普通の人になりたい

 不意に、唇になにか柔らかいものが触れた。


「い…ち、か?」

 三好は答えずにもう一度僕の唇に柔らかい唇を重ねた。ぞわり、と鳥肌がたった。まるで、同性の友人に唇を奪われたような。そんな、感覚だった。


「やめろ!」


 僕は思わず三好を突き飛ばした。ゴツン、と鈍い音がして、彼女が本棚にぶつかったことがわかる。顔から血の気が引いた。ああ、僕はなんてことを。


「皓也君……?」

 三好は本棚にぶつかったときのまま固まっていた。みるみるうちに見開いた大きな目に涙がたまっていく。

「…………ごめん」


 こうやくんは、わたしのことがきらいなの?

 消え入りそうな声で三好は訊いた。


「別れよう」

 僕に言えるのは、それしかなかった。たとえ何を言ったとしても、三好を傷つけてしまうことには変わりない。もしも謝って許してくれても、僕は絶対に彼女の気持ちに応えることはできないのだ。


「なんで? なんでなの。嫌いだったら、告白なんて断ればよかったじゃない。なんでいいよって言ったの? ねえ、なんで!?」

 三好、僕は君のことを傷つけた。同じ気持ちじゃないのにそうなれるかな、と期待して軽い気持ちで付き合った。初めから答えは想像できたのに、それでも無謀な賭けをした。


 でも、途中までは本当にそうなれるのかと思ったんだ。


 ――だって、三好のことを抱きしめていても嫌じゃなかったから……。

 でも、キスはだめだった。抱きしめるんだったら、友人でもするだろう。友人以上のことを、僕は気持ち悪いと思ってしまった。


 なんで、そんな賭けをしたか?

 それは、普通のひとになりたかったから。

 僕はね、女子を好きになりたかったんだ。

 女子に、興味を持ちたかったんだ。

  僕はただ、普通のひとになりたかっただけなんだ。


 ねえ、僕の望みはそんなに贅沢なことなのかい。


「皓也君!」

 三好はとうとう叫び、僕ははっと我に返った。

「ねえ、聞いてるの? なんで? 私じゃ、だめなの!? 悪いところがあるなら直すから。ねえ、お願い。理由を、教えて」


 三好が一言言うたびに、僕の胸の底には黒々とした澱のようなものがたまって渦を巻く。

「なんでも、聞くから。だから、話して……?」

 そう言って彼女は僕の頬に手を伸ばす。


「触るなッ」

「っ……なんでも、聞……」


「うるさい!」


 とうとう僕は怒鳴った。うるさいうるさいうるさいうるさい。そんなきれいごとを振りかざして、あたかも理解者ですみたいな顔をして、いざ本当の理由を言ったら気持ち悪いと逃げ出すくせに。

 理解できるわけもないのに聞きたがって、なんにもできないくせに話を聞くよとか言って……。だって、お前は、女で、男が好きだから。男を好きになれるから。お前には、一生俺の気持ちはわからない。何回生まれ変わったって絶対にわからない。


「ねえ、なんでそ……」

「うるさいって言ってるんだ! お前、本気で俺の気持ちがわかるとか思ってるの? わかるわけないだろ。絶対にわからない。死んだってわからない。何回生まれ変わったってわからない。だってお前は、男子を好きになれるから!」


「そんなの関係な……」

「関係ないわけないだろ。お前なんて大嫌いだ。もう一生女子となんか付き合わない!」

「なんで、じゃあ男とでも付き合うつもりなの」


「女子と付き合えないならどうすりゃいいって言うんだよ!」


 声が裏返った。喉が痛い。自分が一言一言言うたびにそれは鋭い針になって全部自分に向かってくる。三好は少しだけ眉をひそめた。瞳を覆う驚きには、隠しきれない「異常者」を見る色が混じっている。


「俺、帰る」


 僕は、あっけにとられている三好を置いて玄関を飛び出した。


 僕は玄関を飛び出したときの勢いで家までの道を走っていた。いつの間にか粉雪がちらついて、口から吐く息は白い。

 キスされたときのぞわぞわとした感覚がまだ肌に残っている。突き飛ばしたときの三好の顔も、怒鳴ってしまったときの三好の涙も脳裏にこびりついて離れない。三好は、確かに温かかった。体温は、僕の腕の中に抵抗なく収まったのだ。そして、僕はそれを大切にしたいと思った……。


 ――なのに、キスを受け入れることはどうしてもできなかった。受け入れたかった。彼女の気持ちに応えたかった。けれど、できなかった。好きとか嫌いとか言う前に生理的に無理だったのだ。


 これでわかってしまった。僕は、女子を好きになることはできないということが。

ごめんなさい。先祖のみなさん。對不起。對不起。對不起。何度でも謝りますから。多分、無理だろうけど。それでも、どうか、どうか僕を普通のひとにしてください。

 雪はだんだん激しくなって、吹雪が頬を撫でる。体温で溶ける雪が頬を濡らした。喉の奥に何かが詰まったような感じがして胸が痛い。水滴が顎を伝って落ち、口の中に入った。塩の味がした。そこで僕はようやく自分が泣いていることに気づいた。

 雪と涙が混じったそれは、あふれるたびに風に吹き飛ばされていく。


 息が苦しい。喉がヒューヒューと変な音を立てる。それでも僕は走り続けた。やみくもに、目的地などまるでないように。バスで二駅ほどの距離だからそれほど遠くはないはずなのに、いつまでも終わらない道を走っているような感覚に襲われた。

 どれほど時間がたったかもわからない。やっと家が見えてきたが、僕は速度を緩めなかった。機械的に鍵を開けて家に入り、何も考えずに靴を脱いだ。そのまま自室に入って扉を閉めると、外の世界の音が完全に聴こえなくなった。


 息を整えようとするも、喉の奥が震えてうまく息ができない。手の甲にぽたぽたと落ちる水滴があって、温かさから溶けた雪のしずくだけではないことを知る。

「……っ…ふ……っぅ……っ」

 息を吐くたびにこらえきれない嗚咽が漏れた。


 なんで。僕は、女子と付き合えないの。なんで、僕は普通のひとになれないの。陸玖とか三好とかいろんなひとを巻き込んで、傷つけた。やっと、普通のひとになれると思ったのに。あんなにいろんなひとを巻き込んだのに、女子を好きになれることはおそらく一生ないのだろう……。

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大好きって、いわないで。 Adeli @adeli

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