一華って呼んで

 言ってしまってから少し後悔した。嫌いだ、なんて言わなくてもよかったのに。陸玖はどんな顔をしているのだろうと心配になって目をやると、僕はぎょっとした。

 陸玖は目を見開いて、彫像のように固まっていた。その顔がみるみるうちにゆがんでいく。


「……皓也は」


 唇がゆっくりと開いて震える声がこぼれる。


「俺のこと、嫌い……なの」

 もともと色白の肌から血の気が引いてまるで紙みたいだ。待ってよ。なんでそんなに動揺するの。


「違うよ……」

 いや、否定しない方が良かったのかもしれない。大好き、の意味が重ならないなら、いっそのこと嫌われた方が楽なのかな。


「皓也」

「……なに」

「皓也が俺のこと嫌いでもね、俺は皓也大好きだから……」

「…………っ」

「じゃあね」


 陸玖はひどく悲しそうな顔になって、くるりと背を向けて窓から自分の部屋に入っていった。

 最悪だ.。陸玖は能天気バカで単純に見えるけど――実際そうなんだけど――嫌いとかそういう言葉に人一倍敏感だった。それを、僕が忘れていたはずはないのに。


 ――皓也が俺のこと嫌いでもね、俺は皓也大好きだから……。

 陸玖が帰り際に放った言葉が脳裏でなんども繰り返される。ほんとうに、最悪だ。嫌われていると思わせた。僕が楽になりたいからって陸玖まで傷つけた。


 好きなひとに、あんなことを言わせてしまった。

 僕はいったい、どうすればいいの。

 ピロンと鳴ったスマートフォンの通知音がやけに大きく聞こえた。


「誰だろ」

 陸玖かな。少し期待しながらロックを解除すると、胸に重石を載せられたような気分になった。メッセージアプリの通知欄に表示された名前は「三好一華」。


「なんだろ……」

『二十四日、どこか行きたいところとかある? 私は皓也君に合わせるよ』

 そう言われると思いつかない。

「実質、デートみたいなものなんだよな」

 つぶやくと自分は三好と付き合っているという事実が急に現実的になってきた。

『映画とか、どうですか』

 短く入力して送ると、いいよとすぐに返事が返ってきた。かわいいスタンプも一緒に。


 映画か。バスで行ける距離にある、某大型商業施設に併設されているあれだろうか。待ち合わせの時間と場所を決めて、なんだか自分だけ敬語で事務連絡みたいだなと思った。

 数少ない友人や陸玖ですらも滅多にやりとりはしないし、台湾の親戚や両親には中国語でメッセージを送っている。日本語のくだけたやりとりというのが僕にはどうにもよくわからなかった。


『楽しみにしてるね』

 三好からはそんな風に返ってきたけれど、僕はとても同じ気持ちにはなれなかった。むしろ、不安や恐れすらも抱いていた。怖い。怖い。怖くてたまらない。何への不安なんだろう、これは。



 十二月二十四日。午後からの予定なので、昼食は家で食べた。僕は待ち合わせ場所に五分ほど前に着いた。すでに三好は着いていて、僕の姿を認めるなり満面の笑みで大きく手を振った。だから、やめて。そんな嬉しそうな顔しないでよ。

「皓也君、観たい映画ある?」

「三好に任せるよ」


 冬らしいモフモフの上着に、ベージュ基調で黒の模様が入ったスカート。マフラーに顔をうずめて、指先にしきりに息を吹きかけている。これで何も感じられない僕は、やっぱり異常なんだろう。

「あの、あのね……お願いがあって」

 頬を染めながら三好は上目遣いに言った。


「なに?」

「あの……一華って、呼んでくれないかな……」

 名前呼び、か……。三好と呼ぶことで、一線を画してきたつもりだったが本人からしたらその一線を取り払いたくて付き合おうと言ったのだろう。――でも、そうすると三好の存在が大きくなりすぎそうで怖かった。


「ん……でも、三好、の方がなんかしっくりくる」

 彼女は少し残念そうな表情を見せたが、すぐにぱっと笑顔になって映画楽しみだね、と言った。

 ごめんなさい、僕はあなたに好きになってもらうほど価値のある人間じゃないんです。

 あなたが思ってるよりずっとずるくて、女子に興味が持てない異常者で、いろんなひとを振り回す最低なヤツなんです。

 しっくりくるとかそんな理由じゃなくて、ただただ名前で呼びたいのは陸玖だけっていう最低な理由なんです。


「楽しかったね」

 映画が終わると、三好はにこにこしながら弾んだ声を出した。どうしたらそんなに楽しそうな顔ができるの。

「そうだね……」

「ねえ、この後どうする? 行きたいところとかある?」

「え……」

「んと……あの、特になかったら、私の家に来ませんか……?」


 なんで敬語なんだろ、と自分で言って三好は僕の目を見つめた。断るのもおかしいだろう。僕はいいよ、と返事をした。

 バスに乗って昼に待ち合わせた場所まで戻ってきた。三好の家は川沿いに少し歩いたところに立っている一軒家だった。


「お邪魔します」

 家に上がって靴をそろえるのを三好はじっと見ていた。

「親御さん、いない?」

「今日は仕事なの」

 三好は短く答えて私の部屋二階だから、と階段を上り始めた。僕はそれについていった。

「何する?」


 そう言われても、良い案は見つからなかった。視線の先に本棚を認め、僕は思わずあっと声を上げる。感動系の小説で有名な某作家の本がほとんど一段を占めていた。

「え、皓也君この作家さん知ってるの?」

「うん……。一時期はまってた」

「そうなんだ! 読んでないのとかあったら読んでいいよ?」


 またしても表情を輝かせた三好は本棚から何冊か抜き出して僕の前に置く。いや、だからなんでそんなに嬉しそうなの……。僕なんかのどこがそんなにいいのか、全くと言っていいほどわからない。


「ありがと」

 僕は三好が差し出した本を手に取って一ページ目をめくった。ああ、この文体だ。この、無機質な字の羅列に命が吹き込まれる瞬間。

「皓也君、どう……かな」

 まだたったの三ページしか読んでいないのに三好は瞳をきらきらさせながら問うてきた。その表情が妙に陸玖と重なって腹が立つ。


「最高。嬉しい、読みたいと思っていた本だから」

 それから僕たちはその作家さんの本についての感想を語り合い、時間が経つのも忘れるほどだった。――それでも、怖い。時間がたてば経つほど、楽しくなればなるほど、僕の中にある得体の知れない不安は大きくなっていく。


「ねえ、皓也君って普段から本読んでるの?」

 問われた拍子に三好が軽くこちらに体を寄せてきて僕は思わずびくりとした。

「割と読む方かな。本は、好き」

「そっかあ。あ、プロローグ終わったね」


 三好の頭が僕の胸に近づいて、シャンプーの良い匂いがした。

「俺、読むの遅いから」

「そうなんだ。――フリース、もふもふだね。触っても良い?」

 いいよ、という前に三好は僕の着ているフリースを撫でまわした。


 ――距離感に、戸惑う。

 陸玖とはこんなことは日常茶飯事だが、同級生とはいえ一応付き合っている女子にこんな風に触れられるとどうしていいかわからなかった。嫌というわけでもないが、かといってどきどきしたりするわけでもない。


「三好も、上着もふもふじゃん」

「えへへ、そっか。あったかいね、皓也君」

 三好は僕に抱きついて頬を赤らめた。暖かい。嫌な気は、しない。これはもしかしてもしかすると――。

「一華も、あったかい」


 僕は三好の華奢な肩を抱いた。陸玖の面影を頭から振り払いながら。

「……皓也君」

「なに?」

 三好の体温を感じながら僕は訊いた。

「すきだよ」


 三好の顔が、首まで真っ赤に染まっていく。俺も、って答えてあげなきゃ。大好きだよ、と言わなきゃ。ねえ、なんで言えないの。喉の何かが詰まったみたいに言葉が

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