(拾弐)悪縁を切りたい男
幸い、小屋まで行く間、人の気配は感じなかった。
木立の中を駆けて暫くすると、崩れかけた小屋が目に入ってくる。辺りの草はぼうぼうに茂っていて、壁なんかも穴だらけ、おまけに戸は傾いていた。
確かめるまでもなく、人が住んでいるような場所ではない。鼻先に微かに香る香の甘ったるい香りだけが、人のいた痕跡として残っていた。
「ここですか」
「ここだ」
聞けばここで間違いないと言う。ユキは壊さないように戸をずらしてくぐった。
中も非常に狭い空間だった。
移動中に男は座れるくらいには回復したらしい。彼自身も「一体きみはなんの薬を使ったんだ」とユキに問いかけていたのだが、何の変哲もない草だけだと知ると、何かぶつぶつと呟いていた。ユキがその細腕で、自分よりも上背のある大の男を抱えたことも何やら言っていた。
実際はおえんがユキに妖術を施したのだが、当然彼にはおえんが見えていない。ユキ自身の能力だと捉えているのだろう。
男は這うようにして手近な床板を持ち上げると、床下から薄汚れた袋を取り出した。中から出てくるのは、香炉と幾枚かの銭貨である。
彼はちらりとユキを見上げた。
「きみのそれは、妖術というやつか」
「知ってるんですね」
「まあな。ボクが異国の民だから知らないと思ったのかも知らないが、これでもヨウの国の文化を学びにきた留学生なんだ。勉強はしている」
そういえば、ユキと流暢に会話しているなと今更気がついた。ユキは当然、異国の言葉なんてわからない。
男の顔色は当初よりもずっと良いものになっていた。呼吸も荒くない。紡ぐ言葉も滑らかになっている。
「そうだったんですね。妖術で間違いないです。俺のはまだ、学んだばかりなんですけど」
「初めて降りた港町でも見た。人が、自分よりもうんと大きな荷物を持っていてさ、最初はどんな理屈かと、たまげたね──まさかきみのような子供まで使うとは。しかし使ったら、たくさん休まなきゃいけないほど疲れると聞いたが、平気なのか?」
「……大丈夫、です。多分」
そうは言っても確かに目眩がひどかった。いきなり力が抜けて、空腹時のような、末端まで力の入りきらない感覚が襲ってきた気がする。男は心配そうに顔を顰めた。
「どうしたんだ、いきなり。頼りない」
「すみません。俺も習い立て、なんですよ」
「そうなのか……、いや、それは無理をさせて悪かったな」
男はもう何枚か銭貨を取ると、ユキに手渡した。立花がくれた路銀よりも多い。
ユキには相場というものがわからない。もらい過ぎだと咄嗟に判じた。
「俺は運んだだけです」
「無理をさせたしな、それに手当も含めてだ。きみの手当はいいな、不思議とよく効いて、軽い痛みは残ってるが、もう身体を動かせる」
「……一応、ちゃんとした人に診てもらった方がいいですけど、町には行きたくないんですか」
「行きたくない」
「……そうですか。俺もそろそろ休む場所に戻ろうかと思うんですが──薬草だけ採ってきましょうか」
いくらなんでも銭を貰いすぎたので、とユキは呟いた。薬草も僅かになら荷物の中で萎びているが、使うには数が少ない。採ってきてから休めばいいはずだ。
しかし男はゆるりと頭を振る。
「いや、どうせこの場所もすぐに移動することになる。特徴を教えてくれるだけでいい」
「それなら、少し待ってるのでそれをどうぞ。実物があった方が、探しやすいですよね」
「恩に着る…………ところできみは、ボクに理由は聞かないのか? 町に入れないこととか、何があったのか、とか。きみくらいの歳の頃は野次馬精神が旺盛なものだと思っているんだが」
訝しむ視線をユキはさらりと躱した。
「誰だって、言いたくないことはありますから。そうでなくても、俺たちは会ったばかり、そしてすぐに別れる縁です」
「そうか、そうだな」
男は考え込むように視線を落とした。色々と考えることがあるのだろう。ユキが出自と旅の目標を隠したいのと同じく、彼にも隠し事がある。それも、こそこそしなくてはならないほどのものが。
あまり厄介ごとに首を突っ込まない方がいいのはわかる。
ウッカリ背中の傷に、見たことのない父の最期を連想してしまった故に手をだしたが、この男の善悪すらわからない。
長考の末、男は突然ユキの手を握りしめた。ユキは少しだけ眉根を寄せてしまう。
「あの────」
「頼む! 少年よボクを守ってくれないか」
「守る?」
「きみは剣士だったな。剣は振るえるんだろう? ボクを軽々と運べるくらいに妖術にも覚えがあると」
「多少ですが──」
「多少でもボクよりはいいはずだ! 紹介が遅れた、ボクはアンドレだ。シルバ村のアンドレ」
彼──アンドレは、ユキに深々と頭を下げていた。当然、狼狽える。
「あ、あの、アンドレさん」
「頼む、剣士の少年よ。きみ以外に頼れる人を知らないんだ。ボクを助けてくれ! 数日で構わない。謝礼金も払うし、この国じゃ得られない面白いモノを君に贈ろう。だから逃げきるまで、ボクを守ってほしい」
ユキとおえんとにとって初めての仕事だった。
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