閑話 櫻葉カズマ
アンドレ・シルバという男は変わった男だった。
出会ったのは、取引の為にミヤトまで出ていた時、たまたま入った酒屋だった。近くの席に小綺麗な異邦人がいるなと目に入ってきたくらいの認識だった。丁度異国の文化、或いは変わった調度品を扱いたいと思っていた櫻葉は、繋がりだけでも持っておこうと声をかけたのだ。
見た目は恵まれた体格で顔つきも鋭い男だったが、話してみれば警戒心が薄く、気さくで、人懐っこい。まるで小動物のような男だった。何ともない話から始まって、酒を三杯空けた頃には彼らは
アンドレから聞く異国の話は興味深いものばかりで、櫻葉も彼に気を許していた。彼が勝手につけた渾名で呼ぶことを許し、文化を学ぶために異国の地に遥々やってきた彼を、金銭面でも支援しようという話にもなった。
良い友人であったはずだ。アンドレが拒まねば、あれたはずなのだ。
話が変わったのは、彼から不思議な香の話を聞いてからである。
ユラ王国に伝わる香は、櫻葉にとって初めて見るものだった。おそらく、この国のほとんどの土地でそうだろう。売りつけた誰もが、目を輝かせたのだから。
香りで精神に作用する不思議な術。妖術とは異なり、火をつけてその香りを嗅がせればそれでいいのだ。妖具も同様だが、こちらの方が作り手を選ばない。
ただ楽しむ為のものから、中にはもっと欲しいと苦しむような中毒性のある煙もある。人にも知られていないのならば、これを使えば容易くもっと良いものを狙えるのではないか────櫻葉はこれを勝機と見た。
この材料の組み合わせではどんな作用がある? 食うと毒だと言うが、ごくごく微量を食べさせてみればどうなる? 大人と子供とでは作用の差はあるのか? 紋様は深く刻むのと浅く刻むのとでは作用に差があるか? 疑問は次々に湧いてくる。だと言うのに、アンドレは途中から知識の提供を渋りだした。
「きみは目を覚ますべきだ、サクラ」
最初は軽い小言と、時折勝手に研究中の香を無害なものに書き換える、そんな妨害だった。いつしか彼は表立ってぎゃんぎゃんと喚くようになったのだ。
「ボクらの香術をそんなことに使わないでくれ」
「そんなこととは。これはゆくゆく人の為になることだ」
「きみの行為は祖国では大きな罪に問われることになる。人の心を乱す香は使用してはならないのは当たり前だ」
「おぬしの祖国は中々に清廉な国のようであるな。ははは、我が国もかくあれればよいものを、なんと羨ましいことか」
「サクラ、ボクはきみだから教えたんだ! 友のきみだから! 吸い慣れたわが国の民ならいざ知らず、この国の人は一度も香を吸ったことがない。それがどんなに危険かわかるだろう⁈」
「ふむ、これを麻酔として使うならば、どれほどのものなのかは知っておかねばなるまいよ。これも医術の進歩のため──」
「友をばかにするなよ、サクラ。ボクは知っているんだ、きみがこの香を汚い手で売りつけていると言うことを」
聞けば呆れ、そしてかあっと身体中が熱くなる。
櫻葉が事業の傍で中毒性の高い香を、余裕のない者に売っていたのは確かだ。彼らは香を買うために金を惜しみなく差し出して、金も持ち物もなくなれば屋敷に雇われた形でなんでもやるようになる。私兵が増えればできる商売も増えてくる。
だと言うのに、アンドレはすぐに人々の解毒にかかったらしい。「この前の香のおまけ」と称して新たな香を与えては櫻葉に小言を言う。いくらアンドレが専門家ではないにせよ、小さい頃から慣れ親しんだ人と、聞き齧って覚えたての人とでは技術に雲泥の差があった。
大した成果を上げる前に香は無効化されていったのだ。
憤怒。
櫻葉としては折角の実験を
うるさいほど思いとどまるようにと懇願するアンドレに、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「出合え! 此奴は櫻葉を潰さんとする異邦の
ひと声、それだけでいい。屋敷にいる私兵が片付けてくれるはずだった。実際深手は負わせた。
アンドレに関しては「はずだった」ことが多すぎるのも、櫻葉を苛つかせた。
「あの男は、あの技術は誰にも渡さん。そうだ、殺すのも問題になっては困る──まだまだ知りたいことがあるのだ。おまえは永遠に儂の所にいればよい」
生け捕りにするように、ただし動けぬように足は潰せと命令して追手を放った。徹底的に痛めつけて、誰に従うべきかを刻みつけて、大人しく知識を渡せば友に戻れると言えばそれで元通りだ。
時が経てば
しかし存外、アンドレはしぶとく逃げた。死体も見つかっていないのだから生きてるのだろうが、町中や付近の街道に放った追手の誰も有用な情報をもたらさない。
苛々が募ったある晩──やっと、痕跡をみつけた。
「旦那様、あの異邦人についてお耳にお入れしたく」
町に放っていた私兵の一人が報告に来た。
「なんだ、彼奴を見つけたか?」
「は。現在複数名で追っております。巧妙に頭巾で顔を隠していますが、銀の髪をした男が町を
「ふん、銀髪なぞこの国にはそうそういないな」
銀髪はユラ王国の民の特徴だと、アンドレ自身が教えてくれたことだった。幻惑の香でも使って姿を誤魔化したか、もしも本当に違う人なのであれば当面アンドレの代わりにしてもいい。ユラの民であれば、誰でも作れるという話だ。
「儂が出向こう。なんといっても友だからな──顔を見れば奴も思い直すであろうさ」
「なんと、旦那様がわざわざ出向かずとも、我々でこちらに引き連れて参ります。万が一がありまする」
「否や、二度言わせるな。アンドレとは儂が直接話さねばならぬのだ。どうせ頼れる
「は」
「通信用の妖具はあったな。町の外にいる連中も呼び戻せ」
「ただちに」
櫻葉は刀を腰に下げて、買ったばかりの火筒を懐に忍ばせる。手に入れるのに苦労をした高い妖具だが、引き金を引けばよいだけの飛び道具というのは強い。大枚を叩いて、私兵にも持たせている。
「もしもおぬしが抗うのなら──愚かであれば、最期を楽にしてやるのも友の務めだろう。しかしアンドレよ、ばかな選択はするなよ──」
殺したくなどないのだから。
櫻葉は屋敷を出た。左右に提灯を持った男、背後にも三人控えさせて、その全員を武装させている。大きな騒ぎさえ起こさなければ町役人も特に何も言わないようにと、日頃から金は積んでいた。今回のことも握り潰してくれるだろう。
屋敷を出て、やや暗い木々の下を歩いていると、提灯持ちが止まった。「旦那様、あちらを」と促されて見た先に人影がある。
風が吹いて、頭巾が揺れ、ふわりと懐かしい香りがする。隙間から溢れた髪が、僅かな明かりを拾って銀色に輝いた。顔は見えない。
「────サクラ」
そう呼ばれた気がした。
「アンドレ・シルバ!」
つと、影が駆け出した。櫻葉は慌てて「追え!」と叫んだ。自身も駆け出す。
この時からすでに、嫌な予感はしていた。
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