい、と願うこと。

 幼い頃、その願いを口にした瞬間の両親の表情を、今も覚えている。幼心に、二度と口にしてはいけない、悟られてはいけないと理解できる表情だった。


「今度の休みはどこかに遊びに行こうか」


 ――パパ。私は、自分の足で歩きたいの。車椅子と自動車ではなく、砂浜を、芝生を、アスファルトを、自分で……。


「私たちの天使さん。今日のご飯は何が食べたい?」


 ――ママ。私は、天使なんかじゃないの。こんなにも愛情を注いでもらっているのに、歩きたい願いが止まらない、悪い子なんだ……。



 その男に出会ったのは、父の仕事関係者を呼んだホームパーティだった。都市時代においても、ある程度の地位になると「家」もまたひとつの評価基準になるというのは変わらない。


 私は庭の片隅に座り、穏やかに微笑んでいるだけでいい。母が手編みしてくれた膝掛けだけは、絶対に捲れたり落ちたりしないように。時々父が連れてくる大人にご挨拶して、後の時間はのんびりと庭を眺めていた。


 こちらをちらちらと見ては、目が合うと視線を背ける大人とか。

 楽しそうに駆け回り、時々こちらを指差している子供たちとか。

 挨拶が済むとそそくさと離れていく父の背中とかを、眺めていた。


「こんにちは、お嬢さん。初めまして」


 ……その男は。何だか胡散臭い笑顔で、私に話しかけてきた。

 父を伴わずに話しかけてくる大人は初めてで、少し戸惑ったけれど、天使の私は微笑みを崩さずにご挨拶を返した。


「はじめまして。鍋島なべしま 綴子ていこです」

鷹見たかみと申します。お父上にはお世話になっております」


 男の仕草は年端も行かない少女に向けるには随分と丁寧で、丁寧すぎて逆に胡散臭いくらいだった。鷹見という男が差し出した名刺を、咄嗟に片手で受け取ってしまう。片手は膝掛けを握り締めていた。

 名刺には、〈コーシカ商会〉の文字。


コーシカ……商会」

「そう。ちょっとした荷物を運ぶお仕事をしていてね」

「荷物……お手紙も、ですか?」

「数は少ないが、手紙も我が社の大切な荷物だとも」


 胡散臭い笑顔が、その瞬間だけはどことなく誇らしげだった。大人らしからぬ感情表現に、少しだけ笑ってしまった。


「君は手紙が好きなのかな?」

「好き……なのかな。不思議な気分になります」

「私もそうだ。手紙のほとんどはメールに取って代わられたとしても、手紙だけが持つ情報量というものがあると思う」


 その言い方は当時の私には少し難しくて、でも、彼の感情は確かに伝わってきた。こくりと、私も頷く。


「荷物と共に、それは届くべき感情なのだ、と……失礼、少々語ってしまったね」

「ううん。……私も」

「ふむ?」

「文通、を、していて。今は……父に言われて、やめましたけど……」


 Web上の書道教室で、授業の一環として手紙を送りあってみる、という機会があったのだ。同じ年代の子といろいろなお話を手紙でやりとりするのは、不思議な楽しさがあった。初めての友人だと思っていた。だから、鷹見さんが言っていたことが、よくわかった。

 わかったことも伝わったのだろう。鷹見さんは優しげに頷き、少し悪戯っぽい笑顔で囁く。


「お嬢さんも、親御さんに内緒で運びたいものができたら、どうぞご用命を」 

「ありがとうございます。でも、……手に入らないものだから」

「ふむ?」


 話す機会は一生ないと思っていた手紙の話をしたからだろうか。もうひとつ、秘密にしておくべき言葉がこぼれてしまった。


「足、が、欲しい」


 本音だった。幼い頃に諦めたはずの思いは、心の奥の方で、ずっと燻っていた。

 両手で膝掛けを握り締める。

 変なことを言いはじめた子供を置いて、鷹見さんはどこかへ行ってしまうだろうと思った。視線が下がる。膝掛けと、鷹見さんのよく磨かれた靴を見つめる。


 ……少し経っても、靴はその場から動かなかった。私の方を向いたままだ。

 恐る恐る顔を上げると、鷹見さんの、揶揄うような微笑みと目が合った。


「これはこれは、不思議なことを言うお嬢さんだ」

「え……?」


 足についての話になると大抵の人は曖昧な笑みを浮かべて、慰めてくれるか、勇気づけようとしてくれる。そしてすぐに用事を思い出して席を外してしまう。自分から話すことは少ないけれど、少ない経験でもそのくらいのことは理解できた。

 だから、笑って揶揄われるのは初めてだった。


「足というのは、生まれ持った二本の足のことだろうか」

「は、はい……?」


 何を言ってるんだろうこの人は。それ以外に、意味なんて――


「それとも、土を踏み、道を蹴って、思うままに移動し、行きたいところに行くための手段を指す言葉だろうか?」

「……あ、え?」


 それ、は。

 その二つは、私にとって長い間不可分だった。分けることすら思いつかなかった。なのに、鷹見さんの言葉で思考がばっさりと二つに切り分けられた心地だった。

 私が欲しいものは。


「前者は、確かに難しい。人造臓器や皮膚再生はあるが、四肢そのものの再生はまだ聞かないからね。だが……」


 鷹見さんの指先が私の足を指す。違う。彼が示したのは、私が座っていた、電動車椅子だ。


「後者ならば、君はもう、立派な移動手段を与えられている。ご両親に感謝すべきだ」

「これは、でも」

「君はどこにでも行ける。行きたい場所があるならば行けばいい。欲しいものがあるなら取りにいけばいい。もちろん、困難はあるだろうけれどね」


 私を縛っていた色々なものが弾け飛ぶ感覚。諦めとか、両親の表情とか、天使の仮面とか。


 何とも胡散臭い男は、詐欺師みたいに誠実な笑みで、私に微笑みかけた。


「それでも手が届かないものがあるならば、その時は我々にご用命を。迅速、丁寧、〈コーシカ商会〉です」 





「あー……思い出した。あの頃から胡散臭かったな、社長。どう考えても怪しい勧誘だろ」


 結局。

 純真無垢な天使だった私は、その勧誘に見事に乗っかり、欲しいものを自覚してしまった。


 自由に動く二本の足。

 移動手段としての足。

 私が欲しかったのは――自分で行きたいところに行くという、意志だった。足りなかったのはカラダではなく、決意だった。


 そのあと、天使ではなくなった私と両親の間では、もちろん紆余曲折すったもんだ、他人様には恥ずかしくて言えないような修羅場が繰り広げられたわけだけれど。最終的には公認の上で家出、という感じで、電動車椅子で都市へと飛び込んだのだ。


 屋上の縁で揺れる義足を見る。艶消しの白に、赤のライン。赤い歯車の企業ロゴエンブレム。ツァーンラート社の〈フォイエラート〉――最新鋭のリンクス接続型義足。あの頃夢見た『自分の足』に辿り着くまで、色々な苦労があった。その苦労を乗り越えられたのは私が強かったからではなく、社長や、シゲさん、大勢の人の助けがあったからだ。この義足だって、顔も知らない誰かが最高の仕事をして作り上げたものだ。腰掛けてるこのビルも、脳内に埋め込まれたリンクスも。


 生まれてこの方、誰かに頼りっぱなしだ。でもまあ、きっと皆そうなのだ。この都市時代に、誰かに頼らず生きていける人間なんていない。かつて月へ行った宇宙飛行士たちが一人ではなかったように。

 だから、きっと、大事なのは力ではない。

 意志、なのだ。


「……今、私がしなきゃいけないこと。ううん、したいこと、は」


 背中の荷物を、あるべきところに届けること。北楽さんが頼ってくれたのだから、私だって応えたい。そうやって都市は回っているのだろう。


「そのためにはどうしたらいい?」


 問いかけの答えは、すぐに出た。


「……これしかないか」


 我ながら嫌そうな声がこぼれた。……でも、なあ。往生際悪く他の選択肢がないか探してみるものの、結論は『これしかない』だ。別に、思い浮かべた顔が嫌いだったわけではない。ただ……だけだ。我ながらガキ、もとい、可愛らしい感情に苦笑する。

 仕方ない。プロは感情よりも実利を優先するのである。私が必要とする能力を持っている、頼るべき相手は誰か。


 それは都市の住民なら誰でも辿り着く結論――


「お巡りさんに、頼ってみようか」

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