第17話

 刀弥とうや天音あまねは階段を駆け上がる。

 すぐ後ろを変異体が追随するが、天音を先に行かせて刀弥が半身で振り返り、巨大な黒い犬に拳銃を向けて二発発射。気休め程度の牽制だ。

 天音は階段の踊り場を過ぎ、刀弥は踊り場の段に足をかけたところで、変異体の筋肉質な前足が階段の一段目にかかった。

 ご丁寧に一段ずつなど上っては来ない。恐らく二歩で踊り場まで辿り着く。

 刀弥は上着の内ポケットに手を入れた。

 鋼糸を取り出し、手すりの間にかけ、それを踊り場に向けて伸ばす。手すりの間に幾条も通し、踊り場の窓の鍵フックと手すりの間、窓の高い位置にある開閉用バーと二階側の手すりの間にも通す。即席の蜘蛛の巣のようなトラップだ。

 刀弥は踊り場を過ぎた手すり越しに更に二発発砲すると、そのまま階段を駆け上がっていく。視線の先では、天音が二階に辿り着き、息を整えながら刀弥を、その後ろに迫る変異体を見下ろした。

 耐荷重七〇〇キロ以上の鋼糸は、超重量・超パワーの変異体を捕えようと大きくたわみ、巨体の動きが止まる。

 止まった?と、天音は期待する。

 ―――が、手すりや窓枠の方が耐えられなかった。

 バキバキと手すりを固定しているビスが弾け飛び、場所によってはせん断され、鋼糸は犬の前足に絡まりながらも張力を保てずに階段上に落ちた。踊り場を塞ぐように張られていた鋼糸も、長くはもたなかった。変異体の猛進と踏みつけによる急激な張力により、強度の限界を迎えた窓枠が内側に弾け飛ぶ。変異体に衝突して一瞬動きを止めるも、結局得られたのは猛進を二、三秒遅滞させる程度のものだ。

 だが、刀弥にはそれで十分だった。

 刀弥は階段の最後の一段に足をかけた瞬間、全身のバネを使って跳び出した。

 階段に向けて。正確には、一瞬動きを止めた変異体に向けて。

 手には、心許ない大きさのダガーが握られている。

 その切っ先が、高低差を利用した跳躍によって、変異体の顔面に突き刺さる。

 その、右目に。


「グォォォォォォォォォ―――――――――――――――――ッ!!!!」

 

 耳を塞がずにはいられない、苦痛により発せられた咆哮が、校舎をビリビリと震わせた。

 刀弥は変異体の頭部に捕まり、ダガーを深く、これでもかと押し込む。刃渡り五センチ程度の刃物を、眼球内に柄まで埋め込む勢いで力を籠める。

 変異体の体がぐらりと傾く。

 枠が壊れ、ガラスが粉砕された踊り場の窓へと。

 そのまま窓の外へと投げ出されそうになり、刀弥は変異体の首を蹴り上げ、階段に転げ落ちる。

 変異体は、その勢いも相まって、窓の外へと投げ出された。元々一階から二階への階段の踊り場だ。あの巨体に投げ出されたこと自体のダメージはほとんどないだろう。

 だが、変異体は屋外に身を投げ出された後、すぐに背を向けて駆け出した。

「トレースしろ」

『おーけーぃ!』

 インカム越しに観生みうに呼びかけると、すぐに応答の声が届く。その観生は、河川敷近くのカラオケボックスの一室からPCを操作していた。テーブル上には空のグラスがいくつも並んでおり、今も右手をキーボード、左手にミルクティを持って、変異体を追尾するべく光学・赤外線・電磁波など各種探査方式を駆使している。

 刀弥もすぐに追おうと思ったが、有効な武器を何も持ち合わせていないことに気づき、追跡を断念した。今は観生に追わせ、あの強靭な変異体への対処を固めるべきだと判断した結果だった。

 それに加えて、周囲の状況を確認したところ―――

 部活や委員会活動で残っていた生徒たちの一部が、一階と二階から階段に集まってきた。校舎内外での騒ぎや下駄箱の倒壊、廊下を粉砕するほどの振動や何度も発せられた拳銃の発砲音に、トドメに巨大変異体の咆哮だ。「何が起こっているんだ?」と部活を中断して様子を見に来ていたのだった。

 踊り場から段上を見上げると、様子を見に来た生徒たちの最前列で、天音がへたり込んでいた。廊下に両手をつき、三つ編みが肩越しに垂れ下がる。

 刀弥は階段を上がり、天音に近づき、膝をついた。

「怪我は?引っ搔かれたり、噛みつかれたり―――」

「わたしは、だいじょうぶ」

 うつむいたまま、返答された。

『あーちゃん、一応処理班手配してるけど、救急いる?』

 観生からの問い。ここで「追跡はどうした」などと野暮な質問はしない。どうせやることをやっている上でのことだ。後処理の手配をしているからといって、追跡のタスクに支障が出るほど相城観生相棒の処理能力は低くないと知っている。

 刀弥は少し考えてから答える。

「校外ならば、どうせ誰かが呼んでいるだろう」

『そーだねー。この一○分で警察と救急に一七件、保健所には二件の発報があったからね~』

「校内は、これから確認する。負傷者がいればだ」

 刀弥は立ち上がって、一階に降りて状況を確認しようとする。

 その袖を、掴まれた。

 見下ろすと、天音だった。人差指と親指で力なく、しかし何かを訴えるように、ブレザーの袖を握っている。

 一○日前の河川敷でのことと重なった。

「蓮山、もう問題ない」

 早く状況を確認し、変異体による直接負傷者の有無を確認しなければならない。

 変異体の血液を含めた体液への接触は、一番の感染リスクだ。血痕があれば誰にも触れさせてはならないし、接触されたのならばすぐにPNDRカルーアの下に送って即時検査を受けさせなければならない。だから、その対象者がいないかを確認しなければならない。処理班が来るまではまだ時間がかかるだろうから、ここは刀弥自身が行う方がいい。

 そこまで考え、刀弥は思い至る。

 極度の緊張と運動で興奮状態の天音は、正しく自身の負傷を把握できていると言えるだろうか。落ち着いたときに負傷に気づくことはよくある。ならば、直接変異体に追われ続けた天音は一度検査を受けさせる方が無難だ。

「蓮山、やはり―――」


「問題、ない……?」


 か細い声が、刀弥の耳に届いた。

「問題ないって、何が……?」

 俯いたままだからこその、余計に消え入りそうな声量で。

「お母さん、あの化け物に、喰い殺されたんだよ」

 周囲の生徒がざわつく。「喰い殺されたって何?」「バケモノ?」「さっきの黒い塊のこと?」と、呟きを耳にした前列の数人がひそひそと話し出す。

 その状況を、天音は正しく理解できているのかいないのか。

「血だらけになって、お腹に噛みつかれて、ぼたって落ちて」

 自分の体を抱きながら、震える声で、嗚咽と共に。

「大丈夫って、言ったじゃない……」

 自身の意思とは別に、ただ、抑えられない感情を、そのまま吐き出す。

「全然、だいじょうぶじゃない……」

 天音は状況を正しく理解できていない。事情だってわからない。

 でも、今日、それこそ数十分前に、確かに蓮山天音の日常は破壊された。どうあっても修復できないほど、粉々に。

 天音が、顔を上げる。

 刀弥と目が合う。

 その目が示している感情がなんなのか、刀弥にはわからない。元より他人の感情の機微にさといとはお世辞にもいえない。それは自分のそれに対しても同じことだが。

 天音が抱いているのは、悲壮なのか憤怒なのか、もしくは哀愁なのか自失なのか、はたまた諦念か。

 それを感じ取ることも察することも、刀弥にはできない。

 

 なので、ひとまずすることといえば、

「一台回してくれ」

 ただ、インカム越しに観生に要請を出すだけだった。

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