(拾弐)はじめの一歩

 使用人頭の立花は重たい溜息を吐きながら屋敷の長い廊下を歩いていた。


 昨晩遅くに坊ちゃんが倒れた。


 流行病のひとつにもかかったことのない彼は、ほぼ初めての発熱と身体の痛みに苦しんだ。異変に気がついた奥方が人を呼び、屋敷はすぐに慌ただしくなった。

 今日は朝も早よから屋敷中が動いている。

 それなのに、咎人の子だけが来ない。朝の炊事にも来ない。もうすぐ昼間だと言うのに姿を見せる気配すらない。サボったことなどこれまでないのに──。

 そこでようやく、立花は昨日のことを思い出したのだ。書類を片付けているところに咎人の子が音も立てずに駆けてきた。


「坊ちゃんからのご指示で蔵の掃除をするので、明日の朝は遅れるやもしれません」

「蔵?」

「我楽多蔵です」


あの少年の何の感情も見せない黒目がちの大きな目で見上げられるのは苦手だった。「坊ちゃん直々の命です」と、彼はそれだけ言うとさっさと何処かに消えていった。後で聞いたところによれば他の人にも伝えに行ったらしい。


(まったく、愚かな子だ)


 大方、掃除をダシに呼び出されて、まんまと閉じ込められたのであろう。あれはまだ陽があるうちだったから、閉じ込めた当人が倒れて開けられないとなれば、あの少年も腹を空かせて倒れてるかもしれない。

 イナタはあの少年を嫌っていた。今日もうわ言で恨めしげに少年の名を呟いていた。それも仕方がない。忌むべき出自でありながら、本来ならば自分に向けられるべき父の愛を享受しているのだから。


 芥間イヅミによれば「親友と生き写しの子だ、愛情も関心もあって当然だろう」と言うことなのだが、それならば実の息子にこそあって当然だと誰もが思っていた。

 穏やかな人ではある。しかし誰ひとりとして当主に物申す人はいない。奥方はこれに何度も諫言かんげんしたものの、芥間イヅミは黙してこれを聞き届けることはなかった。興が削がれることを言うなと言外に伝えていた。

 故に、何も変わらないまま時だけが過ぎた。

 あの少年もばかだ。せめて見つからないように生きていけばよかったのに。


 我楽多蔵の前まで来れば、なるほど、しっかりと錠前が下りていた。しかし妖術での施錠はされていないらしいと、立花はほっと息を吐いた。あの類の取り扱いは得意ではないし、まさか妖術を使ってまで閉じ込めるほどの邪悪性はイナタにないのだと胸を撫で下ろした。

 蔵の鍵を開けると埃くさい空気が鼻先を通り過ぎる。光が差し込んだ蔵の中は存外片付いていて、与えられた仕事はきちんとしたのだと察する。アレはそういう子だ。


「おい、いるのか」


声を掛ければ、


「……立花さん、おはようございます」


物陰からひょこっと黒い頭が覗いた。普段通りの無表情に疲弊の色が濃く見える。きょろきょろと忙しなく辺りを見る。


「あの、坊ちゃんは……」

「急なご病気で臥せってらっしゃる。大分落ち着いたみたいだけどな。……おまえ、間違っても母屋には近づくなよ、これも疫病神おまえがいるせいだって騒ぎになってるからな──」


 本当に自分のせいであるわけもないのに、少年はひどく申し訳なさそうな、それでいて落ち着いている容体に安堵したような、複雑な色を見せた。

 立花はこの少年をばかだとは思っていたが、決して嫌ってはいなかった。文句も垂れずによく働くし、咎人の子として生まれただけで可哀想であるとも思う。


(……旦那様も、彼の好きにさせろと仰っていた。望む時に望んだものを与えよと。流石にそれは難しいが──)


この屋敷に、この少年代わりは大勢いる。働き者が去れば困るが、立ち行かなくなることは決してない。

 それよりも彼が此処に居続けることの方が困る。

 彼を恨むがあまりに坊ちゃんが体調を崩し、これが続けばロクなことが起きないのは明らかだった。少年がいる限りイナタの精神的負担は積み重なる一方だろう。次期当主として学ばねばならないことが多いのに、ハッキリ言って彼は邪魔でしかなかった。

 当主だって親友の子が去れば正しく実子と向き合えるかもしれないのだ。どうなるにせよ、彼が去れば状況は変えられる。

 少年は今年で十五になるはずだ。既にひとりで生きていける年齢ではある。立花はそこまで考えてから、重い口を開いた。


「俺が旦那様から裁量権をいただいているのは、知っているな」

「は、はい」

「それなら、この屋敷から出て行ってくれないか」


────と話は冒頭に戻る。



***



「荷物はそれだけか」


 立花から出ていくように指示されてから、慌ててユキは身支度を済ませた。とは言っても荷物はほとんどない。妖刀えんきり本体はおえんが持っている。妖術は施したと聞いていたものの、ユキの目には普通に映る。見つかるのではないかとビクビクしていたが立花は蔵の中でも、外に出てからも気がついた素振りも見せなかった。

 騙していることに申し訳なさを感じながらも、ユキはさっさと裏門へと向かっていた。長居することはあまり得策ではないだろう。


「あの、これは手紙です。旦那様に」

「確かに受け取った」

「街に着いたら改めて手紙を送りたいのですが……」

「なんでもいいから、それとわからんような偽名を使ってくれればいい。こちらで処理をしておく」


 立花は最後にユキが余計なものを持ち出していないかを入念に確認して、裏門を開けた。門番はやっと見限られるのかと鼻で笑っていた。


「長いことお世話になりました。色々とありがとうございました」

「もう会うこともないだろう。ミヤトの街はあっちだ」


立花が指した方角を覚えて、礼を言った。なんだかんだ、この使用人頭はユキにとって親切だった。

 ユキが一歩二歩出るとすぐに、裏門は閉じられた。あっという間の出来事である。

 ユキはおえんから刀を受け取ると、ゆっくりと歩き出した。久しぶりに鼓動が高鳴る気がする。僅かな路銀と胡乱うろんな妖刀だけを手に、ユキの旅が始まった。


「おえん、ありがとう。もういいと思う」

「ぷはあ、疲れた! ほんとアイツでよかったナ? なんとか誤魔化せたけどヨ」

「おえんはなんでも出来るんだね」

「そーでもない。ま、今回は急拵きゅうごしらえさ。そンで、どーすんだ、ユキ?」

「そうだね。これからどうしよっか」

「決まってねェならさ、まずはあたしもおまえも久しぶりの外を楽しもうぜ!」


ミヤトとやらを目指すのはそれからでも遅くないだろ? と聞かれれば、ユキもすぐに頷いた。

 久しぶりに見た開けた空はとても広い。


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