みんなに「要らない」と言われた君へ 4

 キタの手が、カイニの髪を撫でている。


 十年剣を振ってきた無骨な手が、細く柔らかなカイニの髪を梳くように撫でる。


(ああ)


 カイニは安心しきった顔で、何の警戒も見えない表情で、リラックスして彼に体を預け、緩みきった頬をぐりぐり彼に押し付ける。

 撫でられているのが、心地よかった。

 触れてもらえるのが、気持ちよかった。

 髪越しに感じられる彼の体温に、優しく溶けてしまいそうだった。


(ボクは、生きて帰って来れたんだ)


 十年。

 十年、勇者カイニは命をかけて戦ってきた。

 6歳の時には要塞を救い、10歳の時には魔族の軍勢と殺し合い、12歳で魔王軍の幹部を殺し、14歳で魔族領に突入し、二年間休みなく戦い続け、魔王を倒した。

 そうして、帰って来た。


 失ったことも、守れなかったことも、泣いたこともあったけれど。

 今、その全てが報われたような、そんな気持ちにカイニは包まれていた。

 それどころか、『貰いすぎなんじゃないかな』と思うくらい、カイニは幸せで暖かな気持ちになっていた。

 辛さは幸せで上書きされる。だから、人は生きていけるのだ。


(幸せ、かも)


 カイニはその気持ちをひた隠して、ぐっとこらえて、『好き』を飲み込む。


 勇者カイニには、キタに対して踏み込んで行けない理由があった。

 仲の良い兄と妹のようなこの触れ合いから、次に進めない理由があった。

 だから、こうなる前からしていた話を続ける。


「ボクはさ、ぶん殴った方がいいと思うよ、お兄さんの元仲間」


「僕は必要以上の暴力はいけないと思うかな。たぶん、彼らの性格上、僕が追放されたのは無能だからって以外に何か理由があるんだと思うんだ。それを知るまで、ちょっと待っててくれないか? カイニ」


「ボクは、悪いことやったやつは痛い目を見ないといけないと思うな。第一、本物のクズってやつは自戒しないと思うよ。仮にお兄さんが許したとしても、必ずいつかどこかでお兄さんにまた何かするだろうさ。ボクは旅の中で何度も見たんだ」


「や、別に許したってわけじゃあないんだ。暴力が絶対に悪とも言わないよ。なんというかこれは……暴力を持ってる人間が持ち合わせていないといけない、心得みたいなものだと思うんだよ」


 キタはカイニの頭を膝に乗せ、優しく撫で、優しく諭していく。


 カイニの本当の親が魔物に殺され、カイニが泣いていた時も。

 カイニが『親無し』と村の子供達にいじめられていた時も。

 カイニがどうすればいいのか分からなくなって俯いていた時も。

 いつも、キタはこうしてくれていた。

 この暖かさが、どんなに辛い時でも、勇者カイニを支えてくれた一本の柱。


「僕は理不尽な暴力で僕を叩きのめした仲間達を許してはいないし、カイニが僕の仲間達を暴力で叩きのめすのも良くないと思う。というかなんだろうな……『あいつ嫌いだから痛めつけたれ』ってのが良くないと思うんだ」


「……お兄さんって、どんな時でも当たり前のことを言うんだよね」


「そうかな?」


 十年前も今もそう。カイニが傷付いている時に、キタがカイニを更に傷付けたことは一度もなかった。カイニを撫でる手は優しく、暖かい。


 キタは暴力を否定しているわけではない。

 ただ、まだその時ではないと言っているだけだ。

 その手は暴力ではなく、慈しみのために使われている。


「暴力にはがある。暴力以外にどうしようもなくなってから、初めて暴力を使うべきだ。暴力で解決するようになった人間は、暴力でしか他人と関われなくなる。話し合いも、交渉も、恋愛や友情も、一度思いっきり殴った後には築けないことが多いからね」


「……」


「『暴力で従える以外の関係は要らない』って割り切った人間、たとえばかの戦争狂の傭兵王なんかはそれでいいんだろうけど……暴力は最後の手段でいい。最後の最後まで使わなくていい。それでいいと思うんだ、人間は」


 カイニはキタのために仇討ちがしたかった。けれど今それをするのは、キタの信念を裏切ることになる。だから今は殴りに行けない。それがなんとも、もにょもにょとした気持ちになって、カイニはキタに膝枕されたまま、キタを抱き締めた。


 ぎゅっと、ぎゅっと、ぎゅっと。

 今胸中にある気持ちの、ほんの少しでも伝わればいいなと思いながら。


「それでも……お兄さんを傷付けた人が今日も明日ものうのうと笑って生きてるだなんて、ボクには耐えられない。もしだけど、昔の仲間達がまたお兄さんをまた傷付けようとしたら、そりゃもうボッコボコにボッコボコにするからね、ボクは」


「ありがとう、カイニ。その気持ちだけで、僕はもう救われてる」


「……」


「優しいままの君で居てくれて、僕は嬉しい。本当にね」


 二人共、なんとなくに予感していた。

 『追放で縁が切れて以後金輪際関わらない』などということはありえない。

 キタを無能と呼び、追放し、痛めつけてから叩き出した彼らは、またどこかで巡り合うだろう、と。

 もしも最終選択肢としての暴力の出番があるとするならば、そこだ。


 キタには信頼していた仲間達が居た。

 だが、裏切られた。


 変わってしまった仲間達がいて、変わっていない妹分がいた。

 昔も今もずっと変わらず、他人の痛みのために怒れる女の子のままだった。

 それが嬉しくて、キタはずっとカイニの頭を撫でている。

 ふふっ、とカイニが笑う。


「お兄さん、変わってないね。ボクの思い出の中のキミのままだ」


「カイニもだね。もうちょっと落ち着きのある大人の女性になってると思ってた」


「結婚は……できる歳になりました! ふふん、もう大人なんだよね」


「はいはい。じゃ、大人の女性はもう夜遅いから、気を付けて宿に帰ろうね」


「え、やだ。お兄さんと一緒に寝る」


「は?」


 と、いうわけで。


 抵抗するキタを無理矢理押し切って、カイニは同衾に持ち込むのだった。


「よいではないかよいではないかボクまあまあ美少女だよ」


「こらっカイニ……なんだこの腕力! 強っ!」


「お兄さん、ここでなぞなぞを出すよ。よよいの?」


「よい?」


「合意の『よい』頂きました。うん、ばっちり」


「誘導尋問だ! クールキャラ気取りの自分を思い出してくれカイニ!」


「クールキャラ……?」


「こいつ……記憶を……!」


 照れがあるのに男と一つのベッドで寝るための勇気を出せる、これこそが勇者の証だと言わんばかりである。

 ベッドの上で、カイニはおずおずとキタとの距離を詰めた。


「お前な、年頃の女の子がこういうのは……」


「あ、年頃の女の子だと思ってくれてるんだ? きゃあ、襲われちゃう」


「こいつ」


「冗談さ、冗談。……で、でも、抱きしめるくらいは許してるけど?」


「はいはい」


 絶世の美女の一歩手前、絶世の美少女と言っていいカイニに迫られれば、流石にキタと言えど揺れもする。揺れもするが、我慢する。

 優しく、包み込むように、ベッドの上でキタはカイニを抱き締めた。


 キタは二人並んで横たわる。

 十年前はよくこうしてたな、なんて思いながら。

 十年前はこんな柔らかい膨らみ無かったな、と自制しながら。


「何かお話してくれないかな、お兄さん」


「ん。何がいい? カイニのリクエストを聞くよ」


「なぞなぞとか……?」


「寝物語にする話じゃないなぁ。ああ、そうだ。十年会ってなかった間に見つけたものや出会ったこと、互いに教え合わないか?」


「おや、名案だね。嵐と雷雨と魔王軍が強かったけど、ボクはそれより強かったっていう話していい?」


「天候にマウントを取るな」


 ぽつぽつ。

 ぽつぽつと。

 二人は互いのこれまでの話をし始めた。


 これからの日々に希望を見るように、これまでの日々を語り始めた。


「───というわけで、火を吹くワイバーン種は自分の体内に油を溜め込んでる。その油に火を着けて、人で言う唾を吐く感覚で火を吐くんだ。そして、自分にその火が当たっても死なないよう、肉は高熱でも凝固しない。だからそのワイバーン種のステーキに火を付けると、体液が燃え上がるのに、肉はレアのままなんだよ。そういう、『生に近い燃え上がる肉』を出すレストランがあるんだ」


「へぇ。ボクは魔王を倒すのに一直線だったから、そういう寄り道は全然してなかったなぁ……面白そう……」


「今度一緒に食べに行こうか。カイニも時間はあるんだろう?」


「……うん、ありがとう」


 なんでもないことを話した。

 つまらないことを話した。

 適当なことを話した。

 ただそれだけで生まれる幸せな気持ちもあった。


「つまりだね、お兄さん。アンチライフフロッグは、熱湯をかけると飛び退くけど、水中に居る時に水温が徐々に上がると周りが熱湯になってても気が付かないんだ。A級相当の冒険者でも勝てないアンチライフフロッグだけど、水温を計算して火魔法を水面に撃ち続けてると、簡単に煮殺せるってこと」


「へー。面白いな。冒険者ギルドに報告したらお金貰えそうだ」


「かもね。戦いは工夫だよ、工夫」


「それだと、アンチドートフロッグは……」


「アンチライフフロッグね、アンチライフフロッグ。アンチドートフロッグは五年前に絶滅した方だよ」


「おっと、そうか。……話してて思ったが、いつの間にか絶滅した動物に詳しくなったんだな、カイニ。何故かは知らないがよっぽど勉強したんだろう? 偉いぞ」


「ふふん。ま、それほどでもあるかもしれないね」


「この分なら、昔苦手だった算学もちゃんとできるようになってるんだろうな。勇者になって立派になったじゃないか、カイニ」


「……」


「カイニ? カイニちゃん? 顔を逸らすな、おいこら」


 戦いのことはカイニの方がよく知っていて、それ以外のことはキタの方がよく知っていて、だから話せば話すほど未知を知る楽しい気持ちが湧いてくる。

 話題から話題へ、ころころと転がるように話が繋がっていく。

 どんな話題でも楽しく話せることが、二人のつながりの証明のようだった。


 ただ、会話の中で、僅かに不審な流れになることもあって。


「アオア? ……お兄さんの仲間のエルフの名前が?」


「カイニ、どうかしたのか?」


「いや……おかしいな……どういうことなんだろう……いや、もしかしてそういうことじゃないのか……?」


 キタの耳に届かない声量で、カイニはぶつぶつ小声で呟く。


「アオアはカイニの知り合いだったのか? アオアなら確かに勇者のカイニと前線で出会ってることがあっても不思議じゃないが……」


「あ、ごめんね。たぶん名前が同じだけの別の人だと思うから気にしないで。なんか勘違いだったみたいだ」


「……?」


「それよりさ」


 不審な流れをキタに察知される前に、カイニはちまちまと流れを戻していた。

 キタもうっすらと察してはいたが、踏み込まない。


 十年前から今日に至るまで、キタはカイニを甘やかすタイプである。

 カイニが踏み込まれたくなさそうにすれば、キタは大体踏み込まない。


 だから、待った。

 過酷な旅から帰って来たカイニが『本当に話したいこと』を漏らすまで、キタは急かすことなく待った。

 楽しく話題を転がして、カイニが話す時はちゃんと耳を傾けて、カイニが話しやすい空気を作って、そうして待った。

 キタは無理に踏み込まずに、カイニが自分から漏らすのを待った。


 それが一番穏便に隠し事を共有できる語り口で、他人の苦しみを和らげてあげられる話法であると、キタは経験から知っていた。


「仲間のおかげなんだ、ボクが魔王を倒せたのは。奇跡中の奇跡みたいなものだったんだ。一万回やって一回勝てるかどうかってくらいに、強い魔王だったんだ」


 だから、少しずつ、少しずつ、カイニは胸の奥に押し込んでいた感情を、記憶を、思い出を、自然と口に出すようになっていった。

 ベッドの中で二人きり。

 距離は0。

 夜の闇の中、互いの吐息がかかる距離。

 ほんの少しの非現実感が口を滑らせる。

 カイニを『立派な勇者』から、『ただの女の子』に引き戻す。


「僧侶のカエイは、誰よりも優しい女の子だったんだ。ボクなんかよりずっとずっと可愛い女の子だったんだよ? 本当だよ。可愛くて優しいから、旅先のどこに行ってもそりゃもうモテるんだよ。でもね、故郷に結婚を約束してた人が居たんだってさ。その婚約者が生きる未来の平和を守るために、ボクについて来てくれたんだ」


「うん」


 声が震えていた。


「弓兵のキアラは凄腕の弓使いのお爺ちゃんだったんだ。でも、すっごくスケベジジイでさ。ボクとカエイがお風呂入ったり着替えたりするとすぐ覗いて来るんだ。で、ボクがそのへんの石とかを全力で投げつける。すると、ひょいっと矢で撃ち落としてしまうのさ。技術の無駄遣いをするんじゃない、ってボクは怒っちゃうわけ」


「うん」


 声が震えていた。


「重戦士のコロカはボクに惚れちゃってたみたいでさ。や、モテる女はつらいねーって感じで。でも恋人にするにはちょっと生理的に無理なくらいフケツなヤツだったんだよね。友達にするならいいやつだったんだけどなあ。……そういえば、コロカがボクの何を好きになったのか、最後まで聞けなかったな……」


「うん」


 声が震えていた。


「最後の戦いで、皆死んじゃったんだ。皆が犠牲になってくれたから魔王を倒せたんだ。だからボクは一人で帰って来た。犠牲無しに勝てない、本当に駄目な……偽物の勇者で……何を間違えちゃったんだろうって、ボクは思って……」


 声が震えていた。


 キタが優しく髪を撫で、子供をあやすように、カイニを落ち着かせる。


「カイニは間違ってなんかない。偽物の勇者でもない。あっという間に世界の半分以上を制圧した魔王ズキシを倒せたのは君だけだ。胸を張っていい」


「……」


 キタが諭し、カイニが言葉に詰まる。


「他の誰が否定しても、君自身が否定しても、僕はカイニがよくやったと言う。頑張ったな。どんなに辛くても辞めなかったカイニの頑張りを誇りに思うよ」


 闇の中で、誰かが鼻を啜るような音がした。


「ぐすっ」


 少女が嗚咽を堪えるような音がした。

 カイニが更に密着し、キタを強く抱き締める。

 カイニが顔をうずめたキタの胸元に、涙の雫が流れ落ちていた。


「皆居なくなっちゃった。ボクさ。もう、お兄さんしかいないんだ。きっと……」


「これからがあるだろう? 友達だって仲間だって、また作れる」


「何言ってるのさ、もう。ボクに媚びたらたぶん世界の何だって動かせるって、分かってないのかい? 世界を救った勇者なんだよ、ボクは。どうやったって、もう普通の友達を新しく作ったりなんて出来やしないさ」


「……」


「でも、それでいいと思うんだ。ボクは望んでそういうものになったんだから」


 政治的にも、軍事的にも、宗教的にも、これから先に多くの者達が勇者にすり寄ろうとすることだろう。


 偉業は人を英雄にする。

 個人を記号にする。

 少女を象徴にする。

 『世界を救った勇者』になった彼女に、何の打算もなく接することができる人間はもう、この世にほとんど残っていないのかもしれない。


「仲間が居なくなっても、たった一人でも、ボクは歩いていかないといけないんだ」


 偉業を成し遂げた勇者と、仲間に無能と蔑まれて捨てられた男は、天と地ほどに差がある存在であると言っていい。

 前者が宝石ならば、後者は石ころだ。


 されど、真逆の存在であるというわけではない。

 成し遂げた勇者と、追放された男には、共通する感情が一つだけあった。

 それが、『孤独』。

 仲間を殺された勇者と、仲間に裏切られた男には、等しく孤独の苦痛があった。


 勇者カイニの普段の振る舞いは、この孤独の苦痛を覆い隠すベールでもあるのかもしれない。そのベールを、カイニはキタ以外の前で脱ぐことはないのだろう。


「あったかいね、お兄さんは」


 僅かに震えたカイニの肩を、キタは優しく抱き寄せる。


 それが彼女に『兄』と呼ばれる自分が果たすべき責任だと、そう思ったから。


「水とお湯を混ぜると温くなるのは、互いの体温が同じくらいになるまで抱きしめ合ってるからなんだってさ。カイニが暖かいならそれでいいよ。僕の体温で良ければ、いくらでも持っていくといい」


「……ん。ありがと、お兄さん」


「大丈夫。お前を一人になんてしない。ずっと傍にいるから」


 カイニが安心した寝息を立てるまで、キタは己の体温を伝え続けた。


 世界を救っても一人ぼっちになるのなら。

 仲間を信じても一人ぼっちになるのなら。

 人は、どう生きていけばいいのだろうか。


「辛い過去の出来事を、無かったことにできたらいいのにな……」


 仲間を殺されて一人になったカイニを抱き締め、キタは鼻の頭をさする。

 親友だと思っていたダネカの拳から受けた痛みが、まだそこに残っていた。

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